恐怖がせり上がる。幼い頃に刻みつけられた暗がりと暴漢への怯えが、足をがくがく震わせる。
「俺が誰だかわかるか?」
目を上げると、知った顔だった。だが恐れはいや増した。その振る舞いを忘れたことがないからだ。
「……ウィスティ……」
ヘルブラーナ一族の継承者の一人、美形であることを笠に着て女たちを弄んだ男だ。ではその隣でにやついているのがアネーシュ一族のケッツァか。人を蔑むことに慣れた目をしている。
「へえ? これが水葬王の花嫁か。特に美人というわけじゃないんだな」
「気位が高いだけの女だよ」
そう言って嘲笑うと、ウィスティはリカシェの顎を掴んで上向かせた。
「っ……」
「でも俺の名前を覚えていたのは上出来だ」
名前など呼んでやるのではなかった。恍惚としているようにも思える粘ついた声で言ったかと思うと、ウィスティの目はリカシェの上から下までを舐めるように眺めた。自分の記憶よりも女らしいまろやかさを帯びた身体のことを想像しているのが透けて見えて、嫌悪が湧いた。
「は……離して。この都市での暴力沙汰は、罪が重いのよ」
「暴力? 懐かしい顔に会って、交流を温めているだけじゃないか」
ウィスティの最も理解できないのは、彼が、自分に言い寄られた女は例外なく喜ぶと思っているというところだ。目を細めるのは甘やかさよりも醜悪さが際立っており、吐息の多いささやき声は耳をざわつかせるばかりで心に響いてこない。
「あなた、ここに至っても群れているのね」
冷たく言い放つと、ウィスティの顔が引きつった。彼はいつも取り巻きを連れていた。それは自分より見劣りする姿形や性格や言葉遣いの者たちで、ウィスティは彼らを上手く使って自分の思う通りに物事を動かし、また彼らをはべらせることによって自分を引き立たせていた。取り巻きは同族の若者たちだったが、ここではケッツァがその代わりをしているらしい。
顔を歪めたウィスティは、はんと嘲笑を吐き出した。
「……お前はもう少し味方を作った方がいいんじゃないか? よく考えろ。もし地上に戻ったとして、位の低いお前一人に何ができる。俺やケッツァがいた方がいいって、賢いお前にはわかるだろう?」
どうやらこの男たちはリカシェを懐柔して、地上に戻ることを狙っているらしい。荒事も辞さないつもりのようだ。
(馬鹿馬鹿しい……私には悪手だということをこの期に及んで理解していない)
「俺たちならお前を助けてやれる。なあ、リカシェ。こんなところに一人で寂しかっただろう? もう気を張るなよ。俺たちが守ってやるからな」
リカシェが無言で振り上げた腕を、ケッツァが掴んで壁に押し付けた。それを予測していたリカシェは顔を向けもせず、高く上げた足を鋭く踏み下ろす。
「痛っ!?」
足の甲の弱い部分に踵が落ちた。悲鳴をあげたウィスティが硬直した隙に身体をひねって拘束を逃れると、何が起こったかわかっていないケッツァの顔めがけて拳を振るう。
「ぶぇっ!?」
手加減できなかった子どもの頃は、外郭に住む使用人の子たちと立ち回りをしたこともあったが、やはり鼻柱が潰れる感触は気持ちいいものではない。顔を押さえて座り込んだケッツァの横をすり抜けると、リカシェはすぐに大通りに向かって走った。
だが、見えていなかったところから手が伸びた。体勢を崩したリカシェはそのまま転び、起き上がる前に何者かに押さえつけられた。
口を塞がれる。そうされる前にわかったのは、死の直前の記憶が蘇ったからだった。あの時、老いてかさついた手がリカシェを――。
リカシェは手足をばたつかせた。都市の闇は濃さを増し、リカシェが忘れたがっている幼少時の恐怖を呼び起こさせた。今度は怒りの感情も助けてくれなかった。魂を傷つけられる恐怖と死の恐怖、二つの恐れが明滅して、リカシェはただもがくしかなかった。
「大人しくしろ。乱暴されたいのか?」
(いやっ、いやだ!)
ウィスティともケッツァとも違う、満たされない飢えた者の声だった。地上に戻りたいと望む者はまだ他にもいて、密かに結託していたらしい。地面に押しつけられていると足音が聞こえた。醜く顔を歪めて、ウィスティとケッツァが見下ろしている。
「こいつ、俺の鼻を!」
「昔からこいつはこうなんだ。ちょっと痛い目に遭えば懲りるだろう」
「人目につかないところを知っている。そこに連れて行こう」
取り出した布で口を覆われ、手を後ろで縛られる。どうすれば逃れることができるのか。考えるそばから思考がぼろぼろになっていく。息ができない。手足が冷たい。これから起こるであろうことを想像するだけで全身が凍りつく。まるで無力な子どもが恐ろしいことが過ぎ去るのをじっと待つしかないように。
ぐい、と乱暴に髪を掴まれる。振り回すようにしてリカシェに頭を上げさせたウィスティが、顔を寄せて囁いた。
「男に従わないお前が悪いんだ」
私が、悪い?
