第1章 花嫁
 

 ぽくん、と泡の弾ける音がした。
 目を開くと青い世界が広がっている。夢の続きだろうかと思ったのは一瞬のことで、しばらくもしないうちに、それが石でできた天井だということに気付く。瞬きを繰り返せばはっきりと、建造物だということが見て取れた。
 ゆっくりと起き上がると石造りの小さな部屋が見回せる。リカシェが寝ていたのは長方形の箱――すぐ近くの床を見れば、百合と剣の彫刻が施された一枚の板があり、自分は確かに葬送に使用される棺の中にいるのだと分かった。
 でも、生きている。頬に触れて、びくりとした。
(冷たい……)
 だが嫌な温度ではない。いつもよりもずいぶん体温が低いだけで、感触もあれば、触れているうちに少しずつ暖かくなる。
 でも自分は棺に入れられて川に流されたはずだ。
「……ここは……」
「お目覚めですか?」
 呼びかけられて小さく悲鳴を上げた。
 背後にあった入り口に、見知らぬ青年が姿を現していた。一目見て、リカシェは目を丸くした。
 髪が青い。
 年の頃は二十代前半、すらりと背が高く、穏やかな微笑を浮かべると子どもたちに好かれそうな村の若者といった容貌だが、簡素だが仕立てがいい丈の長い詰襟を着こなしている様から、いずれかの高貴な人物に仕える従士だと思われた。
 特徴的なのは肩に垂らされた青い髪で、染めたとしてもここまで鮮やかな色にはならないだろうという練り込まれた青だ。瞳もまた同じ色をしていた。
「どうぞ、こちらへ。王がお待ちです」
 彼は呆然とするリカシェに静かに呼びかけると、手をかざしてついてくるように指し示した。わけがわからないまでも、このままここにいても事態が何も動かないことは察せられたので、大人しく棺から出た。
 裸足の足に、青い石の床は冷たい。自分の城を裸足で歩くのと変わらない感触で、これが夢なのか現実なのかますますわからなくなってきた。
(ひとまず、彼についていこう)
 石の部屋の向こうは、同じく石の廊下が続いていた。何もかもが青く、窓から差し込む光、外の景色さえ青だった。世界のすべてがその色で染まってしまったかのようだ。
 目の前の青年でさえ髪も目も服も青いのに、リカシェだけがまるで異質なもののように、自分の色彩を保っている。
 窓に映るのは、赤みを含んだ茶色の巻き毛と緑の目をした娘だった。顔は青白く、つり上がった目は猫のようで、視線を向けただけなのに「睨むとは可愛げのない」と父によく疎んじられていた。病没した母から受け継いだ野薔薇の色をした唇だけが娘らしいものだったけれど、それが綻ぶのは弟の相手をしている時だけ。相手を服従させることを生きがいとする男たちに微笑みかけるなんてまっぴらだった。
 先を行く従士が立ち止まったので、リカシェは窓から目を外し、道を急ぐことにした。
 行けば行くほど、どこにでも見られる古城のような場所だという思いを強くした。剥き出しの石、簡素な装飾、等間隔に並べられた無骨な燭台。途中にある部屋には、おそらく綴織の壁掛けが飾られていることだろう。
 長い廊下を抜けるとそれが一変する。ごつごつとしていたはずの石は己の姿が映るほど平らに磨き上げられ、天井は高く、無数のアーチがレースを編むがごとく組み合わさっている。波のように広がる大階段、手すりは滑らかな流線を描き、柱には複雑な文様が彫り込まれている。先ほどまでいたのが戦に備えた城なら、ここは戦うことのない貴人が住まう芸術品の城だ。
(この城の『王』という方は、いったい……)
 急に恐れが湧いてくる。例えヘルブラーナのシステリオ王を前にしたとしても、これほどの恐怖を感じることはないだろう。それほどまでにこの城の壮麗さ美麗さは、城主の持つ力を感じさせた。
 従士は静かに大階段を登っていく。そっと続いたリカシェは、やがて天井までもある巨大な扉に行き着いた。
 声をかける必要もなく扉が開く。
 玉座の間と分かる部屋だった。一族を示す旗も歴史を表す綴織もなかったけれど、まばゆい光と濃密な静寂は王が在るところのそれだったからだ。
 案内役だった従士が初めてリカシェに先を譲った。震える心臓をなだめながら、水色と青のモザイク模様の床を、玉座の傍らの人影めがけて進んでいった。
 玉座に至る段の最下から少し離れたところに控えて、リカシェはゆっくりと膝をついた。
 視線が注がれているのを感じるだけで、全身が震える。
「立て」
 いん、と響く厳しい声。覚悟を決めてリカシェは立ち上がり、顔を上げた。
 息を飲む。自分の見たものがいったい何なのかわからなくなる、それくらい美しいひとが立っていた。
