アーヴレイム王国の城は、どこもかしこもつるつるしていた。どんな風に研磨すれば姿が写り込むようになるのか。しかし一方では柱や壁には見事な彫刻が仕上げられており、どんな職人が柱や窓枠の飾りを掘っているのかと考えた。
(この規模の城を作るのにも莫大な時間とお金がかかるし、それを維持するのにも凄まじい労力が必要だ。この世界はこれまで見たどこよりもとんでもないところなのかも……)
 この分だとこの世界の街はコルデュオルよりもっと進歩的なところなのかもしれない。ぜひ見てみたいものだ。
「この城から一番近い街ってどこにあるの? どうやって移動するの?」
「首都はここから空船に乗ってすぐの、別の島にある。城と同じくらいの規模の島の半分が街、もう半分が牧場や田園になってるんだ。収穫時期に上空を飛ぶと、島が金色に染まっているのが見られる。まるで黄金の島だよ」
 少し肌寒いが今は夏なんだとディフリートは言った。緑が一番明るく見え、太陽の光が高いところから降り注ぎ、早足でやってくる朝焼けはとても綺麗なのだという。
「でもどこもかしこも繋がっているわけじゃないなら、何をするにも空船を使うことになるんでしょう。大変じゃない?」
「そうだな。この世界では移動は基本的に空船で行うから、国民の八割が翔空士登録をして、船の規模はそれぞれ違うが航空士の資格を持ってる。学舎に通うと翔空士の科目は必ず学ぶことになったから、読み書きできない人間は一割もいなくなった」
「国民のほとんどは自分の名前が書けるってこと? ……それはすごいわ」
 ジェマリアでは貧困層の、特に農村部の子どもにはなかなか教育が行き届かない。学舎はある程度大きな都市にしかなく、通える子どもは少ない上に教育内容の格差があってなかなか均一化されない。それでも大人たちが「少しでも学べばいつか暮らしが豊かになる」と信じるようになって少しずつ学習への意欲が高まってきた状況だった。
 識字率が高まった理由は「航空士資格が得られるからだろう」とディフリートが言った。
「空を飛べないと仕事ができないから、みんな航空士になりたがる。そこに読み書き計算の教育をくっつけることを制度化したからうまくいったんだ」
「教育を受ければいいことがある、と目的をはっきりさせたのね。なるほど……」
 するとディフリートがはあとため息した。
「……どうしてこんなに色気のない話になるんだ?」
「話し始めたのはあなたじゃない。でも面白いからもっと聞かせて」
「後で。今は景色を見てくれ」
 廊下を抜けると風が吹き付ける場所に来た。外庭に当たる場所らしく、色とりどりの花が咲き、太陽を燦々と浴びて輝いている。香りも形も薔薇によく似た、棘のある美しい花だった。
 小さな階段を降りて庭に立つと、ふわりと裾と羽飾りが舞い上がった。気をつけないと身体ごと風に持っていかれそうだ。
 するとディフリートが手を差し出した。
「お手をどうぞ、姫君」
「どこかで聞いた台詞ね」
 けれど今のディフリートは、セレスレーナの城に対して仕立てのいい黒い服に身を包み、異世界の他国の城に忍び込んだ夜盗とはにても似つかない姿だった。そしてセレスレーナも、無気力になって宝物庫で死を待っているままではなかった。
 手を取り合って花の咲く小道を歩いていると、庭師らしき男性が帽子を取って頭を下げる。ディフリートが声をかけると嬉しそうに笑顔を見せた。
「今年も綺麗に咲いたな」
「はい。冬は少々冷えましたが、夏になるとだいぶと暖かくなりましたから」
「少し持っていっていいか?」
「お切りしてお持ちします。そちらの姫君にでしょうか?」
 ディフリートは笑って「察しがよくて助かる」と言って、その場を離れた。
 大きな影が地表を覆ったので空を仰ぐと、近いところにある雲が悠々と流れていくところだった。手を伸ばせばつかみ取れるのではないかと錯覚するほど、この世界は空の近くにある。
 この世界の一国の王になることを約束されているのが、ディフリートなのだ。
「あなたはどうして翔空士になったの?」
 先を行くディフリートが振り返った。
