第1章 翔空士と空船

 ――窓辺に座っている母は白い光に包まれている。
 少しの変化で伏してしまう人だったから、寝台から起き上がり、そんな薄着で座っているなんて、また寝込んでしまうではないか。
 お母様。寝台に戻ってください。また具合を悪くしてしまいます。
 セレスレーナが告げると、母は瞳をきらめかせて振り向いた。
 不思議な青い瞳。空の蒼とも海の藍とも違う、銀色の光が踊る、怖いくらいに綺麗な目がこちらを見つめる。
「レーナ」
 愛称で娘に呼びかけた母は、急に強く差し込んできた光に飲まれていく。
「レーナ。もしあなたがひとりぼっちになったなら、空に行きなさい。その場所に、あなたの求めるすべてがあるから――」


「――っ」
 息を飲み込んだセレスレーナは、起き上がる瞬間視界に入った短剣を奪い取った。鞘を払うと同時に短剣の持ち主――あの賊の男、そしてその仲間らしき女性と男性が距離を取る。
 切っ先を向けながら周囲の状況を確認した。
 前面には、黒く沈んだ硝子窓。備え付けられているいくつかの仕掛け箱のようなものと座席。中央には小卓と大きな舵輪がある。寝かされていたのは三つある椅子のうち、後部にあった二つのうちの一つだ。
 その乗組員らしい女性の方は金髪を少年のように短くして、体格はセレスレーナにやや劣るものの、かなり俊敏そうでこちらの動きを油断なく探っている。もう一方の黒髪を刈り込んだ男性は静かにこちらを見守っているが、全身には戦いの中で暮らしてきた重々しさがみなぎっていた。そして賊の男は、とぼけた表情が油断を誘うが距離が近いので不意を突かれればあっという間にねじ伏せられることは間違いない。
(操舵室? まさかあの空飛ぶ船の中だっていうの? そんな馬鹿な)
「その物騒なものを下ろしてくれないか。こっちには、あんたに危害を加えるつもりはないんだが」
 挙げた両手を軽く振りながら言われる。
「さらっておいてよくも……」
「だったら降ろしてやってもいいが、そのつもりはないんだろ?」
 手が震えた。炎の光景がよぎったからだ。
 戻りたくない。もうきっと誰も待っていない。血筋に疑いがある王太子よりも、傍系でも王族であるとはっきりしている者を貴族たちは支持するだろう。立太子したセレスレーナを指示すると言ってくれた叔父や伯母はいい人たちだが、やはり宝玉に認められなかった姪を持て余しているようだったから。
 ゆっくりと、手を下した。
「とんだ人助けね。助けてあげたのに剣を向けられるなんて。だからほいほい拾ってくるなって言ってるの。分かってる? ディー」
 奪われた短剣を鞘に収めつつ、彼は「シェラ」と女性を呼ぶ。
「刺されたら俺の日頃の行いが悪かったってだけだ。お前も煽るようなことを言うなよ。こいつは何が起こったのか分かってないだけなんだから。カジ、戦闘態勢を解除してくれ。お前が殴ったらまた昏倒しちまう」
 カジと呼びかけられた黒髪の男性にみなぎっていた覇気が消えた。まるで空気のように気配が薄くなり、セレスレーナの間合いから離れていく。
「……その通りよ。ここは、どこ? 空飛ぶ船を見たように思ったけれど、私、いつの間に気を失ったの」
 セレスレーナの問いかけに、シェラは両手を広げて呆れたことを表現してみせた。
「説明してあげなさいよ、船長」
「ここはオーディオンの操舵室。あんたの言う空飛ぶ船の中だ。気を失ったのは転送酔いだな。転送移動するとき慣れていないと気を失う。俺たちは《天空石》を回収するために世界中を旅していて、たまたまあんたの国の宝玉が《天空石》だった。それを回収し終えたから船に戻ってきたというわけだ」
 最後まで聞いてセレスレーナは言った。
「意味が分からない」
「ディー。説明するより、実際に見てもらった方が早いのではないか」
 カジが言う。見た目通りに低い、男らしいいい声だ。
「それもそうだな。よし――総員、配置につけ」
「了解」
 命じられた二人がそれぞれ窓の周辺に立つ。硝子球の点灯や点滅、床から感じるかすかな振動など慌ただしくなった操舵室で、戸惑っていたセレスレーナを男が促した。
「あんたは副長席に座ってな」
 後方の真正面に据えられた椅子より少し下がったところにそれは、先ほどまでセレスレーナが寝ていたものだ。今度は自分の意思で腰を下ろしている間に、船は鳴動を始めていた。
「目的地を虚空域の中継船団に設定。虚空域の状況は?」
「変質状態は段階二。変質嵐(へんしつあらし)は起こっていないようだ。安全に飛べるだろう」
「準備完了。いつでもいけるわよ」
 ふたりから答えを得た男は大きく頷いた。
「よし――オーディオン発進!」
 ぐうんと身体が押さえつけられるような感覚の後、大きく振り回されるのに似た圧迫感がやってきた。正面の黒い窓に雲が流れていくのが見える。そうして次には銀星の輝く一面の夜空が映し出された。
 強く輝く青い星は、北の導き星だ。
(空を飛んでる……本当に?)
 窓に飛びついて幻でないことを確かめたいのだが身体が動かない。
「翔空装置、起動。三十秒後に虚空域に入るわよ」
 装置を見ていたシェラがちらりとセレスレーナに目を向けた。
「吐くなら椅子の下に袋があるからそこにして」
