―― 春 遠 か ら じ 不 香 の 花
<<  |    |  >>

 冬の公務は主に大祓と新年の祝賀の儀といっても過言ではないが、それが過ぎると豊穣を祈願する祭事があり、宮中の者全員がやっと一息つけるようになった頃に春が来る。
 だがこの年は例年と違い、特別でいて、不慣れゆえに多数の失敗や悲鳴や怒号が飛び交う一方、誰もが心を浮き立たせる行事が待っていた。
 当代族長キヨツグ・シェンが長子、コウセツの御披露目式である。
 新年の祝賀と同時に行うべきだという意見も出たのは、リリスの各地から氏族の代表を招くからだ。王宮のあるシャド近辺に住まう者たちはともかく、遠方の者を何度も行き来させるのは徒労に過ぎる。しかし季節は冬、一歳の幼子に長時間の儀式が苦痛なのは間違いなく、また通年通り年末年始の支度に手が掛かるところに仕事を追加させて滞りなく式に臨めるのかという不安の声もあった。
 差し迫る師走のみぎり、状況を変えたのは前族長の妻、夢見の巫女ライカの託宣だった。
「御子の御披露目式は春先に。皆々様体調を万全にして臨まれるがよろしいでしょう」
 すわ変事か、と浮き足立った人々だが、一週間後にその理由を知る。
 感冒が流行したのだった。
 フラウ病と呼ばれる特殊な病に倒れた過去のあるリリスたちは、再び死の病に襲われるのかと戦いたが、それは少々強い症状が出るものの通常の風邪と変わらず、よほど体力のない子どもや年寄りでなければ、二週間もあれば完治するものだった。
 しかし感染力は凄まじく、大祓と祝賀の儀の支度は目の回るような忙しさだった。何せ責任者が倒れ、次席が代理になったかと思えば倒れ、さらに代理の第三席が倒れたところに責任者が戻ってくる、という状況だったからだ。
 しかし王宮、そしてシャドの者は比較的症状が軽かったという。
「手洗いとうがいをして、勤務中はなるべく口を覆うものを装着してください。少しでも体調が悪ければ休暇を取るよう徹底をお願いします」
 自らも医師を志したという真夫人、そして彼女を指導している医局長夫人や医官たちの指導によるものだった。
 そのようなわけで、年明けの祝賀の儀に参じた者は半数が代理人だった。風邪を警戒して、もてなしの茶会や宴も時間が短縮され、客人たちも参賀が終われば早々と帰還していった。
 それでも医学の心得のある者たちは休む間もなかったが、罹患した場合最も危険な赤子――コウセツに何の症状も見られなかったことに、医官も、アマーリエやキヨツグも、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
「何事もなくてよろしゅうございましたね」
「本当に。子どもは風邪を引くものだから覚悟していたけれど、うちの子は想像以上に丈夫だったわ……」
 帰還した客人たちからの手紙に返信をしたためる作業の合間、ただでさえへろへろと軟弱な字がさらに崩れないよう休息を取っていたアマーリエは、手伝いの女官や護衛官のユメとともに世間話に興じていた。世間話といっても、宮中の出来事や人々の様子を聞き取る大事な時間だと、最近は思うようになっている。
「ユメのところ、お嬢さんは大丈夫だった?」
「ご心配いただき恐縮です。風邪を引きましたが、しっかり養生したゆえ、もう冬の庭を元気に遊びまわっております」
 滅多に重篤にはならないが大抵の人間がかかる、少々厄介な流行病なのだ。そしてどうやらヒト族には異なる症状が出ていると、母を通して情報提供があった。
「やっぱりリリス族の体質なのかな……都市でも似たような風邪が流行っているんだけれど、喉や鼻の調子が悪くなる上に、高熱に、全身の痛みや怠さの症状が出るんですって。例年冬によく見られる風邪に似ているけれど、すぐ感染るのが特徴なんだとか」
「なるほど、慣れていらしたので素早く予防に関するご指示があったのですね。ご慧眼、お見それいたしました」
 大したことではない、とアマーリエは苦笑した。予防対策の基礎中の基礎を徹底させただけだが、立場上、それが功を奏すると驚くくらい評価が上がる。だが恐ろしいのは誤ったときだ。一度経験があるけれど、自業自得だったので耐えられた。
 あのときからいままでを思えば、真夫人として確かな足場が築けているのだと思う。
 作業を再開してしばらく。返信を考えるために手紙を読み返していたアマーリエは、手を止め、筆を置き、しばらく物思いに沈んだ。さてこれはどうしたものか。
(『天様はますます威厳に満ち溢れ』……ここは褒め言葉だから同意でいいけれど、問題は次の『未婚の女性が放っておかないのではないか』の部分)