「王族が翔空士にならなければならないという義務があるわけではないんでしょう? 王子でありながら危険な目に遭うかもしれない翔空士になって《天空石》を探しているのは、何故?」
 彼はなんてことはない口調で答えた。
「世界を見たかったんだ。様々な世界、国や人、文化や価値観を知りたいって『ゾリスタンの手記』を読んだ子どもの頃からずっと思ってた。それを叶えただけさ」
「第一王子ということは、あなたが次の国王なんでしょう。なのに自らを危険にさらして、世界を見るという夢を優先させているということ?」
 信じられないと眉をひそめたが、ディフリートは飄々としている。
「机に座って報告書を読むのと、実際に目で見て耳で聞いて、この手で触れるのとでは天と地ほどの差がある。俺は自分がなりたいものになるために周りの批判や危険を承知でこうすることを選んだんだ」
「なりたいもの? 《天空石》を探して英雄にでもなりたいの?」
 英雄と聞いてディフリートは鼻で笑った。
「俺が《天空石》を探すのは、この先の百年、二百年の世界のためだ。俺が生きている間に《天空石》は回収されきらないだろうが、《天空石》が元どおりになれば虚空域が安定を取り戻して、人は様々な世界に安全に行くことができる。そうすればいろんな生き方を選べるようになるはずなんだ」
 そして、がらりと口調を変えた。
「なあ。もしここで初対面の人間に自己紹介するなら、あんたは何て言う?」
 突然の問いかけに反論しようとすると「いいから」と急かされ、しぶしぶ答えた。
「私はセレスレーナ・ジェマリアンナ。ジェマリア王国王太子、十七歳……こんなところだと思う」
「俺なら、自分の名前と、翔空士であること、船の名前はオーディオンだってことを言う。王子であることは言わない」
 それがどういう意味なのだと眉を寄せると、ディフリートは微笑した。
「自己紹介っていうのは、自分を自分たらしめるものが何なのかを表現するものなんだそうだ。つまりあんたにとって王族であることは自分の重要な要素で、俺にとって王子であるかどうかはどうでもいいってことだろう。……あんたのそれは、苦しいな」
 最後に付け加えられた一言はセレスレーナの心を怒りと困惑でかき乱す。
「どういう意味? 私を哀れんでいるの?」
 怒りを滲ませて低く問いかける。
 侮辱ならば容赦しないと睨みつけるのに、ディフリートは次第に苦しげになっていく。
「王族だから夢は持たない。王族だから自分よりも他人を優先すべきだ。そんな風にいろんな人間が『こうあるべきだ』と考えて作った型に自分を押し込めたとき、うまく順応する人間とそうでない人間がいる。あんたは後者だ。周りに無理やり型に押し込められて、その理想と自分の思いに引き裂かれそうになってる」
 そう言われて思い出す、父の言葉。
 ――王族に生まれた私たちは国を守る義務がある。だからお前は誰よりも強く、気高く、揺るぎなくなければならない。
 その言葉がジェマリア王国王太子セレスレーナを形作った。
 そんなセレスレーナは、子どもの頃から浴びせかけられていたひけらかしてという陰口や、出しゃばりなどと嫌な顔をされたことを恥ずかしく悲しく感じてきた。
 何故なら強くならなければならなかった。気高く、揺るぎなくなければならなかった。王族として立派に。父や周囲に認められる王女でなければならなかった――でも本心では、喜んでほしい、感謝してほしい、褒めて、認めてほしいと思っていたのなら。
 ――そうあるべきだと心に刻みつけた父の言葉が、自分を殺す型だったということになる。
「王女だと名乗るとき、あんたは笑えるか? 心からそれを誇りにして嬉しいと思えるか?」
 投げられた問いが大きく波紋を描いた。
 もちろんだと言おうとした。
 けれど声にならなかった。胸の息苦しさとせり上がってきたものが喉を塞いで言葉を奪い、唇を震わせていた。
 ふたりの間を吹き抜ける天空の風が、緑のさざめきと花びらを散らして舞い上がる。
 ディフリートの目はからかいの色などまったくない、真摯な光をたたえていた。心の底からセレスレーナを案じ、なんとかすくいあげたいというような苦しい色も帯びていた。
