―― 摘 み 取 り 、 芽 吹 く も の
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「ごめんください」と耳にした途端に反射的に背筋を正してしまう、そんな凛とした声が来訪を告げ、医局の作業室に籠もっていたシキは慌てて応対に飛び出した。
 こういうときに限って父は不在、弟子たちも休憩を取っている時間で、血相を変えたシキに来訪者――真夫人付き護衛官のユメ・インが申し訳なさそうに微笑した。
「御前! 申し訳ありません、お待たせして。今日はどうされましたか?」
「お忙しいところ、恐れ入ります。お願いしたきことがございまして……」
 常備薬が切れそうなので用立ててほしいというのがひとつ。それから子どもの咳止め薬が欲しいということだった。医局から薬を持ち出すには書類が必要だがユメ御前はそれも抜かりない。書面を確認して承認印を押してから記載された薬を準備していく。
「喉の痛みを和らげる薬を、小児用に分量調整……御子様は体調を崩していらっしゃるのですか?」
 書面の処方先はコウセツ、待望の族長の長子になっていた。
「発熱はないそうなのです。ただ少し咳が続いているのを真様が気にされて、一応処方していただきたいとのことでした」
 強靭なリリス族だが、成長が止まる以前の幼少期は脆弱で、最も気を付けねばならないのだった。軽い風邪があっという間に重症化し、命を落とすことも稀ではない。寒さが厳しくなる冬季は医療に携わる者としてかなり敏感になる。死病が流行ったのもたった数年前のことなのだ。
「医官長が診察に伺うよう手配しておきます。こういうことは慎重すぎるくらいでちょうどいいと思うので」
「ありがとうございます。真様にお伝えいたします」
 リリスの貴人の子なら、母親によっては軽く噎せただけで医師を呼びつけ、診察の折に泣かせれば医師を罰し、問題ないと診断を下したのにそんなわけがないと食ってかかる、なんてよくある話なのだ。
 まず「様子を見る」という判断を下してしまうのはアマーリエらしい。リリスの貴人として育ったわけではないせいか現在の地位に反してそのように行動が控えめすぎるときがあるが、周囲としては気を揉んでしまう。幼子の母であるユメも、こと子どもに関しては大仰でいいと考えていたらしかった。
「御前のお子様はお元気ですか?」
「ええ、幸いにも丈夫に生まれついたようで、この寒さでも元気いっぱいに過ごしております。ご心配いただきありがとうございます」
 娘の話になると「御前」と呼ばれる女もののふの表情も緩むらしい。シキは微笑ましい気持ちになった。
「御前もご自愛ください。みんな御前を頼りにしていますから」
「それを言うなら、シキ殿も。みんな働き者すぎると真様が仰せでした。シキ殿の特技も、日常的に薬を触るせいで覚えてしまったに違いないと苦笑していらした」
 話しちゃったんだな、と苦笑いした。
 シキは目隠しして薬を当てるというちょっとした特技を持っている。触ったり匂いを嗅いだりして、生薬はもちろん、調合後の薬の内容、効果を当てられるし、口に含めば百発百中というものだ。
「それじゃあ僕がすごい人のように聞こえますが、違うんです。真様にはすべてお話ししなかったんですが医局の伝統というか……賭けのねたなんです。目隠しして、何の薬か当てるという。薬や植物が定番なんですが別のものを混ぜるのがお決まりで」
 口にするのもはばかられるようなものを齧らされるときもあるのだが、そこまで言うと馬鹿馬鹿しさを露呈する気がして話さなかった。そのせいでどうやら誤解を生んでいるらしい。真面目に受け取るアマーリエらしかった。
 男性が多く所属している武官であるユメは真相を知って、やはりそういうことかと笑っている。
「なるほど。黙っていた方がよさそうです」
「お願いします。申し訳ありません……」
 薬を受け取って去っていったユメを見送ると、シキは奥の部屋に戻って再び作業を再開した。目前に迫った医局の酒宴。そこで催される利き薬大会に吐き気を催すほどの苦薬を仕込むために。