『娘や姪がご挨拶の機会をいただきたいと申して』は、まず間違いなく娘や姪の存在をアピールしている。
 公務に携わるようになった当初はこうした匂わせがたくさんあったが、最近はすっかり静かになっていたので、懐かしいような困ったような苦笑が込み上げる。これまで鳴りを潜めていたのはアマーリエがリリスに戻ったときの出来事のせいだろうが、再び盛り上がってきたのは、何かきっかけがあったのだろうか。
(この手紙が指す『ご挨拶の機会』は、間違いなくコウセツの御披露目だよね……)
 恐らくこの手紙のように企んでいる人は十数人はいると見ていい。実際、確認してみると似た内容の手紙が数通見つかった。感冒のせいで年始の祝賀では叶わなかったので、この機会を逃すものかと考えているに違いない。
 ため息を吐きながら、キヨツグへのアプローチに対する返信は一律『天様を奉戴する年若い女性たちの存在を嬉しく思う』という、支持、応援を感謝する内容にしておく。そうして返信の到着に時間のかかる遠方宛のものがないことを確認すると、女官たちを呼んだ。
「天様にお時間をいただけないかお尋ねしてください。お仕事のお話がありますとお伝えして」
「かしこまりました」
「すぐにお呼びがかかるかもしれないので、お伺いする支度を」
「承知いたしました。そちらの書簡は、お預かりしてお送りするよう手配するでよろしいでしょうか?」
 アマーリエは首を振った。
「今日はひとまず置いておいて。書き直すよう指示があるかもしれないから」
 かしこまりました、と女官たちは速やかに動き出した。
 急ぎでない返信を書く作業を始めながら、これから起こるだろうキヨツグとのやり取りに軽く頭痛を覚えていると、予想通りすぐ返事が来た。
「いまから時間を取るとのことです」
「お伺いしますとお返事してください。すぐ支度をして向かいます」
 墨の汚れ対策にしていた前掛けを外し、まとめ髪を下して、簡単に着替えをする。女官たちも心得たもので、アイの指示がなくてもアマーリエの意を汲んで派手に飾り立てることはしない。
 いまから行くと先触れを出し、キヨツグが執務を取る部屋に向かう。これから話をしなければならない内容を頭の中でまとめていたアマーリエだが、だんだん気持ちが沈んできた。
(うう、気が重い……これまでのことを思うと、絶対機嫌を損ねるだろうし……)
 リリスの氏族の奥方や令嬢たちの手紙に返信するのはアマーリエの仕事。あの内容とその返信をしっかり報告するのも、担当者の義務。
 ――あなたと親しくなりたいと仰る女性が多数いるようですが、いかがいたしますか? なんて、普通は妻から尋ねられたくはないだろう。
 それは一夫多妻の習慣がまだ残っているリリスでも同じのはずだ。それでも立場を思えば「嫌だ」で済まない場合があるが、キヨツグはその感覚が潔癖すぎるほど強いらしい。第二夫人の話をし始めた相手を厳しく咎めて威圧するのを何度か見たことがある。
 ヒト族の歴史にも後継者問題を解消する手段として用いられているし、過去リリスの族長は正妻である真夫人以外の女性との間に子どもを儲け、優秀な者を後継者として候補にしてきた。もともと子どもが生まれにくいリリス族はそうやって続いてきた歴史がある。
 アマーリエはいまからその話をしに行かなければならないのだ。
 第二夫人云々の話題が彼の逆鱗に触れると、普段の様子を見ていればわかるだろうに、どうしてみんな理解してくれないんだろう。もう少しやり方を考えてほしい、なんてどうしようもないことを思いながら、部屋を守る兵士たち、室内の侍従、そして副官のカリヤへの挨拶を経て、キヨツグの元にたどり着く。
「……どうした」
「お忙しいところ申し訳ありません。ご報告とご相談があって……」
 キヨツグが視線を走らせる前にカリヤが出て行ったので二人きりになった。ますます気が重いが、仕方がない。
「実は」と話し始めてしばらくも経たないうちに、キヨツグはあっさりこの訪問の理由を悟り、アマーリエに最後まで語らせなかった。
「……そこまででいい。だいたいわかった」
 表情にも声にも感情が乗らないキヨツグだが、それがありがたくも恐ろしい。怒っていないようにも、煮えたぎる腹立ちを抑えているようにも感じられる。
 結婚してしばらく。それでも多少の感情の変化を感じ取れるようになったと思う。だからこれはきっと、本当に何とも思っていないのだ。
「どう、しますか?」
「……どうもしない。お前以外の妻は必要ない」
 仄暗い喜びが湧き上がり、アマーリエは静かに唇を噛んだ。
 リリスの常識外で育ったアマーリエの感覚は、彼を長といただき、尊い血を継ぐ者と崇める多数の人々にとって時には許され難いものだと自覚がある。立場ある人が第二、第三の妻を迎えて子孫を残さなければならないという考えも理解しているから。
