―― 第 9 章 3 挿 話
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 執務室の前を守る警備の者に声をかけ、室内に詰める文官に取り次いでもらい、入室許可を待つ――それがリリス族長である夫、キヨツグに面会する手順だとアマーリエは聞いていたし、そのようにして用事を果たす官人たちを見てきたが、しばらく前からアマーリエが直接来訪すると、よほどのことでなければ速やかに当人に伝えられ、部屋に招かれるようになっている。
 だがこのときはキヨツグ当人の応答はないままに室内へと促される。
 手引きしたユメが「よろしくお願いいたします」と言葉の代わりに目礼し、休息時間を得た文官たちとともに退室していった。
 そうしてアマーリエは一人、キヨツグの執務室の開かれた扉からそっと顔を覗かせる。
 当たり前のようにノックをしようと、こつり、と音を鳴らしてとっさに止めたのは、室内がひっそりと静まり返っていることに気付いたからだ。
 窓辺から光が差し、部屋を飾る彫刻の陰影を深く複雑にしている。光と影を作り出した床に、そっと足音を忍ばせたアマーリエの影は、飛鳥と庭の緑の影が重なった後、室内の長椅子の上にあった部屋の主の上にわずかに触れた。
 キヨツグは立派な体躯を横たえて、無防備に目を閉じている。
 アマーリエはつい目を和ませ、周囲の様子を窺った。誰にもこの眠りを邪魔させたくなかったからだ。
 大変ご多忙のご様子で休息もままならず、とユメから聞いたのは先ほどのこと。可能であれば顔を見に行ってほしいと頼んだユメは恐縮していたが、教えてくれて感謝している。でなければ誰にも弱った姿を見せない彼を、妻であるはずのアマーリエも完璧なのだと勘違いしてしまうから。
 長椅子の近くには山と積まれた書類や本がある。仮眠を取ると決める直前まで仕事をしていたのだろう。ヒト族の外交官の来訪があってから彼は連日の会議に、都市行きの準備にと動き回っている。もちろん通常の政務も疎かにできない。そしてアマーリエのことも気にかけてくれている。時間がないとはこのことだ。
 だからこそ呼ばれたのだろう、と長椅子の傍らに膝をついて目を細めた。
 アマーリエがいると、キヨツグはどんな無理をしてでも時間を作ろうとする。
 時間は有限で、キヨツグはアマーリエを無下にできない。急務でなければ常にアマーリエが最優先となる。二人でゆっくり過ごしたい、と言えばそれを叶えてくれるだろう。
 つまり少しでも空き時間があれば必ず仕事をしてしまう族長を休ませるためには、アマーリエと過ごす時間を休息とするしかない、と忠臣たちは考えたのだった。
 利用するようで誠に申し訳ございません、とユメも文官や侍従たちも頭を下げてくれたが、それが自分にしかできない役目なら積極的に果たそうと思う。
 ただ一つ、キヨツグが何を置いてもアマーリエを優先してしまう理由を思って、心苦しくなるけれど。
(キヨツグ様は、きっとあのときのことを忘れられずにいる……)
 それは、アマーリエも同じ――自分の居場所はどこにもないのだと思い、発作的に逃げ出した、あの愚かな振る舞いを忘れることはできない。忘れてはいけないと思う。
 あの頃お互いに相手にどう接すればいいかわからないでいた。会う機会も話すことも少なかったのは、キヨツグがアマーリエを気遣ってなるべく彼自身を意識させないよう距離を置いていたのだと、いまならわかる。無関心でなかった証拠に、アマーリエの日々の行動や毎夜ちゃんと眠っているかどうか確認していたのだ。
 決してキヨツグだけの責任ではない。アマーリエもまた、彼に会いに行こうとしなかった。心を通わせることが怖かった。その先にある、心身の結びつきから始まる、避けられぬ数々の未来が恐ろしくて、誰にも心を渡せなかったのだ。
「…………」
 アマーリエはかすかに熱を持った頬を押さえた。
 ついうっかり二人きりの夜の、あれやそれやの秘事を思い出してしまったのだ。
(うう……どうしてみんなあんな風に開けっぴろげに話せるんだろう……! 誰かに話すなんて私には無理、絶対無理!)
