自動車は簡単に言うと馬を使わない馬車だった。箱車だけが《半天石》の力で動くのだ。屋根がない形のものらしく頭上と側面が吹きさらしなので少々強度が心もとない印象だが、ぴかぴかに磨き上げられている黒い車体はとても美しくて立派だった。黒革貼りの座席は前後に分かれており、前方にある舵輪で車を操るらしい。操縦するのはディフリートで、隣にセレスレーナ、後ろにカジが座った。
《半天石》が作動し、振動が伝わる。これから動くのだという緊張のせいか口を結んだまま隣席に収まったセレスレーナを、ディフリートが笑った。
「そんなに怯えなくても、危ない運転はしないぞ」
 反論する前にディフリートが車を発進させた。軽く座席に押さえつけられるような圧迫感を感じて慌てて口を閉ざす。
 だがそう感じたのは一瞬だけで、あとは気持ちのいい風が顔の周りを吹き抜けていく。
 街の景色があっという間に過ぎ、車は緑林地帯へ入った。思ったよりも揺れるが馬車よりも快適だし、最初に空船が翔空した時の気持ちの悪さに比べたらどうってことない。それよりも風を切る感覚が心地よく、そういえばジェマリアでは遠駆けするのが好きだったことを思い出し、さらに貴族の令息たちがそうした活発さを『うぬぼれや』と冷ややかな陰口を叩いていたことまで思い出した。
「どうした? 気分が悪くなったか」
「別に。何でもないわ」
 前を向いているはずなのに表情の変化を見て取る器用さが腹立たしくて、素っ気なくあしらった。ふうんと言ったディフリートは次の瞬間、凄まじい爆音を響かせながら車の舵輪を大きく右へ左へと切った。
「きゃああ!?」
 左右に振り回され悲鳴をあげる。車は道なき道を走っていたが、正面に大木が立ちふさがって叫んだ。
「危ない!」
 木がぶつかるところで車は大きくそれを避けたが、また同じことをやろうとする。セレスレーナは自分の座席にしがみつき、声を失って固まっていた。
 恐らく正しいと思われる広い道に出てようやくその危険運転は終わりを告げた。冷や汗をかきながら止まりかけていた息をどっと吐き出すと、隣で笑い声が弾けた。
「危ない運転はしないって言ったのに!」
「でも気分はよくなったろ?」
 セレスレーナは口をつぐみ、そしてぷっと噴き出し、声をあげて笑った。
 とんでもない運転だったが、恐怖と緊張感にさらされた身体が弛緩する感覚が楽しくてならなかった。
 同じようにディフリートが笑い、ふたりの笑い声が重なって響く。
「あんたはそうやって笑ってる方がいい。感情を抑制したり、ただにこにこするだけよりも、大口を開けて笑っていた方が信頼されることもある」
 笑いを納めてディフリートを見た。
 木々の間を通り抜けた光はきらきらと彼の横顔を照らしていた。弧を描いた唇の気負いのなさに、肩がふっと軽くなる。
 自分は今までどんな顔をしていたのだろう。理性的で、公平で、誰にでも好感を持たれるように微笑んでいたはずだった。でも誰かの前で楽しい気持ちのままに声を立てて笑ったことはあっただろうか。城下町が火に包まれた時も、父が亡くなったと聞いた後も、涙を一粒も流していない。ディフリートはそれに気づいているのだろうか。
「……ごっほん!」と背後から咳払いが聞こえて身体が跳ねた。後ろにカジがいるのをすっかり忘れていた。
「ディー。進路を外れている。計測器を見てくれ」
「お、おう。すまん。分かってる」
 危険運転を咎めないあたりに彼の静かな怒りが伝わってくる。ディフリートがいささか動揺した様子で返答し、今度は穏やかな運転で、目的のシュメリア湖を目指した。
「《天空石》はどうやって見つけるの? 翔空士はたくさんいるんだから、シュメリア湖にある《天空石》ってすでに見つけられているんじゃない?」
「捜索手段はいくつかあるが、現場に行くときには《天空石》の波動を計測器で捉えて、在り処に見当をつけるんだ。その後は自力でなんとかする。城の宝物庫にあるなら手に入れる算段をつけるし、地中の奥深くに埋まってるなら掘り出す。金と人手があればあるほど見つけられる確率は高くなるが、やっぱり最後は運がものを言うと俺は思う」
 ディフリートの説明によると、この世界ではある日突然木々が倒れたかと思うと、池や湖が出現するのだという。あの街はもともと地面の上に立っていたのが湖に沈んだので、それを生かす形で建物を積み上げ、道を作ったそうだ。