 すると「……エリカ」と呼ばれた。顔を上げればキヨツグが机を離れ、長椅子に並んで座るよう手振りしている。大人しく従うと、隣にあった長い足が急に裾に包まれたアマーリエの足に絡みつこうとしてきて飛び上がった。
「え、な、何、何ですか!?」
 パンツスタイルや袴であればそれも可能だが、今日のアマーリエは旧暦東洋の服装で、足元は筒状の裾になっている。足を開くと裾が割れ、大変にはしたない。
 すると今度は座る腿の上に手を置かれた。再度驚いてキヨツグを見ると、ゆったりと椅子にもたれたままじっとこちらを見返してくる。何も言わない。なのに心臓は未だ忙しなく、驚かされ続けて疲れてきた。それなりの覚悟を持って嫌な話題を持ち込んできて、その反応がこれかと思うとため息が出る。
 そして、ちょっと仕返しがしたくなった。
(えい)
 戯れてくる足を、軽く蹴って追い払った隙に、上からぎゅうっと踏みつける。
 キヨツグが巨人の足なら、アマーリエは小人の赤ん坊の足だ。彼の足が自分と比べて大きいことがよくわかる。
 ちらりと上目遣いに見たキヨツグは、痛くもない感触にかすかに唇の箸を持ち上げて、いるような気がした。だが決して彼が懲りていないということは自明だった。アマーリエは小さく息を吐いて足を下ろす。
「……もう終いか」
「遊びに来たわけではありませんから」
 物足りなさそうな声を出してもだめだ。視線を逸らし、膝の上で両手を握りしめる。
 あれほど毎日降っていた雪だが、いつの間にか晴れの日が続くようになった。南の方ではすでに雪が溶け始めていることだろう。雪解けの芽吹きが、気付けば青々と大地を染める。決して留められない時間を象徴するかのように。
 それを嘆いた過去、恐れた自分はいまも胸に。
 その恐怖が拭われ、幸福の高みにいるいま、果たして自分たちの望みのままに生きていくだけでいいのだろうか。
「キヨツグ様」
「……なんだ」
「第二、第三の奥様を迎えるときは、二人で相談して決めさせてください」
 言った瞬間、軽い衝撃が横からやってきてあっという間に長椅子に押し倒された。反射的に起き上がろうとしたアマーリエをキヨツグという檻が捕らえる。
「き、キヨツグ様」
「……何故そんな話になる」
 わずかに眇められた目はまるで獣のようだった。不機嫌そのものの声に、ああ私にはそんな風に感情を出してくれるのだ、なんて奇妙な喜びに襲われて、真っ直ぐに彼を見返すことができなくなる。だがそうして身動ぎしたことでかすかに隙が生まれた首筋に、キヨツグの吐息と唇が触れた。
「ひぁっ」
「……何故、そんな話をする」
 ぞわぞわするものを押し殺して口を押さえるが、なおもキヨツグは繰り返した。
「……もう一度聞く。エリカ、何故そのような話をしなければならないのか」
「こ、答えます! 答えますからこの体勢はだめですっ!」
 途端に腕を引かれて座らされたが、背後から抱き竦められた首筋にキヨツグの鼻先が触れているので、状況はあまり変わらない気がする。むしろ背中にぴったりくっつかれているので悪化していると言ってもいいような。
「……エリカ」
 ぐるぐる回り始める思考に注意を促す低い声がして、アマーリエはびくっと我に返る。
「ええと、その……特に何かあったわけではなくて……」
 そこまで言ったが、解放してくれない。まったく納得していないとわかり、アマーリエは恐れと後悔を呑み下して、そっと口を開いた。
「……いまはそうでなくても、私たちは政略に基づいた婚姻関係を結びました。同じようにして、立場上結婚が必要になる可能性はまったくないわけではないと思ったんです。実際に一夫多妻だった族長は過去にいらっしゃったでしょう?」
 恋愛結婚した人もいれば、リリス内部の力関係の均衡を保つために相手を選んだ男性も女性もいた。それは決して否定できない過去であり、リリスの文化だ。
「私のせいで、キヨツグ様が難しい状況に立たされたり、リリスが壊れたりするようなことがあれば、後悔してもしきれない。私は最も恐れていたものから救い出されて、いま誰よりも幸せなんです。そんな風に恵まれた立場にいるからこそ、そのままでいたいがために他を蔑ろにするのは、許されない、と思います……」
 静かな語りに耳を傾けていたキヨツグは、嘆息を紛らわせるように身動ぐと、アマーリエをしっかり抱え直した。
「…… 逃げるな、と言いたいわけか」
 くぐもっているから拗ねているように聞こえて、アマーリエは慌てた。
