―― 第 1 9 章 6 挿 話
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 待機して長かったであろう車中は出発したときには空調がよく効いていて、頬が火照るくらい暑い。冬と春の狭間のような気候に合わせてアマーリエはワンピース一枚の上にコートを羽織っていたが、窓に映る顔は、しかし熱を感じているにも関わらず血の気を失って青白い。
(ひどい、顔)
 嫌悪感を覚えて目を背け、腕に抱いた赤子の赤く色付いた頬を撫でる指はいまにも枯れて折れてしまいそうで、なんだか泣きたくなってしまった。
「空調、切ってくださいますか」
 涙を堪えて掠れた声は運転席に届き「はい」と答えがあって温風が止まる。
 赤子の頬は、ずいぶん熱くなっていた。もう少し早く気付いてやればよかったのに、私はだめな母親だ、という言葉が頭の中でぐるぐると回る。幸いにも息子は穏やかにくうくうと寝息を立てているけれど、小さく吐く息は、後悔と、自責と、高まりつつある緊張を含んでいた。
(……でも)
 でも、これからは、大丈夫。アマーリエよりもずっと優秀な人々がこの子を気遣い、見守り、溢れるほど慈しむだろう。母親がいなくともそれに代わるたくさんの愛が彼に注がれることが約束されている。
 都市を出た車は、リリスへ、境界と呼ばれる地域にアマーリエたちを運んでいた。そこでこの子の身柄の受け渡しが行われる予定だ。この子の将来を考えてのことだった。このまま手元で育てても、きっと不自由させる。寂しがらせてしまうだろう。ヒト族とリリス族の混血で、父親の血を色濃く表出させた(・・・・・・・・・・・・・・)この子が利用される未来を、アマーリエは望まない。
 だから、手を離す。
 この小さな命が、温もりが、アマーリエの側から永遠に失われると思うと、飽きるほど流した涙がまた溢れそうになる。
(でももう、決めたから)
 リリス族の長の子だ。身柄を引き渡せばリリス族の要求の一つは飲まれたことになる。交渉は多少なりとも穏当に進むはずだ。そう願う。あの人は賢明で、自らの立場を弁えている。だからリリス族を守るため、必要以上の強硬策には出ないだろう。
 そんな風に彼の思惑を見積もっている自分に憎しみすら覚える。
 それでもその姿を思い浮かべると幸せだった。
(……嬉しかった)
 リリス族が動き出したと聞いたとき、歓喜と絶望がないまぜになって、混乱し、動揺して、悲しみと苦しみに喘いだけれど、いま最後に感じているのは、満ちた水のような静かな喜びだった。
(嬉しかった。私を、まだ、覚えていてくれているんだって)
『……無理強いはせぬ。何も求めてはおらぬ』
 最初に告げられたのは、アマーリエを自由にするための言葉。アマーリエの気持ちを尊重し、政略結婚の相手をこれ以上縛り付けることはないという宣言。それに甘んじて守られてきた。一族をまとめる長の妻の役割を果たせているとは言い難いまま。
 でもいまは、取り戻すだけの理由がある、族長の妻だと思ってもらえている。
 過ぎ行く外の景色の流れが緩やかになり、車が停まった。同道していた車両から市職員たちが降りて動き回り始めるが、待機を命じられてそのときを待つ。忙しなくなる鼓動を落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、腕の中の我が子を抱き締めて囁く。大丈夫、大丈夫だからね。
(だからあなたを愛している私のことを、どうか)
 そして、扉が開かれた。
 大地に足を降ろして外に出た途端、草原の風がアマーリエを取り巻いた。
 力強い大気、遥かな空と大地。かすかな緑と、豊かな土の香り。泣きたいくらいに懐かしい。そう感じるほど、すでにアマーリエの心はここにある。
 空気が変わったことを感じた息子が目を覚ます。大きな目で不思議そうに周りを見回すと、よく見えたわけでもないだろうに、天へと小さな手を伸ばして、嬉しそうに笑った。
 その仕草に、自らの選択が間違っていないことを確信して、アマーリエは正面を見据えた。その目はまるで最初から決められていたように、地上に降りた一族の裔、その奇跡の直系であり、夫と呼んだその人から目を離せないでいる。
 これから告げる選択は、少なからずあなたを傷付ける。
 それでも祈ろう。あなたの幸い、そして自由を。
(縛られてはいけない。あなたは、私なんかのために、縛られる必要はない)
 だから、笑って。 
 一歩、足を踏み出す。彼も、近付いてくる。
 ――けれどあの日、彼が異種族の花嫁に自由を告げながら心を求めたように。
 アマーリエも、また。

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