「シュメリアもそうやって最近発生した湖のひとつだ。それまで計測されなかった《天空石》がある日突然出現するっていうのはよくあることだ。それらしいものが見つかったら取り合いになる。いち早く情報を手に入れられるかどうかが鍵だな」
 やがて何か大きな音を聞いた。人の声もする。湖の周りに人が集まっているのだ。
 離れたところに車を停めて近付いていくと、岸辺にいる上半身を裸にした男性たちが湖に潜ったり土をさらったりと忙しなくしているのが見えた。どうやら水底に沈んだものを探しているようだ。
「計測器は湖を指してる。情報通りこの湖に《天空石》があるらしい。水に邪魔されてこの計測器の精度じゃそこまでしかわからんな」
「ここに? とんでもない広さだけど、人力で探すのはさすがに難しいんじゃない?」
 その疑問に答えるかのように、どどどど、と振動音が聞こえてきた。自動車かと思って首を巡らせてみると、首長の黒い竜が森から現れるところで目を剥いた。
 首長竜は湖に直進するとざぶざぶと水を分け入り、折りたたまれた首を大きく持ち上げて、巨大な顎で水の底を浚い始めた。掘り返された泥を岸にひっくり返し、何が入っているかを人夫たちが確かめ始める。
 ディフリートがちっと舌打ちした。
「掘削機まで出してきやがったのか。金に飽かして、あの野郎」
「俺の金をどう使おうと俺の勝手だろう」
 ディフリートが険しい顔をして振り返った先には、赤い髪と緑の瞳の伊達男が目をすがめて立っていた。
 ゆるく波打つ薔薇のような真紅の髪。切れ長の目。鋭く尖った刃のような美しい男性だった。ディフリートが真昼の光なら、彼は夜の炎。着ているものや身につけているものから翔空士だろうと分かるが、足首近くまである黒い外套は威圧感がある。
 彼はセレスレーナとカジに目をやり、怒りの形相になった。
「おい、てめえ。シェラはどうした?」
 セレスレーナは思わず青ざめたが、ディフリートは動じた様子もなく「船にいる」と答えた。
「あんたに会いたくないんだとさ。しつこい男は嫌われる典型だな」
「さっきも言ったが、俺のものをどう使おうと俺の勝手だ。俺のものを取り戻そうとして何が悪い」
 息を詰めた。どんどん険悪になるこれは、もしかしてシェラをめぐる痴話喧嘩だろうか。
(彼はシェラの別れた恋人? 同行するのを嫌がったのは彼に会うかもしれないからだったとしたら、たちの悪いつきまとい?)
 シェラの意外な過去に触れてしまった気がして居心地の悪い思いをしていると、彼の姿を見つけた人夫が「ヴェルティさん」と声をかけた。
「それらしいものが見つからねえ。もっと深いところをさらった方がよさそうだ」
「分かった。船と掘削機をもっと用意させる」
 そう言って懐から取り出した紙に書き付けたものを人夫に持たせる。受け取った人夫は「こりゃ大金だ」と呟いて森の中へ消えていった。乗り物らしき駆動音が響いたので恐らく街に向かったのだろう。
「それで? 俺は翔空士の仕事で忙しいわけだが『王子』はここに何をしに来たんだ?」
『翔空士の仕事』の部分を強調するように言った上に、『王子』の呼称はディフリートの神経を逆撫でしたようだった。声がどんどん低く、苛立ったものに変わっていく。
「忙しいのはあんたじゃなくて、あんたが雇った奴らだろう。俺たちもこの湖にある《天空石》を探しに来たんだ」
「へえ、逢い引きじゃなくて? 女を作ったから水遊びにでも来たのかと思った」
 からかいの笑みが投げつけられる。わざと怒らせようとしているのだと気付いたセレスレーナは、声を荒げるディフリートの袖を引いた。
「俺は翔空士だ! 異世界を渡るのは《天空石》を探すためだ」
「だったらこんなところで俺に突っかかっていないで、さっさと仕事をしたらどうだ。邪魔はしねえよ」
 どうやら相手をするのに飽きたらしく、外套の裾を揺らして背を向けられてしまう。ディフリートはそれを追いかけることはせずに、去っていく背中を睨みつけ、勢いよく顔を背けたかと思うとセレスレーナたちを置いて歩き始めた。



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