「ちょっと……!」
 カジが距離を保ったままディフリートを追いかけるので、セレスレーナもそれに続いた。隣に並ぶと、カジは深いため息をついた。憂いを帯びた仕草に小さな声で尋ねる。
「さっき話していた人、何者なの?」
「『ゾリスタンの手記』は読んだか?」
 繋がりが分からなかったが頷いた。すべて目を通したわけではないが、どんな内容かはざっと見ていたので知っている。
 手記を書いたのはゾリスタン・ルージャンという男性で、最も多くの新世界を発見、調査した伝説の翔空士らしい。ある日彼の空船が虚空域を飛んでいたところが発見されたが、船員の姿はなく、ゾリスタンの行方もまた今をもって分からないままだという。その船に残っていた彼の世界調査の手記は瞬く間に翔空士たちに広まり、製本され、翔空士の聖典のようなものになった。それが『ゾリスタンの手記』だ。
「彼はヴェルティ・ルーベルース。翔空王ゾリスタンの息子で、マギス・ロアの船長」
 翔空士の偉業と言われてもどのくらいすごいのかぴんと来ないセレスレーナにとっては、あの巨大な船の印象の方が強い。
「マギス・ロアって街で見たあの大きな船?」
『空飛ぶ火熨斗』と表現すると不敬になる気がしたので寸前で飲み込んだ。そうだとカジは頷いた。
「ディーとは顔なじみで、今は仲が悪い」
「今は?」
「昔はそうでもなかった。よく彼の船に招待されて食事をご馳走になった。何があったか分からないが、いつの間にか険悪になっていて、顔を会わせるたびにディーはヴェルティに嫌味を言うようになった」
 湖の周りを歩いていたので、ヴェルティたちが作業をしている岸が向こうに見えた。
 船で一緒に食事をするくらいなのだからずいぶん親しかったのだろう。その反動で仲違いした今ではかなり険悪になっているということか。
 ディフリートのことをよく知っているとは言い難いセレスレーナだったが、ヴェルティに対する態度はわざと悪い言葉や言い回しを選んでいるように感じられた。それも悪者の仮面をつけているがうまく装着できずちぐはぐになっているという感じだ。対するヴェルティは地なのだろう、もっと口汚くなれるがディフリートに合わせているようだった。
「もしかしてこだわっているのはディフリートで、ヴェルティ氏はそうでもないんじゃない? だってディフリートらしくなかった。わざと喧嘩を吹っかけようとしているみたいだった」
 カジはかすかに微笑んだ。
「よく見ている」
 口数が多い方ではなく、シェラがしゃべっている間もディフリートが行動するときも、黙って控えるか従っていることが多いカジなので、その表情は不意打ちだった。目立たないが彼は他の人が気付かない部分を守っているのだと思わせる悠然とした笑みだったのだ。
 そうすると今まで見ていたものが違って見える。控えめな態度や礼節をわきまえた姿は大人の魅力に溢れて感じられ、子どものような自分が恥ずかしくなった。
「どうしてそうなったか心当たりはある。こればかりは当人たちで解決するしかない」
「それってシェラのこと? ……もしかしてシェラってディフリートの恋人なの?」
 問いかけると急に心臓がどきどきし始めた。身近な人間が思いがけず複雑な恋愛をしていて、自分が下世話な質問をしている後ろめたさのせいか。
(でもこのちくりと刺す息苦しさはなんだろう)
「ああ、シェラは……」
「カジ! ちょっと来てくれ!」
 折り悪くディフリートに呼ばれてしまったせいで回答を聞くことはできなかった。呼ばれたカジは申し訳なさそうに断る仕草をして、ディフリートに追いついた。
 彼が手にしているのは時計のような形をした計測器だ。左から右に振れる針が強弱を示し、輪を描くように動く球が方角を示す。それは今、湖を差しながら二目盛りほど針を右に動かしていた。
「計測器の反応が弱くなってる。やっぱりあの岸が一番《天空石》に近いみたいだな。回り込んで捜索できないこともないが……」
「この人数では、機械を借りたとしても限界がある」
「ああ。どうするか……」
 ディフリートの顔を見ていると、今考えなくてもいい彼とシェラが恋人同士なのかという疑問がちらつく。自分で思うよりそうかもしれないふたりの関係が衝撃だったようだ。
(本当にふたりが恋人同士だったとしたら、シェラの態度に納得がいく。蹴りつけたり、わがままを言ったり……同じ船に乗っていることもそう。でもディフリートはちょっと無神経すぎない? シェラが見ていないからって私に親しい態度をとりすぎるのはどうかと思う)
 翔空士は海賊とは違うと思ったが、多くの船乗りがそうであるように女たらしなのだろう。彼の言動に振り回されないように気をつけよう、とセレスレーナは心に決めた。何人も恋人を作る男性の存在は知っていたけれど自分はその一人にはなりたくなかったし、恋をするなら男女の一対でありたいと思っていたからだ。
 ディフリートとカジは計測器を確認しながらどうするか話し合っている。底に沈んでいるなら潜るのが早そうだと思ったセレスレーナは、湖に目をやった先で、銀色の光が瞬いているのに気が付いた。
