そのうちにカジとシェラもやってきて船内の積荷を確認した後、港の係員たちに見送られてオーディオンはアーヴレイム城を飛び立った。翔空装置が起動し虚空域へ移動すると、白と青の天空は虚空の濃い灰色に変わる。
 途端がたがたと船が揺れた。
「変質状態三か。安全に留意して航行してくれ」
「了解」
「久しぶりに荒れてるわね。かなり雲も濃いし」
 窓を見ながらシェラが言う。その間にも彼女は操舵室の機器を忙しなく動かしていたが、ふと副長席にいるセレスレーナににやりと笑いかけた。
「この状態でも酔わないなんて、結構空船に慣れてきたじゃない」
 だいぶと翔空に馴染んだのか気分が悪くなることはもうない。セレスレーナは笑みで答えたが、ふと甲板の洋燈が数度点滅したのが気になった。
「洋燈、もしかして火が尽きかけていない?」
「もう? 点検したはずだが、不良品だったか」
「取り替えてくる。倉庫に予備があったわよね」
 ディフリートが席を立つのを制してセレスレーナは外に出た。階段を降りて倉庫から予備の洋燈を持ってくる。この船に乗ったときはカジから受け取ったが、船の構造を知って自分で取りに来るようになったかと思うとくすぐったい気持ちと寂しい気持ちを覚える。
(これが最後の旅だけれど、楽しかった)
 甲板に行くといつもより強い風に慎重になった。飛ばされるほどではないが時々息苦しいくらいの強さになる。ゆらゆらと揺れている不良品の洋燈を下ろすと、灯してあった新しい洋燈を柱にかけた。
 炎の持つ不思議な光が船をふわりと包み込む。
 これでよし、と思ったとき、甲板に大きく淡い影が差したように感じた。なんだろうと見上げてみると、すごい速さで濃い色の雲が過ぎ去っていく。いつもと変わりない、けれど少し不安定らしい虚空域の光景だ。
 だがセレスレーナの目は雲が途切れた一瞬に親指の爪ほどの黒い何かを捉えた。
(なんだろう、他の船だろうか)
 今まで行きあったのは衣類商人のブランシュだけだったが、同じ航路を飛んでいる船なのかもしれない。左手に着けている腕輪が光ったので石を押すと、ディフリートの声がした。
『レーナ? 洋燈を取り変えたんなら早く戻ってこい。風に吹っ飛ばされるぞ』
「今戻るわ。そういえば上空に船が、」
 いるみたい、という続きは言えなかった。ほのかだった影は濃さを増し、振り返るとものすごい勢いで接近するところだったのだ。
 しゅうっと蛇のような音がしたかと思うと甲板に黒い塊が降ってくる。むくりと起き上がった塊は覆面をした人間だった。頭上の船とつながった縄が彼らの腰に結びついている。
 セレスレーナが抜刀するのと相手側が甲板を蹴るのは同時だった。速い、と思ったセレスレーナは後ろに跳んだが、それよりも相手の銃の引き金が絞られる方が早かった。
「っ!」
 とっさに横に飛ぶ。光の弾が撃ち出され甲板の上で弾けた。横目で追ったセレスレーナの前に白刃が迫り、鋭く息を吐いてそれを避ける。
「レーナ!」
 操舵室から飛び出してきたディフリートが発砲すると、襲いかかろうとしてきた者たちは素早く飛び離れた。両手両足が別の生き物であるかのような跳躍力で、かと思えばありえない速度でこちらの懐に飛び込もうとする。
 セレスレーナの剣が縦に振り上げられるが、蛇か蛙のようにぐねりと身体を捻じ曲げて避けられる。ディフリートの銃ですらその動きを封じることができない。
「っ、なんなんだこいつらは! 賊にしてもこんなやつら聞いたことないぞ!」
 焦った様子でディフリートが言う。その後ろからカジも剣を手に姿を現した。セレスレーナは彼らに合流しようと退路を確認したが、その狙いを知っているかのように進路を塞がれる。折しも突風が吹き、セレスレーナの呼吸が乱れた。閉じてしまった目をはっと開けると、相手の銃がディフリートを狙っていた。
 その瞬間セレスレーナは甲板を蹴り、銃口の先へ飛び出していた。
 相手の獲物が短剣だったなら確実に防げたはずだし、銃であってもただの攻撃なら弾くことができたのではないかと思う。だがその銃が放ったのは見えない力で、刃に触れたと思った途端息もできないほどの衝撃が全身に走った。
 剣を取り落とし地に伏す。
 手足が動かない。声が、出ない。意識が消えそうになっていく。
 しびれ薬と睡眠薬を同時に飲まされたかのようにびくびくと震えるセレスレーナを、覆面の一人が担ぎ上げた。
(彼らは何者? どうして私をさらう……)
 だが腰に装着した縄を素早く巻き上げた彼らは難なくそれを避けると、セレスレーナを連れて船へ戻っていく。身体も意識も不安定にゆらゆらと揺れていたセレスレーナは、愕然と見上げるディフリートの姿を最後に見て、気を失った。


 ディフリートは船に戻っていく襲撃者たちに狙いを定めて発砲したが、かなりの手練らしく一発もかすめずに船に戻っていった。帆船型の巨大な船は一気に速度を増し、オーディオンを振り切って逃げていく。
「くそっ、なんだあいつらは! 俺たちが虚空域に出るのを待ってたのか?」
 操舵室に戻ったディフリートはシェラに尋ねる。
「どこの船か分かったか?」
「いいえ。確認できたのはごく一般的な空船だってこと。ただそれに見合わない強力な動力を備え付けてあるってことよ」
「どこへ行ったかは」
「レーナの腕輪を追跡している」
 カジがそう言って画面を睨んでいたが、小さく唸った。
「どうした」
「……反応、消失。腕輪に気付かれたらしい」
 ディフリートはぎりぎりと拳を握りしめた。
(落ち着け。あいつらはただの空賊じゃない。あの人数だ、ただの賊なら船を制圧して積荷をぶんどっていっただろう。そうはせずにレーナだけをさらった。人身売買目的の人さらいか? それともレーナだけを狙ったのか?)