誇りを踏みにじられ、従順であることを求められて、自分を殺して生きなければならない者のことを、この男は『当たり前』だと思っているのか。誰だって自分らしく生きたいだろう。心を曲げることなくまっすぐに。
恐怖が薄れる。こんな男たちに捕まっている自分に腹が立ち、怒りが膨らんでいく。想像力もない、理解しようともしないこの男は、自分の思う通りにならないものはすべて悪で、間違っていることなのだと信じて疑わない。そしてそれが中原という国の縮図だった。
「よく躾けてやるからな……」
「誰に向かって言っている」
誰がお前などに。
思ったその時降った声に、すべての者が凍りつく。気付いた時には鋭い槍が男たちに向けられていた。帽子を目深にかぶり統一された衣服に身を包む者たちは、都市を守護する王の眷属だ。ゆえにそれを率いる者は限られる。
夜の月が舞い降りる。
頭上から降り立ったハルフィスは、気だるげに一同を見回すと、リカシェを見た途端不愉快そうに眉をひそめた。彼が視線を動かすと、眷属たちは矛先を突きつけてウィスティたちを向こうへ追いやった。声も出せずにいた彼らは、動く段階になってようやく何か言おうとしたが、ハルフィスの眼差しに射抜かれると引きつった哀れな呻き声を漏らすだけだった。
ここは死者の都で、ハルフィスは水葬都市の王だった。死よりも苦しい罰と、死すら霞むほどの恐怖を与えられることができる。その彼自ら助けに来た娘が何者であるのか、ウィスティたちはようやく理解したのだった。
人がいなくなると、ハルフィスは身をかがめてリカシェの縛めを解き放った。
思ったよりもきつく縛られていたらしく、手首に赤い跡が残っていた。ぶつけたり掴まれたりしたせいで全身が痛む。ケッツァを遠慮なく殴った右手の拳は割れて、血がついていた。それをようやく痛いと思うことができた。
(久しぶりに赤い色を見たわ)
死んだ人間にも赤い血が流れているのか、と不思議な感慨を覚えた。美しいドレスの裾で手を拭いた。こびりついたケッツァの血が拭われても、リカシェは手を止めなかった。自分の傷が再び開きそうになるほどごしごしときつく手を拭き続けた。
その手を、ハルフィスが取った。
途端、リカシェの瞳を涙が覆った。
「……悔しい」
絞り出した声は震えた。侮辱されたこともそうだが、もっとままならない、大きなものに対して悔しいと思った。でも、それに向かうだけの力が自分にないことが一番悔しいのかもしれない。
(助けられてほっとするなんて)
できれば自分の力でくぐり抜けたかった、そう思うのは無事だったからとわかっていても、あの男たちを黙らせるだけのものを持ちたかった。
「助けられて一言目が『悔しい』か。今自分がどのような格好をしているかわかっているのか」
リカシェは涙を拭った。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「二度目はないと思っていたが、そなたは余程危険な目に遭いたいようだな」
精神が不安定な状態では、ハルフィスの嫌味に怒ることもできない。目元を拭っていたリカシェだったが、不意に抱き寄せられて息を止めた。ハルフィスの長い外套がリカシェを覆い隠す。
「……無事でよかった」
彼の胸を伝って低いその言葉を聞き、ああ心配をかけたのだ、とやっとわかった。昨日に続いて今日、体力が戻っていない状態で動き回り、城に戻ってきたかと思えば何事か起きた様子で出て行ったのを彼は知っていたのだ。
肩を包み込む手のひらのぬくもりを感じて、リカシェは目を閉じ、胸に顔を埋めた。そんな風に甘えた記憶は、思い出せる限りひとつもなかったのに自然とそうしていた。山の奥に湧く泉のような香りがした。
「……ごめんなさい……」
ハルフィスは愛馬を呼びつけると、前にリカシェを乗せて外套で包み、城へ向けて駆けさせた。そうしているうちに意識が朧になっていった。男の腕の中、空を駆ける馬の上で眠気を覚えるほど、限界が近付いていたのだろう。そして何よりも、その居場所の心地よさに慰められたことが大きかった。リカシェは目を閉じ、しばらく意識を手放すことにした。今は甘えていいのだと自分に言い聞かせて。