―― 恋 へ の 旅 路
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 花のように艶やかで、柳のようにたおやかで、したたかで賢く、しかし控えめに、常に優雅であれ――それがリリス族の理想の女性像だと理解しながら、違和感を覚えるようになったのはいつのことからだったか。
 北領の有力家に生まれついたユイコは、敬称こそ持たないものの姫君のごとくそうあるように育てられた。才に恵まれたらしく、礼儀作法、詩歌、楽器、馬の操り方まで同年代の誰よりも巧みだったユイコが、族長家に連なる血を引く若様の花嫁候補の一人となるまでにさほど時間はかからなかった。そして自分自身、それを当然だと思っていた節がある。
 でなければその花婿となるであろうマサキ・リィに「お前、つまんないね」と言われて怒り狂うことはなかったはずだ。

(ああもう、あの方は!)
 うら若く華やかな娘になったユイコはその日、自らの手のものから得た知らせを握り締め、凄まじい速さでリィ家の屋敷で目的の人物を探していた。
 出会い頭に尋ねられた家の者たちには悪かったと思う。優雅な、しかし鬼気迫る微笑みで「マサキ様はどちらに?」と言われれば、たとえ当主の命令で居場所を伏せるように言い渡されていたとしても嘘を吐くことは難しかったはずだ。
「マサキ様!」
 その部屋の扉を破る勢いで開け放った瞬間、マサキはぎょっとしてこちらを見た。
 瞬間、ユイコは怒りの表情の上に素早く微笑みを貼り付けた。つかつかと部屋に踏み入るとマサキの襟首を掴んで引き寄せ、彼に寄り添っていた娘に優しく告げる。
「外してくださる?」
 マサキの腕の中にいた少女は途端にはだけていた襟元を掻き合わせて逃げ出した。
 どれほど気の強い女性でも怒れるミン家の令嬢に歯向かうことは難しかっただろう。去り行く娘を見送り、乱れた髪を額から払ってふうと息を吐くと、声がした。
「おーい、ユイコ? いい加減離してくんない?」
 どことなく間の抜けた呼びかけに、ユイコはさらに強く襟首を掴んで自らに引き寄せると、にっこりと満面の笑みで迫った。
「わたくしの質問に答えてくださったら離して差し上げますわ」
「あ、いまの子? いやー別れ話してたら最後の思い出を、とか言われちゃってさー」
「マサキ様」
 呪詛を唱えるに等しい低い声で呼ぶと、さすがのマサキもよく回る口を閉ざす。
「――都市へ行かれるとは、どういうことですの?」
 マサキは動きを止めてユイコを見遣り、こちらが決して軽薄な理由で尋ねたわけではないと知ったらしく、薄い笑みを浮かべた。
 飄々とした態度で立ち回る彼が、鋭い目をして酷薄に笑う、それを見て、ああ事実なのだ、と力が抜けた。
「どっから聞いた? 極秘事項だぞ」
「……知人から、あくまで噂だが、と」
 それはミン家の子飼いで、宮中の様々な情報をこちらに報告するための者だ。どの家、どの有力者もこのようにして王宮に情報収集を主とする者を送り込んでおり、族長とその周囲の状況の把握に努めている。
「ウワサねえ……間諜に掴まれるようならほぼ事実みたいなもんじゃん。いや、従兄上のことだから敢えてかな? いやだなーあの人、マジで。見せしめかよ」
「その言い様は、事実なのですね?」
 マサキは胡座を組み替え、やれやれと肩を竦めた。
「まあ、そういうこと。都市に遊学するよ」
「何故北領を治めるリィ家の当主が? 見せしめと仰いましたが、まさか、以前天様のご不興を買った、あの件が理由ですか」
 ユイコは眉をひそめ、声を落とす。
 半年ほど前、リィ家当主マサキとその母シズカは、結婚して間もない族長と花嫁を寿ぐために王宮を訪れた。だがその実態は、前族長の実妹であるシズカの暴走を止めるためマサキが無理やり同道したのだというものだ。
 何故ならシズカはリリス至上主義の異種族嫌いで、族長の花嫁はヒト族。危害を加える可能性を危惧してのことだった。
 ユイコたち数名の年頃の娘も、シズカの世話係として帯同を許されていた。シズカから、機を見て族長に接近し、ゆくゆくは真夫人となれるように寝取ってしまえ、とまで命じられ、ユイコを除く全員が、ヒト族の花嫁の無知を嘲笑うシズカに追従し、彼女に指示されるままにわざとらしい嫌がらせを仕掛けていた。
