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「ここにいる」
 声がしたと思ったら、後ろからさらわれた。胸の辺りを背後から伸びた腕に抱かれ、バランスを崩したがキヨツグに受け止められる。むしろ、くっつけとばかりに彼の胸元に押し付けられ、腕にしがみついた。首の動きが不自由だが、顔を見ようと試みる。
「あの、お疲れ様でした。他の方はいいんですか?」
「…………」
「キヨツグ様?」
「……疲れたゆえ、お前を補給する」
 意味がわからないでいると、すん、と首元の匂いを嗅がれて、背中がぞわぞわした。彼以外が滅多に触れることのない首の付け根を、鼻先が、漏れた吐息が、そして唇が掠めていく。
「ちょ、だめ、……ひぁっ!?」
「はい補給終了! 仕事の話すっぞ、こっち来い!」
 危機に陥ったアマーリエを救ったのは、もちろんヨシヒトだ。遠慮なくキヨツグを引き剥がし、上腕を掴んで引きずって行く。彼にしかできない芸当だ。
「ヨシヒト、邪魔をするな」
「違いますぅ、邪魔じゃなくて、醜態をさらすのを止めてやったんですぅ。お前ね、真様が可愛いからって所構わずいちゃつくなよ。お前には誰も何も言わないだろうけど、彼女はそうじゃないだろ。悪口言われたら可哀想だろうが」
「そう思うのはエリカの本質を知らぬからだ。可哀想なままでいるだけの娘を真夫人に迎えるはずなかろう」
「お前突然まともなこと言うのほんとになんなの……?」
 ふざけたやりとりをしつつ、二人は天幕に戻っていく。
 その姿を後ろから見ていると、やっぱり笑いがこみ上げてきてしまった。
 とても強くてかっこいい、すべてに恵まれたような人たちだけれど、そうしている姿は、どこから見ても、ふざけあう学生のようで。
(こういうのを、親友、って言うんだろうな)
 ちょっぴり寂しいような、羨ましいような。でも、とても、すごく、嬉しくて。
 複雑な笑みを浮かべていると、キヨツグが振り向いて、何も言わず手を差し伸べてくれた。そして、彼の動きに気付いて、ヨシヒトも足を止め、アマーリエが来るのを待ってくれる。
 だからアマーリエは、喜びに笑って、駆け出した。それは多分、男子学生の中に女子学生が混じるような風景になっていたに違いない。

 話し合いは、思っていたよりも早く終わったようだ。「真様がいるとキヨツグが破廉恥なので」というヨシヒトの意見が出て、アマーリエはそれに参加できなかったので、待っている間、ヤン家の人々と交流を持った。
 ヤギの乳搾りをやらせてもらったり、編み物をしたり、子どもたちとお手玉をしたりと、知っているようで知らなかった遊牧民の生活を少しだけ知る。戦士ではないけれど、しっかりと働いている人特有の、硬くなった太い指先で、文字通り手取り足取り教えてもらい、学校のカリキュラムにある農場体験を思い出していると、キヨツグが「……終わった」と呼びに来た。
 やってきたときは朝だったが、とっくに正午を回っている。今頃、王宮の人々、特に側近のカリヤは額に青筋を浮かべて仕事をさばいているはずだ。帰ったときの叱責がいまから恐ろしい。
 王宮に戻る馬車に乗り込むところを、ヨシヒトたちが見送ってくれた。
「というわけで、正月の参賀は代理が行くから。まあ元々代理を立ててうちでウヅキとうちのがきと過ごすつもりだったけど、大損させられるのがわかってるのに仕事しないわけにはいかないんでな。まあ、契約はきっちり果たすから心配するなよ」
「それは疑っていない。お前が義理堅いのはよく知っている」
 素直な言葉を受けて、ヨシヒトは黙った。黙ってしまった自分を恥じるように、唐突に話題を変えた。
「と、ところで! ウヅキが顔見せろって言ってたから、暇を作って郷に来いよ!」