「レーナ、どうした?」
「湖で何か光ってる。ほら、あの作業している岸から湖の中央に寄ったところ」
 きらりきらりと光るそれは、不規則な水面の反射とは違い、呼吸するように繰り返し瞬いている。
「俺には見えん。カジ、分かるか?」
「いや」
「見えない? あんなにはっきりと光っているのに?」
 そんな馬鹿なと思うが、ディフリートは不思議そうに湖を隅々まで確認して言う。
「光が反射しているだけじゃないのか?」
「色が少し違う。もっと白っぽくて少し青い。本当に分からないの?」
 ああと言ってディフリートはしばらく考え、尋ねた。
「その光は、奴らから遠いのか?」
「ええ。もしその光を探しているのなら見当違いのところにいる」
 ディフリートは胸から時計を出して「十三時か」と呟いた。
「よし。一旦引き上げよう」
「探さないの?」
 嘘はついていると思われるなんて心外だ。引き止めようと口を開きかけたが、ディフリートは「疑ってるわけじゃない」と主張を封じた。
「むしろ信じてるから確かめたい。その光が夜になっても見えるか知りたいんだ。奴らの作業は恐らく日没の頃に一旦終了する。そのときにレーナが見ている光に近付けるはずだ」
 ディフリートはセレスレーナが見る光の位置を口述させて、カジの手を借りながらおおよその位置を導き出した。車に戻りながら、その光が湖の表面ではなく水の中で輝いているらしいことを確認し、船を用立てることが決められた。そして街へ戻り、時間が過ぎるのを待つことになった。

 夜になると街は闇の中に煌々と灯る洋燈のようになった。道は石燈と呼ばれる柱による光で照らされ、どんな建物も室内は真昼のような明るさだ。そびえ立つ街は四方八方に光の線を伸ばしている。ほとんどの店が営業しているようで、人通りも多い。
(あの石燈があったらどんなに便利だろう! あれが街にたくさんあれば、きっと夜の犯罪が減少するにちがいない)
 もっといろいろ観察したかったのだが、そんな夜の街から再び車を出し、湖へ向かった。
 ディフリートとセレスレーナが乗る車のほかに、借りた船を乗せていくもう一台の車をカジが運転している。前方に取り付けられた車の灯が森を照らすが、夜の森は別の世界のように不気味だった。闇の向こうに何かが潜んでいるのではないかと勝手に想像力が働いて怖くなってくるのだ。
 だがそれも湖のある開けた場所に来ると拭われた。周りに何もないために、月が小さな太陽のように空と湖を銀色に照らし出しているのだ。
 岸には掘削機が放置されているが、誰もいない。作業を中断して街に戻ったのだろう。
「レーナ。光は見えるか?」
「ええ。昼間よりも強く光っている。湖に星が落ちたみたいよ」
 ディフリートとカジは協力して船を湖に運んだ。乗り込むのはディフリートととセレスレーナだ。カジは岸で洋燈を灯して待っていてくれる。
 船に乗り込んだセレスレーナは《半天石》による動力を用いた小船の操作をディフリートに任せ、湖へ漕ぎ出した。
 勢いよく水を切って波を生み出す船もまた、セレスレーナの考え付かない進歩した文明の道具だった。漕ぎ手を必要とせず、操作器具を左右に動かせば方向を変えることができる。ただ車もそうだったが少々音がうるさいので隠密行動には向かない。
 ディフリートが船を停めた。
「多分この辺りのはずだ。どうだ?」
 セレスレーナが水面を覗き込むと、船の舳先の右側に瞬く光が見えた。
「そこにある。本当に見えないの? あんなに強い光なのに」
「残念ながら。だがこういうことは時々ある。多分あんたはそういう能力者なんだろう」
「特殊能力を持っていると思ったことは一度もないけれど」
「あの世界にいる限り分からないものだ。俺に会わなけりゃ一生気付かなかったかもな」
 あまり役に立たなそうだけれど、と内心で呟きながら、胸がほんのり温かくなったのを感じた。わずかでも国を置いてきた意味があったのが嬉しかったし、彼らにはない力が自分のあるだと知れたのは少しだけ優越感を覚えさせるものだったのだ。
 ディフリートが重石のついた網を手に立ち上がった。セレスレーナが教える位置に網を投げ込み、沈むのを待つ。そして船を動かして底をさらった。
「光は移動したか?」
「いいえ。網に入っていないみたい」
 ディフリートはもう一度船を元の位置に戻して同じことを試みようとしたが、セレスレーナは「待って」と声をかけた。
「底引き網を使うのはいいけれど、非効率的じゃない? これなら潜った方が早いわ。あの光、かなり明るいから今の時間帯でも迷わず潜れると思う。ちょっと行ってくるわ」
「行ってくるって、おい!?」
 セレスレーナは道具を収めた革帯や胴着を脱ぎ捨て、最後に靴を放り出すと、湖に身を躍らせた。水は震えがくるほど冷たく、あまり長い時間泳いでいられないと判断する。瞬く光の位置を確認し、大きく息を吸って潜水した。



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