 これはまずいと思い、マサキの側についたつもりで色々と動きはしたものの、決定的な瞬間まで手出しできなかったユイコも同罪だろう。
 結果的に、これらの出来事は我らが族長の目に余り、また夢見の巫女の託宣もあって、シズカは北領に戻ることが不可能となり、巡礼の旅に出ることを義務付けられた。また身内の監督を怠った咎で、当主であるマサキもしばらくの蟄居を命じられた。
 ユイコが指したのはこれらの騒動のことだった。しばらく行動が制限されるとはいえ、族長夫妻にとってシズカが危険人物であることは変わりない。シズカが自らの手駒だと思っているマサキは、実母を心底嫌っているが、彼女の駒にならないよう、リィ家の力を削ぐために遠くへ追いやろうという思惑があってもおかしくはない。
 各氏族の力関係を大きく揺るがすことを案じて真剣な面持ちになるユイコだが、当のマサキは明るく苦笑いしている。
「まあ、まったく関係ないとは言わないケド」
「リィ家は恭順を示しましたのに、天様のなさりようはあまりにも……」
 ヒト族にとってリリスが未知であるように、ヒト族の国がどのようなものかユイコには想像がつかない。真夫人と接して、決して恐ろしい人々ばかりではないのだと思っても、リリスでの彼女の懸命さや努力を見ていれば、マサキに訪れるのも決して平穏な日々ではないだろう。
「期限は決められていますの? お戻りはいつ?」
「わかんねえ。一生あっちにいるかもしれねーな」
 ユイコは息を飲んだ。
 いつ戻ってこられるかわからないそれは、遊学とは言わない。
「それはもう流罪ではございませんか!」
「静かに。声がでかい」
 どうどうと宥められるが、気持ちが治らない。
「リィ家を支える氏族たち、リィ家が監督下に置いていた者たち、それらはすべて天様の従弟であるマサキ様がまとめていたもの。 そのマサキ様がいなくなったら北領はどうなるか」
「北領はしばらく天様の直轄になるし、そのうち代わりの人間を寄越してくるって。いるだろ、適任者が。ここから結構近いトコに」
 マサキが言うのは彼のもう一人の従姉のことだ。
 北部戦線、前線にて戦う姫将軍リオン・シェン。族長の妹で、戦士たちをまとめて戦うだけあって統率力が高く、また人間的魅力に溢れた勇ましい人物で、統治者としての能力は疑いようもない。
 だがユイコは危機感を覚えた。それは恐らくこの北にまつわる氏族に共通する恐れだろう。
「天様は、北領を完全に押さえるおつもりですか」
 リオンが北領の主になれば、リィ家の権威は完全に墜ちる。これまで北を治める者として築いたものをすべて奪い取られてしまう。
 そう考えてしまうユイコは、やはり北の人間としての考え方が染み付いてしまっている。
「さすがにそれはないって」
「ですが!」
 途端にマサキは語調を強めて「ないから」と言った。
「天様はリリスをあまねく統治したいと考えるような人間じゃない。むしろ自分の力が強くならないよう巧みに調整しているような人だ。それにリオンも、たとえ能力があったとしても領主なんてやりたがらない。一つの場所で大人しくしていられるようなやつじゃないんだよ」
 そういう言い方をするマサキと、族長家の人々との縁の深さを思う。
 シズカのお気に入りであるユイコは主に北領で過ごし、行事ごとの折に王宮に滞在して他氏族の者と交流を持っていた。族長や姫将軍の人となりを知れるほどの関わりはないのだ。
 マサキは掴みどころのない言動をするが、楽観視はしない。彼がそのように評価するならその通りなのだろう。
「……一時的な措置と、信じてよろしいのですか?」
「現状、な。納得できないやつらが暴挙に出れば、この限りじゃあねえなあ」
 その通りだ。北領の者たちの行動次第で、最悪の結果を呼び寄せる可能性はある。
 ユイコは神妙に頷いた。
「かしこまりました。暴走しないよう、できる限り抑えておきます」
「いや別にお前がそこまでしなくてもいい……、わ、わかったわかった。そんな顔すんな。お前顔が綺麗だから凄むと怖ぇんだよ!」
 再び笑顔で迫ったユイコはマサキに押し留められて一応退いた。次に浮かぶのは呆れの表情だ。
「そこまでしなくていいとは、わたくしを何だと思っておりますの?」
