風が吹く。草原を渡り雲を運んでいくそれは、セレスレーナの背中を押して前へと歩ませる。
(振り返るな)
 熱くなった頬をこすり、進んでいく。
 そうして前方に、空を見上げるディフリートを見つける。
 マリオの元へ送ってくれた彼は、セレスレーナが屋敷に誘うのを断って外をぶらついていると言ったのだった。雲の間から降り注ぐ太陽の光を浴びて、彼の白い髪はますます輝き、空の一部のように見えた。こちらを振り向くのが惜しいくらいに綺麗な姿だった。
「どうだった、ちゃんと会えたか?」
「ええ。無事を報告してきた。国の状況も聞いてきたけれど大丈夫そうだった。いつも父上と比較されてしまうけれど、叔父上は優秀な方だからきちんと国を守ってくれると思う」
 そうか、と答えるディフリートも安心したようだった。
 隣に並んで空を見ながら言葉を探した。自分の選択をどう切り出せばいいのか分からなかったのだ。
(一緒に行きたいと言って、必ずいいと言ってくれるわけではないし……)
 以前のように言葉が軽いと言って聞き流されることはないだろうけれど、うまく説明できると自信を持てないのがセレスレーナを沈黙させていた。
 それに気付いていたのかディフリートが「そういえば」と口を開いた。
「マリーヤと話をした。レーナが言ってた『勘違い』について」
 そこは本人じゃないのかと思ったがせっかくの話題をふいにしたくなったので黙って聞く。
「レーナの言う通りだった。風が生まれたから空があるのか、空が生まれたから風があるのかって話だな。俺は先にヴェルティが態度を変えたと思ったけど、ヴェルティにしてみれば俺が先に態度を変えたように思ってたらしい。本人に聞く前に行っちまったけどな」
「じゃあ追いかけて仲直りしなくちゃいけないわね」
 ディフリートはすぐに返事をしなかった。
「……でも顔を見た途端またむかむかして、同じような態度を取る気がするんだよなあ。だってあいつかっこいいんだ。翔空王の息子って期待されるだけあってすごい翔空士なんだよ。どれだけ努力したか考えると、すごいなって感想しか出てこない。船に乗せてくれって頼んだことがあったんだが『家族しか乗せない』って断られて悔しかった。シェラが羨ましかったよ」
 そういえばあの騒ぎの中、ヴェルティはまるで挨拶のようにシェラを船に誘っていた。シェラはずっとヴェルティを会いたくなかったのだろう。緑林世界に降りることを拒んだのは勧誘を避けるためにちがいない。
「でもマギス・ロアは家族しか乗せないんでしょう? ……ああ、妻として乗れってこと?」
 いかにもそういうことを言いそうだと呆れていると、ディフリートは意味ありげに笑った。
「シェラは翔空士として一流の能力を持ってる。父親に似たんだろうな」
 父親はいないと言っていたシェラ。家族しか乗せないヴェルティのマギス・ロア。つまりはそういうことらしい。
 だがそれに言及せずディフリートはぼやいている。
「あいつがいなくなるとほんと困るんだ。おかげで楽させてもらってるが、代わりに『こき使って』って嫌がられてる。そろそろ新しい乗組員を選ばないと本気で逃げられちまう」
 どきりと胸が鳴った。
「……新しい乗組員?」
「そう。仕事は俺たちが教えるから初心者歓迎。将来操船できる航空士になる気概があるといいな。そして出来れば、戦えるやつがいい。あんまり強いと心配になるから、まあほどほどに」
 鼓動が高鳴り顔が熱くなった。ディフリートの顔を見ることができない。
「オーディオンは翔空士でも《天空石》の回収に当たっている。あちこち行くし、食料や寝床の確保に必死になる危険な旅だ。命を粗末にするような輩には務まらない」
 どこかで聞いたような台詞にくすりと笑みがこぼれ、ディフリートもまた吹き出した。
「今なら立候補を受け付けてる」
 セレスレーナは目を閉じた。
 自暴自棄になって彼に救われたこと。彼の言うことに反発したこと。自分を大切にする本当の意味。
 最も大事なとき、心の声に従え。選択が導く成功も失敗も受け止めて進むことで、開ける未来がある。
(まだ私が知らない私を彼が見つけてくれる)
 セレスレーナは手を伸ばした。
「ちょうどよかった。私も王女を廃業したところなの。今度は翔空士になろうと思うんだけれど、よかったら立候補させてもらえないかしら?」
 その手を取ってディフリートは答えた。
「――船長権限で採用だ。ようこそ、オーディオンへ」
 笑うふたりの間に、腕輪から声が届く。
『ディー! あんたいつまでぶらぶらしてんの!? ルチルさんが手を貸せっていってきてたの忘れたの!?』
『ディー。本国から連絡が来ている。ヴェルティに《天空石》を渡したが何がどうなっているか説明を請う、だそうだ』
 ディフリートは天を仰ぎ、忙しさを呪っている。セレスレーナは空を見上げ、オーディオンの影を探した。見えないようにしているはずだが、転送を行うときには解除するはずなのでじきに姿を見せるはずだ。
「……綺麗だな」
 ディフリートが言うのに頷く。
 雄大さを感じさせる、雨を蓄えた大きな雲。風の強さを示す草の波。大地の香り。すべてが光をまとって鮮やかに見える。
 そうしてひとつの願いが形を作った。
「……空の妖精の言葉がどういう意味なのか知りたい。《天空石》を守るってどういうことなのか。《天空石》って何? それに私に宿った《天空石》の力のことも」
 かざした自分の手のひらは、少し荒れて、弱々しいけれどゆっくり強くなっていこうとする、ごくありふれた手でしかない。
 胸の中に沸き起こる母の言葉がある。
 ――レーナ。もしあなたがひとりぼっちになったなら……。
(私の求めるすべてって、何なんだろう?)
 雲から姿を現した太陽がちかりと目を射る。眩しくて一瞬目を細めたとき、ディフリートが言った。
「世界に散らばった《天空石》とその謎を探す旅だな。こりゃ一筋縄じゃいかなさそうだ」
「なんだか楽しそうに聞こえるけど?」
 彼は晴れやかに笑った。
「楽しみだろ。何が起こるかわからないんだから」
 不安が渦巻く胸にさわやかな風と光が吹き込んで、セレスレーナは笑っていた」
「忘れない、この空を。私を生み育ててくれた世界のことを、他の世界で語れるように」
 行こうと声をかけようとしたのに、突然ディフリートに引き寄せられる。
 驚いている間に、唇を唇で塞がれてしまった。
「……あ」
 するとまたそんな風に声を漏らすので、セレスレーナは目を吊り上げ、今度は拳を作って胸を突いた。
「痛っ!」
「あ、あなたねえ! また『しまった』って言おうとしたでしょう!? 人の唇をう、奪っておいて『しまった』ってどういう意味なの!? 馬鹿にしているの!?」
「いや、違う。誤解だ。しまったっていうのは自分に対してというか……」
 ディフリートは両手を挙げてがっくりと項垂れる。
「……こうなるのは分かってたんだ。だから理性を総動員させて自制してた。なのにあるとき『ぷつーん』と来るんだよ。だからつい『しまった』と心の声が」
「分かるように言って」
「……忍び込んだ宝物庫で膝を抱えるあんたを見てから気になって仕方なかった。話してみたら、あっという間に好きになった。我慢してたけどどうしようもないときがあるんだ。……悪かった」
 ディフリートはひどく気まずそうにしている。セレスレーナの頭に疑問符が飛び交っていたが、もう一度よく彼の言ったことを吟味すると、一気に熱が昇った。
(そういうことなの? 本当に……?)
「大丈夫、船長としてそこはしっかり規律を守る。でないとシェラやカジに合わせる顔がないからな。だから安心して――」
 ここまで来てまだ言葉を重ねるのを無視して、セレスレーナはその胸に飛び込んだ。
 さあっと強い風が吹き抜ける。
「……私も、あなたが好き」
 草の音に紛れてしまいそうな囁き声だったので、気持ちを奮い立たせて告げる。
「あなたといると、自分のことがもっと好きになれる。大事しなくちゃって思うことができるの。そしてもっとあなたにふさわしい人間になりたいと思う……」
 顔が見えるように離れて、笑う。
 どんなものにもおもねることのない素直な気持ちで。
「あなたに好きだって言ってもらえて、私、今また自分のことが好きになった」
 ディフリートは額を押さえて呟いた。
「参ったな……すごい殺し文句だな、それ。精一杯答えなくちゃと思っちまう」
 すると彼は懐から腕輪を取り出した。セレスレーナの腕にそれをはめて、左手の指の背に口付ける。
「――きっとあんた以上の宝物は、連なる世界のどこを探したって見つかりやしない。空と風にかけて一生大事にすると誓うよ」
「私もあなたを大事にする。あなたが大事にしてくれる、私を大事にする」
 それがセレスレーナの誓いだった。
 手を取り合いながら次はどんな世界に行くのだろうと考える。でも何があっても大丈夫だと信じることができた。傷付くことがあっても、苦しい思いをしても、道を指し示してくれる彼がいる。
 再び唇が重なる、その空に白い帆船が姿を表す。青い空を悠々と泳ぐそれに大きく手を振った。もうつかれた、逃げたいとは思わなかった。
「ねえ。……ディーって呼んでいい?」
 ディフリートは目を丸くして、頷いた。
「もちろん。なんならふたりだけで通じるあだ名でも作るか?」
「……それは嫌」
 低く言って「今は」と付け加えるとディフリートがくつくつと笑う。にくらしくてその胸をどんと突き飛ばして歩き出すと、後から走ってきた彼に手を掴まれて一緒に走り出した。
 走るとどんどん楽しくなってきた。このまま空を駆け上がってオーディオンに乗れるのではないかと思える。
「私、自分を買い戻すことができたかしら!?」
 息を切らし大声で尋ねると、ディフリートは笑った。
「ああ。お釣りがくるほどな!」