 言われて、椅子の取っ手をきつく握りしめていたことに気付く。顔色も悪くなっているのだろう。怖いわけではないが、緊張のせいか胃の辺りに不快感がある。
 セレスレーナは斜め前に立っている男をちらりと見た。座らずに椅子の背もたれに手をかけて、部下が働くのを眺めている。この状況に慣れているらしい余裕の態度だ。
「三、二、一、……」
 宣言通り三十秒が経過した途端、身体も意識も中空に浮かんだような気がした。もしかしたら一瞬気を失ったのかもしれない。
 気付けば星も月も見えなくなっている。ひたすら灰色の何かの中を突き進んでいるようだった。
「虚空域に入ったわ」
「変質状態は段階二から一。落ち着いている」
 シェラがうーんと伸びをした。室内の空気が緩む。どうやら安全な状態になったらしい。セレスレーナの胃にあった不快感も和らいだ。
「……それで? これはどういう状態なの?」
「外に出ればわかる」
 にやっと笑いながら言われたので、渋々後に続く。操縦するふたりは船長の振る舞いを黙って見送っていたが、シェラがカジに向かって肩をすくめるのが見えた。
 操舵室の外に出ると強い風が吹きつけて、セレスレーナの夜着の裾をさらう。それを押さえつけながらゆっくりと前方の甲板へ回っていく。
 そうっと船のへりから下を覗き込む。水は見えず、ただ灰色だ。だが体感として水に浮かぶ船とは違い、雲の流れは平行ではなく下へ流れるようであったし、船全体が斜めに傾き上昇する感覚があった。
(本当に飛んでいるんだ……)
 甲板の中央柱につけられた洋燈が床を照らしている。その淡い光はまるで守りのように染み渡り、ともすれば闇の中に沈んでしまいそうな船の色彩を浮かび上がらせていた。周囲は先ほど見た通り濃い灰色の雲の中だ。
(……いや、ちがう。何か光ってる)
 雲の合間に光源がある。きらりと光っては色を変えているようだ。
 その光の球体が突然目の前に押し寄せ、わっと悲鳴をあげて倒れそうになったところを支えられた。
「よしよし、びっくりしたな。あれは蜃気楼みたいなもので、どこかにある世界の光景がこうやって映るんだ」
 なだめるように笑われたことにもむっとしつつ体勢を立て直して、目の前に浮かぶ光の球をまじまじと観察した。
 よく見てみれば、その光には様々な風景が映し出されていた――草原に多数の馬たちがいる。だがどの馬にも鳥の羽が生え、後ろ足で立ち上がったかと思うと、空へと身軽に羽ばたいていくのだった。
「……別の世界……」
 セレスレーナの呟きに、そうだと答えが返った。
「この世界は無数につながっている。生きているものも、国のあり方も文化もちがうその無限の異世界が、大樹が枝分かれするようにして連なっているんだ。それを渡るのが、翔空士」
 帽子を取って彼は礼をした。
「俺は翔空士ディフリート・アーヴレイム。ディーと呼んでくれ」
 聞き覚えがない名乗りは、普段なら詐欺まがいの口上として聞き捨てていただろう。だが飛行する船の甲板のわずかな振動、風の温度や感触、空気のにおいなどは紛れもない現実だった。
(世界の外に世界があったということ? 翔空士……異世界を渡る……)
 セレスレーナの生まれ育ったジェマリアのような国がある世界。空を飛ぶ船が存在する世界もあれば、翼を持った馬がいる世界もあるのだ。そして無数にあるというそれらを旅をするのが翔空士というものらしい。
(うらやましい)
 はっと息を飲んだ。今馬鹿なことを考えた。
 唇を噛んで目を逸らした時、手を差し出された。
「……何?」
「握手しようと思って。どうぞよろしくって意味の挨拶なんだが、あんたの世界ではどうするんだ?」
 変なことを言っていると思ったのが顔に出たのか「大事なことだ」とディフリートは言う。
「世界によって色々と習慣が違うんだ。握手するのが『決闘しろ』っていう意味になるとか、お互いの鼻をこすり合わせるのがよろしくって意味だとかになるとかな」
「それは……すごいわね」
 冒険物語に出てくる外国のようだ。そうした物語を読むとき、自分の常識が通用しないまったく知らない土地での決まりごとに主人公が戸惑ったり、慣れていったりするところを面白く感じたものだった。
 セレスレーナはディフリートの手を握った。
「分かった。握手しましょう。私の世界でも『どうぞよろしく』の意味だから」
「そりゃよかった」
 にっと笑うと印象が変わる。いたずらっ子みたいだ。
「手ぇちっちゃいなあ。俺の手にすっぽり入るぞ」
 握った手を上下に振りながら言うものだから意識してしまう。異性の手。大きくて熱い、自分とは異なる荒事に慣れた手。自分がか弱いと知らされてしまうような。
「い、いつまでつかんでるの! 握手ってそんなに長くするものじゃないんだけど!」
「おっと、悪い悪い」
 と言って離されるが、本当に悪いと思っていないだろう。
(あなたみたいな人は慣れているかもしれないけれど、こっちは異性と触れ合うなんて滅多にないんだから)
 男性に手を取られるとしたら挨拶の時に手の甲に口付けを送られるとき。あるいは夜会で踊るときくらいだ。それ以上は近付けさせないし近付いたこともない。



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