(こんなこと、絶対にアマーリエに知られるわけにはいかないよね……)
 手を動かしながら彼女と出会ったこと、過ごした時間を思い出す。
 医師を志して学んでいた経歴もあって、アマーリエとシキはさほど時間をかけず親しくなった。世間話がてら、リリスのことを説明したり、ちょっとした悩みを聞いたりと、立場を思えば控えるべきだと自覚していたが、ふとしたときに遠くを見る彼女を放っておけなくて、まるで後輩に接するようにしていた。
 少なくとも当時は、それが彼女の救いだったと自負している。
 ヒト族と聞いて興味を持ったけれど彼女自身は本当に、どこにでもいるような普通の少女だった。くだらない話題に笑い、人を思いやって悩み、傷付き、悲しみを押し隠して、義務と責任に潰されそうになりながら、懸命に前を向いていた。ぎこちなさと屈託のなさが同居していて、正直に言って「可愛いな」と思った。
 恋心、だったのだと思う。恋が始まる前の小さな芽吹き。
 けれどアマーリエを見ているとそれを咲かせてはならないとも思った。彼女は真夫人の立場を理解できる人間だと、言葉を交わして楽しい時間を過ごしていればすぐにわかった。
 思いを告げれば、困らせる。
 だから摘むしかなかった。そのときの痛みはいまも少し、胸にある。
(後悔、しているのかな。伝えるだけ伝えた方がよかったんだろうか?)
 近頃そんな問いが巡るのは、シキにも両親や先輩医官伝手に異性との交際や結婚を前提にした紹介の話が少しずつ来ているからなのだろう。妊娠出産が難しいリリスは十代から恋愛経験があるし結婚も早いが、シキは昔からそういったことの興味が薄かった。女性と付き合ったことがないわけではないが、先輩や同期などはだいたい一人でいるシキを「枯れている」と評する。
(君に出会うためのいまだった、なんて)
 言うのかな、天様は、などと思い、想像しかけて止めた。不敬だったし、アマーリエの反応を考えてしまうと作業が続けられなくなりそうだった。

 幸いにもコウセツの喉風邪は重篤なものではなかったようだ。診察を終えた父が言って、薬や身体に良さそうな細々したものを揃えて持っていくよう、シキに指示を投げて寄越してきた。そこにはシキが趣味にしている調合茶もある。
「得意だろう、茶の調合」
 趣味と実益を兼ねて、茶葉や香草を組み合わせて健康と美容を考えた美味しいお茶を作るのだ。完成したものは知り合いに振る舞うし、開発中のものは身近な人に味見を頼む。
 アマーリエもそうだった。以前はここでシキが淹れたお茶を飲んで過ごしたが、様々なことがあって戻ってきた彼女は最近は公務と子どもに集中していてここを訪れることは滅多にない。
 遠ざかった日々を思い返しながら「御子様でも飲めるものを、量を調整して準備します」と父に返した。
 そろそろ一歳になる子どもに使える薬草や香草を調べ、偉大な医官の先達である父と母にもきっちり確認を取り、適量を見定めて薬とお茶を揃える。日常業務もあり、それなりに忙しかったが、ふと以前に比べてずいぶん手際がよくなったことに気が付いた。
(……こんな僕でも成長しているんだな……)
 そういえばアマーリエに人生は長いですかと問われ、シキは「案外短い」と返したことがある。
 ヒト族はリリスより寿命が短いというが、リリスに生まれるとリリス族の寿命が常識になる。だからやり残したこと、やってみたかったことが誰にでもあり、もう少し時間があればと思うのだ。
 寿命が長かろうが、時は流れる。変化が訪れる。リリス族もヒト族も流れる時間も平等である、その幸いが、アマーリエの変化であり、シキの成長なのだった。
 不思議な感慨とともに仕事を終え、やっと指定された薬類が揃った。人を介さず直接届けることにしてアマーリエを訪ねるが、あいにく仕事で外しているという。
「天様にご報告すべき事項があるとのことでお出になっておられますが、じきに戻られるかと存じます」