「レーナ、自分が何になりたいか考えろ。『なるべきもの』じゃなく『なりたいもの』を描け。誰がなんと言おうと、自分が目指すそれを否定するな。あんたはなりたいものになっていいんだ。この世界の空の下ではみんな自由に夢を見ていいんだから」
 そのとき胸元にぽたりと雫が落ちた。
 雨だろうかと思った拍子にぱたぱたと目から水の粒がこぼれ、困惑する。勝手に目の奥から涙が溢れてくるのだ。
(答えなくては。王女であることは誇らしくて嬉しいことなんだと。笑ってそう言えると、言わなくてはいけない)
 なのに涙が止まらない。まるで自分の中に知らない人間がいるかのようだった。どちらに従えばいいのか分からないで呆然としていると、広い胸の中に抱え込まれた。
「王族だからって泣かないはずがない、笑わないはずがないんだ。見られて困るなら隠してやるから、自分を殺したり犠牲にしたりするのは止めろ。そんなあんたを見ていて心が切り刻まれるような思いをする人間がいるってことを、忘れないでくれ」
 いやいやとセレスレーナは首を振って、腕を突っ張った。
「こんなのは私じゃない。ジェマリアの王女はこんなことで泣いたりしない。父上が亡くなったときにも泣かなかったのに、自分のことで泣くなんてそんな、薄情なこと……」
 背中に回されていた右手がふとセレスレーナの顎を掴んだ。
 泣き濡れた目をあげると、気づいたときには唇が重なっていた。
 息を飲んだその一瞬にもう一度口付けられる。強張りを解くように促す、優しい口付けだった。
 だが――。
「……あ、しまった」
 ぽかんとしていたところに聞こえたのがその言葉だったので、セレスレーナははっと我に返ると思いきり彼を突き飛ばした。ディフリートは態勢を崩し、花の茂みを押しつぶそうになったのを避けて横に倒れる。
「レーナ!」
 声を振り払って走る。彼の姿が見えなくなり、息が切れるほどっ進んだところで壁に背中を預けて呼吸を整えた。
(どういうつもりであんなことをしたの? 『しまった』ってどういう意味!?)
 唇の確かな感触を思い出して顔に熱が昇る。そして触れ合った一瞬、満たされた気持ちで何もかも忘れてしまったことも。
 セレスレーナはさまよう蜻蛉のようにふらふらと足を進め、どこをどう行ったのか分からないまま恐らく倍以上の時間をかけて与えられた部屋の近くにたどり着いた。
 ぼろぼろの姿で戻ってきたのにタリシャは驚いた顔をしたが、とにかく気を落ち着かせようと椅子を勧め、セレスレーナが唇を噛み締めているのを察知すると、何も問わないままお茶を置いていった。
「庭師がお花を持ってまいりましたので飾っております。ご覧になってくださいましね」
 彼女が最後にそう言って指したのは、先ほどディフリートが切るように頼んでいた庭の花だった。紅と橙の八重の花は目にも鮮やかだったが、心を慰められるよりも悔しい気持ちの方が強くなっていた。
(『なりたいもの』を考えろと言っていたけれど、何も考えられない)
 だって自分の気持ちに気付いてしまった。
「――私、ディフリートのことを好きになってしまっている……」
 口にするとまた目の奥で涙が生まれる気配がした。
 感情が溢れて制御できない。箍を外したのはディフリートだ。あんな風に言われて、心を彷徨わせているのを抱きとめられて、好意を持たない方がおかしい。そもそも国が攻め滅ぼされるそのときに、拾ったと言って救い出されたときからその気持ちが生まれていたのだろう。
 本当は嬉しかったのだ。生きろと言ってくれて。
(次に顔を合わせたときどんな顔をすればいいんだろう……)
 取るべき行動は分かっている。ジェマリア王国の王女として、口付けをなかったこととして処理し、毅然とした態度を貫くことだ。二度とそんな隙を与えぬよう己を律し、不埒は真似は許さないと公言する必要がある。
 けれど好きだと叫ぶ声は想像した以上に大きく、唇を噛み締めてなだめるしかなかった。



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