 男女関係に厳格だった祖母や、スキャンダルを警戒して注意を促した父の教育のせいもあるだろうが、友人たちの恋愛や男女の話題と知識の豊富さはどこに由来するものなのか、心底不思議でならない。
「…………」
「……?」
 気配を感じたアマーリエの目と漆黒の瞳が合った。
「……百面相は終わりか」
「キヨツグ様!」
 先ほどまで寝ていたはずのキヨツグがしっかり目を開け、ゆっくりと起き上がる。すぐ近くでぐるぐるもやもやふわふわと考え事をしていたのをしっかり見られていたと知り、アマーリエは真っ赤になった。
「……どうした。何かあったか」
 大きく息を吐きながら乱れた髪を掻き上げ、眠気の残ったようないつもより低い声で尋ねられる。アマーリエは先ほどまで脳裏を占めていた色々を必死に追いやりつつ首を振った。
「いえ、特に何も……あの、お休みになるならちゃんとしたところで寝てください。風邪をひいてしまいます」
 何がおかしいのか、ふっとかすかに笑う気配がしたが、キヨツグは何も言わない。心配しているのに、とアマーリエはいささか不満を覚える。
「忙しいのはわかっています。でももう少し、自分を大事にしてください」
 私にできることがあれば、と言いかけて、ふと目を上げて言葉を飲む。
 表情の薄いはずのキヨツグは、アマーリエでもはっきりとわかるほど少し怖い顔をしていた。
「……どう、したんですか……?」
 何か不愉快な思いをさせてしまったのだろうか。喉が乾き、擦れる声で尋ねると「……わかっておらぬのか」という呟きが聞こえた。
「あの……何が……?」
 キヨツグは目を閉じ、頭を振った。そうして目を開けたときにはいつもの表情のない、けれど優しい声で言ってくれる。
「……大丈夫だ。我らは頑丈ゆえ」
 彼の言う通り、確かにリリス族は大人に限るものの、頑健な肉体や身体能力を備えた長寿種族だ。
 けれど本当にそのことを指して「わかっていない」と言ったのか疑問が残る。そうではないと思う、とアマーリエは考えている。けれどそれを尋ねて答えてくれるのかわからない。誤魔化したのだとしたら、伝えても理解できないと思っただろうからだ。
(疲れているはずの人に、気遣われて守られている……)
 肩を落としたとき、ユメたちの顔が浮かんだ。はっとしてその思いつきを口にする。
「キヨツグ様」
「……なんだ?」
「今日の夕食、ご一緒してもいいでしょうか?」
 キヨツグを休ませるためにアマーリエが呼ばれた。キヨツグはアマーリエのために時間を作る。だったら。
「それから、あの」
 しかしこれはわがままに他ならない。貴重な彼の時間を奪うことになってしまう、と躊躇いと遠慮で言葉を飲んだのを見破られ、もう一度、今度はより優しく「……どうした?」と尋ねられる。自分のことでわずらわしい思いをしてほしくないという気持ちもあって、アマーリエはちっぽけな心を奮い立たせた。
「あの……これから、お茶を、一緒に……」
 休むための、お茶の時間。一緒の夕食。
 何があってもなくても、愛する人と同じ時間を過ごしていられる、アマーリエだけが幸せな思いをする姑息な企み。
 そしてキヨツグはそんな浅はかな考えなどお見通しなのだ。少しだけ困ったように目を細めたかと思うと、すぐ優しい気配とともに「……わかった」と応じてくれた。
「……あまり、時間は取れぬかもしれぬが」
「いいえ。一緒にいてもらえるだけでいいんです」
 お忙しいところ、すみません。そう言って笑うと、キヨツグは今度はどこか驚いた様子でアマーリエの頬に手を伸ばした。
 冷たい肌と骨が手の甲が、優しい動きで頬を撫でる。手のひらでするよりも慈しみが伝わるような触れ方で、彼になぞられた頬があっという間に熱を帯びた。
 弾む鼓動が、アマーリエの視界に星の瞬きのような光を生む。どきどきしながら目を伏せ、それでもたまらなくなって逃げ出すように長い裾をさばいた。
「あ、あの! お、お茶の準備と夕食の支度をお願いしてきます! キヨツグ様は準備ができたらこちらに来てくださいね!」
 そそくさと部屋を出て、けれど扉のところで振り返る。