「そんな、偉そうなことを言っているわけでは……私にこだわることで、たくさんの人を敵に回さないでほしいんです。私たちが天様や真夫人と呼ばれるのは、私たち以外のリリス族の人たちからいるからこそでしょう?」
 こんなときに思い出すのは決別した父ジョージのことだった。政治家で、第二都市の市長にまでなったのは、多数の市民の支持を得たからだ。人々の批判の声が大きくなれば、あっという間に指導者の地位を引き摺り下ろされる。血と力を重んじるリリス族のキヨツグもきっと例外ではない。
「……私の妻は、お前だけだ」
「キヨツグ様」
 どこか途方に暮れたような呟きだった。
「……お前以外など、あり得ぬ」
「…………」
「……あり得ぬ」
 あまりの強さに沈黙したアマーリエに、キヨツグは言う。
「……お前の考えは理解した。その通りだと私も思う。政治的理由で婚姻が必要となる状況に至る可能性は、皆無ではない」
 わかっているのに、そして自分もそう言ったのに、キヨツグが肯定すると勝手なことに胸が引きつるように痛んだ。かすかな息苦しさにアマーリエは大きく息を吸い込む。
「……そうなったら私はあらゆる手を用いてそれを回避する」
「キヨツグ様、それは」
 それでは結局身勝手な理由で権力を振り回している。振り向こうとするアマーリエにキヨツグは言葉を継いだ。
「……さもなくば、その新しい妻に不遇を強いることになる。夫婦関係を維持することは不可能だ。私の意志とは関わりのない部分で、何らかの不具合が起きる可能性がある」
 不思議な言い分だったので、アマーリエは身体を捻ってしっかりキヨツグの顔を見た。
「それは、どういう……?」
「……秘儀のせいだ」
 リリスの秘儀。アマーリエの常識外の、不思議な力が働く儀式。アマーリエをヒト族ではないものに変えたそれ。
「……改めて調べた。あまりに記録が少ないゆえ、恐らく大半は命山にあるのだろうが……」
 それは魂の結びつきを得る契約。半身、魂の片割れ、比翼の鳥と呼び表される、永遠のつがいを誓う儀式なのだという。そうしてもたらされるものは多岐にわたり、長い寿命、異能力、強靭な心身、回復力を持った人々がいたらしい。しかし多大な恩恵の代償に、近年成立した記録はなく非常に難しい儀式だとわかったそうだ。
 そうしてキヨツグは一つの結論に至ったという。
「……秘儀にて結ばれた者は、己が番の者以外を求めることがない」
 恐らく片割れ以外との関係を持つことは不可能だ、というのだった。
「……お前以外に欲情したことがないゆえ推測だが、おおむね正しいと思う。主となる者に比べて相手の者はその拘束が比較的弱いらしいゆえ、お前は安心していい」
 ものすごい告白を聞いてしまったので『欲情』の言葉に反応する余裕がない。
 アマーリエは我が身を振り返り、この一年、キヨツグ以外の異性に大きく心を揺さぶられたことがないと気付いた。
(だから安心して……って、違う、それは関係ない)
 自分はどうでもいい、と大きく首を振った。キヨツグ以外を選ぶことはないのだから安心するしないの話は必要ない。問題はキヨツグだ。特に心身の不具合や違和感を覚えていないアマーリエが『拘束が弱い』というのなら、彼は自分の意識とは異なる言動を強制されるのだ。
「大丈夫、ですか……? 意に反すると苦しくなったり痛みがあったり……」
 キヨツグはふっと、目にも明らかな微笑を浮かべた。
「……大事ない。先ほども言ったが、私は、お前以外に欲情したことはないゆえ」
 うっとりと、妖艶なほど楽しげに囁かれたアマーリエが漏らした悲鳴は、キヨツグに奪われた。
 重ね、絡めとられた唇と呼吸。苦しくて少し胸を押し返すが、口付けは深さを増すばかり。さすがに抗議の唸り声をあげたが、あっさり無視される。もう、奪われているのか与えられているのかわからない。
 でも、これが私以外のものになるのは嫌だと考える自分がいて。
 彼がそうしたいと思ってくれる女性は私だけなんだと喜んでいて。
 ――私だってそうだと、胸が、心が、魂が震えていた。
 アマーリエのすべてはキヨツグのものであり、キヨツグもまたアマーリエ以外を望まない。与えない。与えられない。求めず、必要としない。何故なら。
(あなたが私の)
「……お前が私の、ただ一人の妻」
 この幸福に浸りたいがために、思うままに力を奮い、他の犠牲を払う、そんなことは許されない。
 それでも譲れないもの、守り通すべきものはあるのだと、このときアマーリエは信じてみたいと思っていた。



初出:20101011/加筆修正:2011121
初出:2010101/加筆修正:20111217

改訂版:20220912

<<  |    |  >>



|  HOME  |