「私が行くこと前提か」
「お前が育ったところ奥さんに見てほしくないのか?」
「わかった。調整する」
 ヨシヒトが「こいつ、もしかしてちょろいな……?」と呟いたが、アマーリエは聞こえないふりをした。どんな顔をしていいかわからなかったからだ。ただひたすら、恥ずかしくて申し訳ない。いまに始まったことではないけれど、やっぱり、色々と問題のある言動なのだと思い知らされてしまった。
(気を付けよう……コウセツもすぐに大きくなるし、何か聞かれたときに上手く答えてあげられないのはとってもまずい)
「まあ、じゃあ、そういうわけで。お前んとこの坊主によろしくな。お披露目には顔を出すから」
 彼の妻、ウヅキは子育て中。そして、元服前の子どもは様々な理由でなかなか目を離せず、命の危険が多いことをアマーリエも知っている。家族の交流を持てるまでには時間がかかりそうだが、先の楽しみができた。
 キヨツグに促されて、アマーリエは馬車に乗り込んだ。
「会えて、嬉しかった」
 そう告げた彼が、隣に乗ってくる。どんな顔をしているのか窺うが、表情がない。隠す気もなく、平然としていた。
 扉の向こうに立ち尽くしていたヨシヒトは、悔しげに笑って、手を挙げた。
「またな」
 そのように、親友たちの別れはあっさりしたものだった。
 王宮に向かって走る馬車に揺られ、アマーリエはそっと、キヨツグの膝の上に手を置いた。それを、彼が優しく包んでくれる。さらに肩に頭をもたせかけて、くすくすと笑った。
「楽しかったですね。美味しいものも食べられたし。なんだか、結婚したばかりの頃に戻ったみたいでした」
 リリスで経験するすべてが目新しかったあの頃、アマーリエは、大勢の人に守られた少女だった。優しい世界と絆を夢見て、恋が美しいものだと信じていた。負うべき責任の大きさに怯え、変化を恐れ、寂しさに抗うことを諦めていた。
 笑って、楽しくて、愛されるだけで幸せだった。
 いまのアマーリエは、人が否応なしに果たさなければならない責務を持っていることを知っているし、嫌いでも憎んでいても関わっていなければならない人やものがあり、考える暇もないまま手足と口を動かし、自分よりもずっと弱いものを守らなければならない、大人になった。伴侶になった。母親に、なった。
 でもあのときの自分は、しがらみを忘れた、ただの娘に戻れた。
「……そうだな。私も、いまでもヨシヒトとあのように居られるとは思わなかった」
 キヨツグもまた、似たような感慨を抱いていた。いずれ族長になるけれど、本格的に政に関わる前、才能に恵まれながらも子どもとして扱われていた頃のことを思い出したに違いない。ヨシヒトが、そうさせてくれたのだ。
「私……私たち、おかげでまたしばらく、頑張っていけそうですね」
 キヨツグが優しさが込められた頷きで応じてくれるのを、触れたところで感じて、目を閉じる。
 王宮まで、いましばらく。この空間でアマーリエは、少女でも大人でもない自分で、ただキヨツグの温もりに浸っていたかった。
 けれど、ふと、思い出す。
「そういえば、嫌がらせは成功したんですか?」
 反応がない。
 頭を起こすと、キヨツグは明後日を見たまま、目を閉じて、言った。
「……五分五分だな」
 半分とはいえ負けるとは思わなかった、という苦渋が滲んでいたので、アマーリエは噴き出し、くすくすと笑い声を立てながら彼の肩に再びもたれた。それを聞いたらヨシヒトは絶対に喜ぶだろうけれど、残念ながらアマーリエにもそれなりに嫉妬心があるので、今回はキヨツグの肩を持つ。恋敵に匹敵する親友に、彼の可愛らしいところを簡単に開かせるわけがないのだから。

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