「ああ、それならいいんです。ご指定のものをお持ちしただけですので、お預かりいただければ」
 女官のアイ・マァは族長夫妻の腹心の一人だ。彼女なら大丈夫だと判断し、品物を託す。
 顔が見られず残念なようなほっとしたような、と思いながら医局に戻ろうとしたとき、視界の隅に何か見えた気がして、立ち止まって庭に目を凝らした。
 宮中は棟を繋ぐ回廊を植物や鑑賞物で飾って埋める。特に内側は顕著で、それぞれに趣向を凝らした眺めを楽しめた。この時期は枯れ木と雪、常緑で静かな雰囲気だ。
 さて何が気になったのか、と周囲を探りながら回廊を巡り、柱廊の影に気配を捉えた瞬間、あっと声を上げそうになった。
 色素の薄い髪と、黒髪、二人が身を寄せ合っているらしい頭部がかすかに見えている。
 慌てて声を飲み、足音を忍ばせて後退すると、軽やかな足音が追いかけてきた。
「シキ殿」
「御前! っと、すみません……」
 向こうから見えず話し声も届かない距離で声をかけてきたのは彼女たちの護衛をしていたのだろうユメだった。大声を出してしまったので慌ててあちらの様子を窺うが、どうやら気付かれなかったようで、安堵に大きく肩を落とす。
「よかった、危うく邪魔をしてしまうところでした……」
 そこにいたのは庭を望みながら過ごしているらしいアマーリエとキヨツグだった。
 二人は時折そのようにして人目をはばからず一緒にいることがあって、宮仕えの者はみんな、なるべくそれを妨げないよう気を配らねばならないという不文律があった。見えても見えないふりをしなければならない場合もあり、年頃の官吏などは夫妻の仲睦まじい様子に当てられて羨望と焦燥のため息の嵐が起こしているのだとか。
 そのように振る舞うのは、やはり族長夫妻が上手くいっているのは何よりも喜ばしいからだ。恋愛も結婚も自由だが、族長や貴人はときとして政略的な結びつきのために婚姻を用いる。夫と正妻は不仲、しかし第二、第三夫人との仲は良好だ、という時代は、ほんの五十年くらい前までは日常的にあったものだ。
 異種族であるヒト族の娘だったアマーリエとキヨツグがそうなってもおかしくなかったが、いまではこうして、少しでも時間があれば二人で幸せそうに過ごしている。
「お気遣い、痛み入ります。シキ殿がこちらにお越しとは、御二方のどちらかに御用が……?」
 そしてこのユメやアイは側付きという立場上、付かず離れずの距離に控え、不埒者や無礼者、そして邪魔者を排除する役目が割り振られている。
 先ほど頼まれていたものを届けてきたことを説明すると、なるほどとユメは首肯した。
「ご足労いただきましたのに申し訳ありませぬ」
「いえ、御前が謝ることではありません。いまからお持ちしていいか、先にお伺いすべきでした。次から用事があるときはそうします」
「ご面倒をおかけいたします」
 頭を下げられると恐れ多すぎて困ってしまう。武官を輩出する家に生まれ、剣技を極めた女性武官。シェン家を支えるイン家の家長であり、族長の懐刀である一方、真夫人の護衛を務める。心技体をすべて兼ね備える長の一人として「御前」の名で呼ばれるのがユメだ。
 シキなどは雛も同然、しかしそのような未熟者にも礼儀を尽くすのはさすがだったが、大変居心地が悪い。早々に立ち去ろうとして、ふと向こうの様子が気になった。
「あの、もう少しだけ、いいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
 あちらの、とアマーリエたちがいる方を指す。
「いい景色だから、もう少し見ていたいんです」
 マサキ・リィのように行動を起こすには、シキは臆病で、この思いの対価に誰にも傷付いてほしくないと思ってしまった。
 でもいまはそれでよかったと思う。
 つがいの鳥のように寄り添う二人を示したシキに、ユメは目を大きく見開き、やがて微笑んで頷いた。



初出:20141010
改訂版:20220807

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