「お前こそ自分を何だって思ってるの? 俺の婚約者でも妻でもないだろ」
 冷たい目と薄ら笑いが交差する。
「だから、何です? 理由がお聞きになりたいわけですか?」
「そこまでする理由、ある?」
 わかっているくせに、とユイコはちょっと笑った。
 ユイコの価値、それは教養深く気高く強く美しく、やがて高貴な者の妻となり、良き妻良き母として家や氏族を取りまとめる女であること。武勇を得るより佳人であれと育てられ、仕事を知らぬ女でいるよう言われてきた。そうしていつからかマサキの花嫁となることが一つの終着点になっていた。たとえマサキに嫁がずとも彼に等しい身分の持ち主との結婚をするだろう。
『お前、つまんないね』と、初めて対面したマサキに言われなければ、自分に何の疑問も持たなかった。
「マサキ様は、どう思われますの?」
「質問に質問で返すなよ。礼儀がなってないって言われるぞ」
 望むところですわ、とユイコは笑い、目を伏せた。
「お慕いしているからです。たとえあなた様にはそのように思えなくても」
 溢れる想いは自らを嘲る冷たく暗く沈んだ声になった。込められた思いと大きく食い違うのは、この思いが彼に受け止められないことは最初からわかっているからだ。
「お前のその気持ちは、そうあるべくして植え付けられたものだろ」
 冷淡な目をして意地悪な事実を口にする彼を、ユイコは笑みを浮かべて見つめ返した。
 幼い頃、つまらない、と言われたとき、ユイコは衝撃を受けた。
 そのように人を見るマサキのこと、自らの価値観を否定されたこと、頭ひとつ抜けていると評価されるとはいえ同じような娘を集めればほとんど無個性である自分自身に気付いて。
 殻を破るには時間がかかった。自分らしさを出そうと試みた結果の奇行は、マサキに困惑されたこともある。それでも遠ざけられなかったのは、どうすれば変われるのか、自分らしいとは何なのかを手探りする様を見せられる相手が自分だけだと彼が理解していたからだろう。
 捉えどころのない言動で本心を隠しているのに、芯から優しい人。
 私を変えてくれたあなた。
 けれどそれでもマサキにとってユイコは、彼にまとわりついて媚を売り、建前の恋を告げ、愛を求める娘たちと大きく変わらない。
(情熱的に、恥じらって、愛を告げればよかったのかもしれない。でもこれがわたくしだもの。わたくしの、大事な恋心)
 宝石のように凝らせて。誰にも触れさせないようにして。叶うことを望まずに大事に抱く。
 そのためには冷たくせねばならなかった。泰然とあれと躾けられたことが、こんなときに役立つとは、人生とはわからないものだと思う。
「ユイコ」
 目を上げたユイコに、マサキは憐れみの表情で苦しげに言った。
「叶わない恋心を抱くのは、もう止めろ」
 自分はこれから後ろ暗い道を歩むのだと、マサキは悲嘆もなく静かに語った。
 都市への遊学は建前で、実際は潜入調査であること。
 ヒト族の文明と技術を学ぶために長期滞在となること。
 結局は間諜であること。
 ユイコへの贖罪のように。傷付けたと思い、詫びようとするみたいに、真実を。
「良家のいい奥方になれるお前が、影を進もうと決めた俺に囚われているのは……正直に言って、重い」
 自分が痛いような顔をして、居心地の悪い沈黙から逃げ出すかのように、マサキは立ち上がって部屋を出て行こうとする。
「ミン家の者たちが納得できる相手を見つけてやるから、俺のことは忘れて幸せになれ、っ痛ででてっ!?」
 立ち上がった勢いでマサキの伸ばした後ろ髪を引っ掴んだユイコは、肩を怒らせて叫ぶ。
「それは優しさのおつもり!? 信じられない、最低!」
「髪、髪を引っ張るな!」
「マサキ様がこれほど無粋な方だとは思いませんでしたわ! 優雅さも欠片もない、なんて陳腐で悪趣味な別れの言葉!」
「うるせえな! じゃあ何つったら納得すんだよ!?」
 売り言葉に買い言葉。互いに喧嘩腰になったものの、マサキは途端に感情を収めた。
 途端、ユイコの視界が熱く歪み、眦から透明な雫がこぼれ落ちる。気丈な瞳いっぱいに溜まった涙がついに溢れてしまったのだった。

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