 翔空衛団を率いるルチルには故郷を離れることを伝えると「そんな気がしてた」とあっけらかんと笑われてしまった。そこに同席していたシェラとカジに正式に乗組員として挨拶をすると喜んでくれた。
 シェラの「やっと後輩ができた! これで仕事が減るわー!」が本当に歓迎の言葉なら、だけれど。
 そして今日もセレスレーナは翔空士として異世界の空を渡っている。
 自分やディフリートをはじめとして、実は王侯貴族でありながら翔空士になる者は多いのだと知った。特に彼らの出身世界フェリスフェレスのような空船があって当たり前の世界ではよくあることなのだそうだ。
 つまみをひねれば火がついたり水が出たり、すぐに湯が作れるような文化のある世界で、うまく道具が使えなかったりまずい料理を作ってしまったり、失敗も多いけれどセレスレーナはいつも思う。
 自分を嫌いになることもあるけれど、以前の私よりもずっと好きだ。
 新しい世界の空を見上げるセレスレーナに、ディフリートが尋ねる。
「今日の空はどうだ?」
「とても綺麗。だって――」
 風になびく髪を押さえてセレスレーナは笑う。
 大切な人と見る空はいつどんな空だって特別なのだと伝えようとして――引き寄せられた。

 天の青は空を飛ぶ船の白い帆を輝かせ、その下で重なる合うふたつの影を包み込んでいた。


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