 手を挙げて見送る彼に、アマーリエは淡く色付いた頬で笑みを残すと、急ぎ足で廊下に出て、待機していたユメたちにこの後の予定を告げた。
 たくさん、時間を作ろう。邪魔はしたくない。けれどもっと当たり前のように一緒にいられたらいいと思うから。
 そうして自室に戻ろうとしたとき、付き添っていたユメが何かに気付いた。
「オウギ」
 ユメが呼びかけた方へ、アマーリエも視線を巡らせる。すると回廊のわずかな影から現れたかのように、キヨツグの護衛官であり側近でもあるオウギ・タカサがいつの間にかそこに佇んでいた。
「仕事を振り分けたゆえ、案じずとも良い。好きに過ごせばよかろう」
 冷たく端的な物言いはこの人の特徴だ。自らの気配を消すように、感情や言葉を表すことも控えている。
 それが珍しく姿を見せて、アマーリエに言葉を伝えている。
「キヨツグ様の仕事を、他の方に振り分けてくれたんですね」
 出没も不明で所在も不明なので謎の人物で、とても綺麗な顔立ちなのにアマーリエが思い浮かべるときの彼の表情は基本的に無表情だ。静謐な眼差しでこちらを見ている。
(……護衛官と主君って、似るものなんだなあ)
 普段は感情の起伏を表に出さず、顔にも出ないキヨツグ。オウギはさらに何を考えているか掴みにくい。
 けれど何も感じていないわけではない。この後のキヨツグの予定を把握して仕事を振り分けた、もとい取り上げたのは、彼もまた、キヨツグには休息が必要だと思い、アマーリエと過ごすことでわずかばかりでも回復するだろうと考えたろう。
「何かあればキヨツグ様を呼び戻してもらって大丈夫です。すみません」
「気付いていない」
 手間を取らせて申し訳ない。これ以上こちらを気遣わなくていい。そう伝えるつもりで軽く頭を下げたアマーリエは、彼が何を言ったのかわからず「はい?」と首を傾げた。
「あなただけの誘いは絶対に断らぬ」
 少し間を置いて「そして」と彼は続けた。
「それを邪魔する者に、あれは容赦がない」
 それだけ言い置いて、オウギは立ち去った。まるで夢を見ていたかのような短いやり取りで、はっとして目を瞬かせるも、彼がそこにいた気配すらも残っていない。
 何を言われたのだろうと困惑するアマーリエの耳に届いたのは、くすりと笑うユメの声。
「本当に、よく見ている。普段はどこにいるのか、近くに控えているかすらわからぬというのに」
 ユメはまだ戸惑っているアマーリエに微笑みかけてくれる。
「ご案じ召されますな。天様は、できぬものはできぬとはっきり申される御方。真様の誘いに応じたのは、そうしたいと天様自身がお望みになったがゆえのことにございます。その強い思いは、真様の状況や周囲の思惑すら構わず、強引な態度を取ることも厭わぬものと、我らは存じております」
 強引、と言われて思い当たるいくつかの出来事――起きなければいけない時間に「起きたくない」と言い始めてベッドに引き戻されたり、用事を終えたのに部屋から出してもらえず長時間膝の上に座らされたり、を考えて、ユメの言葉はあながち慰めるための嘘ではないのかもしれない、とアマーリエは熱くなる頬を押さえた。
「そう、だったらいいんだけれど……」
「はい。そのために執務の部屋の者は速やかに真様をお招きするよう申し付けられております」
 初めて聞く事実にまた顔を赤く染める。部屋に行きづらくなってしまった。
 けれどそれを伝えたユメの本意でもないし、嫌な顔一つしない警備や、文官や侍従たちの意志でもないだろうと思い、小さく言った。
「……教えてくれたら、また、行きます」
 キヨツグを休ませるために。多忙な彼に配慮して行動を慎む自分に言い訳をしながら、会いに行くから。
 笑って「お願いに上がります」と言ったユメを連れて、アマーリエは急ぎ足で自室のある宮殿へ戻った。早急に支度を終えなければ、きっと、キヨツグは思うよりも早くこちらに来てしまう、そんな予感があったからだった。

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