 セレスレーナには翔空士、特に《天空石》を探索する者たちにとって価値ある能力が備わっている。《天空石》が光って見える力があるのだ。
(情報が漏れたのか?)
 アーヴレイムの王子としては王立研究所の防犯対策を信じたいところだが、フェリスフェレスでは各国が間者を送り合っているためどこに漏れても仕方がない。だが別の可能性もある。
(……レーナ本人が気付く前に、別の誰かがその能力に気付いていたとしたら?)
 セレスレーナは幽霊に宝玉の光を飲まされたことを、父親と神官たちに話したという。彼女が見たものは誰も見ていないと言われたらしい。
 しかしその立太子の儀式にいたのは彼らだけはないとも言っていた。
 参列していた人々の中に彼女が《天空石》の波動を取り込んだと知った者がいたとしたら。たとえばこの空のあらゆる場所に耳があるというターレントーリスなら――。
 思考に沈んでいたディフリートは鳴り響いた警報で我に返った。
「二時の方向、接近する船影あり!」
「あの船か!?」
 言って前方を睨んでいたが、違った。遥かに巨大な艦艇型だ。見慣れた黒色の空船に今度は歯噛みした。こんな時に出てきやがるなんてと思ったのだ。
「マギス・ロア……!」
 翔空王の息子として、現在数多存在する翔空士の頂点に最も近しい者であるヴェルティの船だった。
『よお、ディフリート』
 船の通信機がその声を響かせる。ディフリートは大きく深呼吸した。
 心を揺らしてはならない。今はセレスレーナのことを優先する。
「……コルデュオルぶりだな、ヴェルティ。わざわざ挨拶するために進路を塞いだのか? 悪いがあんたの相手をしている暇はない。退いてくれ」
『忙しそうだな。お前の船の新入りのことでか?』
 だというのに一瞬思考が飛んだ。シェラとカジが息を飲んでいる。喘ぐようにディフリートは問い返した。
「……てめえ、何を知ってやがる?」
『彼女を探していた知り合いに、お前のことを話しただけだ。異世界の姫なんだってな? 道理でお前と似合いだなと思ったよ』
 ばん! とディフリートは舵輪を叩いた。
「はっきり言え! 何が目的だ!?」
 通信の向こうでヴェルティはくつくつと笑っている。
『気が合うな、俺もぐだぐだするのは好きじゃない。――コルデュオルの《天空石》を渡せ。あれは俺の獲物だ』
 眉をひそめる。怒りよりも訝しく思う気持ちの方が大きくなった。
「……らしくない要求だな。あんたはそんなことにいちいち目くじら立てるやつじゃないと思ってたんだが?」
『お前だからだよ、ディフリート。他のやつが相手ならこんな要求はしない。だがお前だけは許せない』
 深く息を吐いた。確執の深さを思い知りながら、黙って状況を見守っていたカジに言う。
「……アーヴレイム王立研究所に連絡して、コルデュオルで発見した《天空石》をマギス・ロアのヴェルティに渡すよう言ってくれ」
「ちょっとディー!? あんた……」
 シェラは声を慌てて抑えたが、通信機の向こうでも驚愕で言葉を失った気配が感じられた。だが生憎と冗談でもなければ油断を誘う作戦でもない。
「今は《天空石》なんてどうでもいい。それよりもヴェルティ、交換条件だ。セレスレーナをさらった奴らとその行き先に心当たりがあるなら教えてくれ」
『……親切に教えてやると思うのか?』
「必要ならそっちに行ってお前の目の前で地面に頭をこすりつけて頼む」
 ヴェルティはその光景を想像したのかもしれない。不愉快そうな声が尋ねた。
『何故あの姫さんにこだわる? 《天空石》を識別する目を持っているからか? それとも船に乗せた義理か。船長として見過ごせないか?』
 船は、小さな王国だ。そこに客人として招き入れた人間がさらわれたなら、救うのは王である船長の義務だろう。
 だがそんなものくそくらえだ。
「助けたいから助ける、それ以外の理由を聞きたいか?」
 沈黙が答えだ。
 どれが最初だったのだろうと思う。口付けしたいほど可愛いと思ったときから? 抱きしめて泣かせてやりたいと思ったときか。誰かの役に立たなければと必死になっている姿を見たとき、もっと肩の力を抜けばいいのにと考えたときにはすでにそうだったのかもしれない。
 薄暗い宝物庫で膝を抱えていた彼女は、役に立とうと立つまいと、そこにいるだけで宝玉よりも尊い。
「――彼女が好きだ。だから助けに行く。俺があいつを救うんだ」
 空の妖精がもたらしたはずの言葉が失われたかと思われた後。
 数秒経ってからマギス・ロアの操舵室から割れんばかりの歓声が響いた。



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