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 ホテルの中庭は人払いされた。飲み物だけが黙って汗をかいている。さすがは一流ホテルの庭だけあって、植木は丁寧に整えられ、訪れた者の邪魔にならず、木陰は心地よくなるよう配置されている。風もよく通っていた。
 気になるものを見つけたのか、あっという間にノイは庭の緑の中に消えていった。
 東屋の椅子に向かい合って座ったイリスは、まだ信じられない気持ちで彼を見つめた。
 穏やかな人だとは思った。物腰も、気にすれば不思議なくらい洗練されていた。うかつな自分が不思議だった。まるで、見たくないと目を塞いでいたみたい。

「目が覚めたらあなたがいなくて驚きました」トゥンイラン――フラムは笑いを含んだ静かな調子で言った。
「船が運転できたというのは予想外でした。あなたはいつも、私をとても驚かせる」
 イリスは気まずく身じろぎした。
「どうして黙っていたの?」
 ドレスが輝きを放ち、フラムはまぶしそうに目を細めた。
「言ってくれないと……私、失礼なことばかりしてしまって」
「構いません。でも、ノイには悪いことをしてしまいました。彼は私のことを知っていて、最初にあなたに告げようとしたのですが、私が黙っていてくれと頼んだのです」
 フラムの視線をたどってノイを探すと、彼は数匹の蝶に囲まれていた。まるで彼に呼ばれたように、蝶はくるくると彼と戯れている。ジャングルの子どもみたいね、とイリスはその光景を軽く受け入れた。
「その方が気が楽でした。私のことを知らない、私自身を見てくれる人に出会いたかったから。父の二の舞にはなりたくなかったのです」
「ミスター・コウイムはあなたのお父様だったのね……」
 彼は微笑みすら滲ませて言った。すでに消化を終えているのだ。
「父と同じように妻を愛さない人間にはなりたくなかった。富で誰かに愛されたくもなかった……私は、私自身を見てくれる人がほしかったのです」

 イリスは気付いていなかった。彼女は踏み込み始めていた。一歩ずつ、彼の内に。

「あの日、あの夜。私は生涯の伴侶と出会うことを、占いで予言されました。そこであなたと出会ったのです」
 あのとき、ノイが説明したことの補足を彼はした。トゥンイランはトゥイの古い一族で、占星術によって運命を見ることがある。今の若者にそれを頭から信じている者は少なく、自分もまたその一人だった、と。
「あなたと過ごしたのは休暇の一環であったことは否めません。でも、実に楽しかった。あなたは私をトゥンイランだとは知らないし、久しぶりの家事や庭仕事は楽しかったし」
 恥じ入るばかりのイリスだった。
 そんな彼女を、フラムは柔らかな眼差しで見つめている。
「あなたを放っておけなかった。最初、あなたのことを、単にバカンスに来たセレブなのだと思っていました。でもそれにしては家から出て行くわけではない。遊び歩かず、ノイを家族のようにしてひっそりと暮らしている。気になって、あなたを知りたいと思って、いつしかあなたが欲しくなっていた。だから、つい色々手を回してしまいました。あの島があなたの慰めになればと思ったのですが……傷つけただけでしたね」
 首を振る以外の示し方はできなかった。胸に吸い込んだ息は感謝に変わる。彼らとの日々にあったのは愛だった。穏やかな優しさだったのだから。
「あなたがしてくださったことは、とても嬉しかった。誰にも脅かされない日々を思い出しました。もう二度と味わえないと思っていたから」
「あなたさえよければ、いつでも用意できます。あなたの親戚は『説得』させていただきました。もう二度と、あなたに危害を加えることはないでしょう」
 ルイたちは、イリスとトゥンイランのつながりを知って、身代金を要求するつもりで彼女たちをさらったのだという。最後に従兄弟たちを見た状況を考えると、少し恐ろしかった。顔に出てしまったのだろう、フラムは察していった。命までは取っていませんよ、と。
 そして時間がただ過ぎた。イリスは己の膝の上の両手に目を落とし、言うべき言葉を考えていた。まだためらいがある。まだ恐れがある。でも……。

「イリス。どうか私にあなたを守らせてくれませんか?」
 フラムは手を差し伸べた。
「あなたの望む平穏な日々は約束できないかもしれない。ですが、あなたがすべてに堪えて傷つく前に、守ることはできると思います。あなたをひとりにはしません」
 どうか、と彼は言った。願いを、その言葉にすべて託して。

「勇気を出して、私を愛してください」

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