 月の光を紡いだ髪。星をはめ込んだような瞳。白い肌、唇、その吐息すらすべて銀で出来ているかのようだ。青地に銀の刺繍が施された衣装に身を包み、王の証たる外套は夜の闇を連れているかのように床まで広がっていた。リカシェの知る最も美しい人といえばオルクディア一族の長の妹フィーリアだったが、眼前のその人は男性であるのに比べ物にならない。老いているようにも、年若いようにも見える、見るものに混乱をきたすような壮絶な美貌だった。
(この人……いえ、この御方は……)
「そなたが此度の花嫁か」
 絶句するリカシェに投げつけられたのは、ますます困惑を誘う言葉だった。
「……花嫁……?」
 響くどころか理解していないリカシェに向けて、彼は淡々と続ける。
「この城の中はどこでも自由に歩くがいい。だが私の許可なくば外出は許さぬ。必要なものがあれば、そこにいるセルグに申しつけよ。城の西棟は我が妹の住まいだ、近付かぬことを忠告、」
「お待ちください! なんのことかわかりません! ここはどこで、あなたはどなたなのです、花嫁とは……」
 遮られたことに彼は不快感をあらわにした。その怒気に震え上がりながらも、リカシェは譲れないという意思を目をそらさないことで表した。
 わずかに眉をひそめつつ彼は告げた。
「我が名はハルフィス。この都市の主だ」
 ハルフィス――銀の髪と瞳。剣を佩き神駒を従える、冥府の門の番人。
 人は、死した後、冥府の門前にある水葬都市に行く。その地でさだめられた時を過ごした後、門の内側へ迎え入れられ、本当の死を迎えるのだ。冥府には大神ニルヤが御座し、やってくる魂を守っている。そして望む者には次なる生を与えて送り出してくれるのだという。
「ここは水葬都市(アタラクシア)、その私の居城だ。そなたは古き盟約に従って地上の者が捧げる供物、白百合の棺に運ばれた我が花嫁」
 勝利を祈願するために男たちは乙女を捧げる。乙女は死者の都の王の花嫁になり、かの大神の加護を地上の者にもたらす――それは生贄の儀式を神話で彩った、ただのおとぎ話のはずだった。
 だが恐ろしい美貌の王、青い世界と城は、リカシェの目の前に確かに在る。
「水、葬王……?」
「花嫁を捧げた者にニルヤは加護を与えることだろう。そなたの役目は果たされた。喜ぶがいい」
 リカシェの呼びかけに何の感慨も抱かない様子でハルフィスは告げた。
 水葬王。水葬都市。供物。生贄。花嫁――そこまで考えてはっと我に返った。立ち去ろうとするハルフィスに向かって、リカシェは声を張り上げた。
「お――お待ちください、どうか!」
 二度目の制止は、やはり彼の勘気に触れたらしい。立ち止まってくれはしたが、くだらない内容であれば叱責されるのは間違いなかった。それでもリカシェは告げなければならない。血の気を失い、喘ぎながら言った。
「な……何かの、間違いです。わたくしは花嫁ではございません……!」
 彼はリカシェをしばらく観察していたが、つまらなさそうに答えた。
「これまでもそなたのように言う花嫁が何人かいた。『罠に嵌められた』『まだ死んでいない』と。だがそなたはこの城にたどり着き、目覚めた。死の間際にどんな事情があろうとも、花嫁であることに変わりはない」
 自分は何者かに謀殺され、証拠隠滅のために棺に入れられ流された。帰らなければ大切な家族が殺される――リカシェが考えていた説明は意味のないものだと証明されてしまった。
 口を開け閉めするしかないリカシェだったが、ハルフィスが向き直ったので息を飲み込んだ。
「一つ言い忘れていた。そなたは花嫁だが、名前以上の役割を課すつもりはない。この城でしばし過ごした後、時が来れば冥府の門をくぐるがいい。望むのならばその時を早めてやることもできる」
「名前以上……」
「閨を共にするつもりはない」
 リカシェは赤くなった。羞恥と、怒りで。
 言うべきことを言い終えて、ハルフィスは去っていった。残されたリカシェはぐっと拳を握った。
 傲慢な物言い。弱者に対する容赦のなさ。無感慨な言葉や態度。神とはかくもこのようなものなのか。
(人間の男たちとそう変わらないのではないの)
 リカシェの名も聞かなかった。最初から最後まで、彼はまったくリカシェに興味を示さなかったのだった。
 ふと、別の気配を感じて振り向く。案内役の青年はずっと背後に控えていたらしく、目が合うと、気遣いの微笑みを浮かべた。彼に示され、リカシェは玉座の間を後にした。



 

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