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 それからすぐにマサキは都市への遊学に出た。真相を知る者は多くなかったため、彼の指示通り、リィ家と北領は一時的に先代当主の弟に託されたが、先立ってのシズカの騒動もあって行動を起こす者も皆無だった。
 ユイコはミン家の娘として、父母を助け、ちょっとした集まりなどに顔を出して近しい氏族との友好を温め、シャドの情報を集めるなどいつも通りに過ごした。
 冬が終わり、夏が来ても、マサキからの手紙は来なかった。気が向かなかったのか、忙しいのか、どちらにしても悔しくてつい床を踏み鳴らしたユイコだった。
 そのうち命山の声明がもたらされるという異例の事態もあったが、心優しい真夫人が強力な後ろ盾を得られたことには本当にほっとした。
 ――リリスを揺るがしたのは、その年の冬のことだった。
 未知の病に、リリスの多くが倒れ、命を落としたのだ。
 病は族長であるキヨツグにすら襲い掛かった。これをきっかけにしたようにユイコの周りでも数人が倒れ、死に至る病に近付くことのないよう家に閉じ込められそうになったが、家人の制止を振り切って医院や療養所を行き来して治療の手伝いや看病に走り回った。
(マサキ様はご無事だろうか……)
 都市にいるというマサキから連絡は来ない。だが何もないからこそ無事であると信じて、自らにできることを続けた。
 族長が倒れたことでシャドは大きく混乱したようだったが、北領も、他の地域もそう変わらない状況だったようだ。南部などは遊牧の民が次々に病に侵され、ひとところに滞在しない彼らが街や集落を頼ろうとした際に追い返そうとする住民と衝突するなどの事件が多発したようだ。
 それはシャドからの呼びかけと、ヒト族の医療従事者を招き入れて急遽治療施設を設置したことで何とか収まった。
 さらにしばらくして特効薬がもたらされ、人々はようやく病の脅威から逃れることができた。
 だがその直後、ユイコは、真夫人アマーリエが重症化して都市へ運ばれたという情報を得た。
「いったい何があったのでしょう?」
「わからん。滞在中のヒト族との間に何かあったようだが、それ以上の話は聞こえてこない。中央で片をつけるということなのだろう」
 父のミン卿はそう言って娘の問いに首を振った。ユイコの耳に、シャドにいるヒト族の医師たちが拘束されていることは届いていたが、その理由も、都市に行った真夫人に関わりのあることなのかも不明だった。
 だがその理由は、おおよそ察せられた。族長の回復の報がもたらされたからだ。政務に戻った族長が不在中のすべてを取り戻す勢いで手を回したことは明白だった。リリスに足を踏み入れたヒト族が何らかの企みを持って動いていたに違いない。
 だがユイコには、ぱったりと真夫人について聞こえてこなくなったことが気になった。
(真様のお加減はいかがなのかしら。さすがにもう快くなられたのではないかと思うのだけれど……)
 不気味に沈黙しているキヨツグのこともあった。短い時間でも二人の在り方を目の当たりにした者から見れば、彼が異種族の花嫁に愛していることは疑いようもない。誰よりも何よりも慈しみ、自らと引き換えにしても幸福にしようとしていた。
(天様は、もしかしてマサキ様に真様を託された……?)
 愛しているからこそ手を離す。信頼のおける者に託す。
 この三者にあったやり取りの断片を知るユイコには、その可能性は決して低くはないと感じられた。
 部外者とはいえ、関係を絶ったように見えるその真意を問いただしたい。
 だがいくら訪問の約束を取り付けようとしても、キヨツグからもたらされるのは多忙ゆえにしばらくの謁見は不可能であるという無慈悲な返信だった。マサキにはできても、族長の元に押しかける真似は、ただの有力氏族の娘であるユイコにはできなかった。

 やがて、春が訪れた。
 病をきっかけに様々な出来事がリリスを襲った。モルグ族との同盟、ヒト族による病を利用した卑劣な侵略行為の事実、噴き上がる怒りと怨嗟と、族長への不満の声。戦だ、と叫ぶ声は武力による報復を望んでいた。
 巡礼を一時的に切り上げて舞い戻ったシズカも例外ではなく、族長へ直訴する、早く呼び出せと息巻いていたが、まるですぐ近くで見ているかのような折に届いた巫女ライカからの文で、巡礼の参拝を続けるよう注意され、恐れたように旅に戻っていった。
(病が流行っているときは屋敷に寄り付かず、直訴すると言うけれど王宮には行かず呼び出せという……そういうところをマサキ様は毛嫌いなさっているのよね)
 リィ家の現当主の母、前族長の妹にも関わらず決して自ら矢面に立つことのない態度に、北の氏族の女たちと力を合わせて病に立ち向かったユイコは深々と呆れたため息をついた。
 また戦になるのか。長く戦うことになるのか。
 結成されたリリスとモルグ族の同盟軍は表向き、ヒト族との同盟の再締結と、真夫人アマーリエの帰還の迎えとされていたが、これだけの人間が集う動きをヒト族が察知しないわけがない。あちらも相応の武力を率いて待ち構えているだろう。
(どうかご無事で)
 戦う力を持たない者の一人として、境界へ向かうリリスたちを見送り、ユイコが思うのは未だ連絡もなく都市にいるであろうマサキのことだった。

 ――その後のいくつかの奇跡は、ユイコがいた北の地でも目にすることができた。

 碧空に翼を広げた宙の者たちが飛び去る、その光景を目に焼き付けて、遥かに続く大地の果てとも思えるヒト族の都市に思いを馳せた。
 わたくしにも翼があったなら。
(お寂しくはございませんか? 憎まれ口を叩いて、くだらないことを笑い合える方はお側におりますか? あなたを助けて支える者は……)
 この風に、自分の一欠片でも届けることができれば。
 風になればいますぐ側に行けるのに。
(……そうよ。そうすればよかったのだわ!)
 どうしてすぐに気付かなかったのだろう。
 リリスのすべての氏族を率いて花嫁を迎えに行った族長のように、ユイコも都市に、マサキに会いに行けばいい。
 これまであぶくのように度々浮かんでいた数々の焦燥や、不甲斐なさ、意気地のなさへの怒りの理由が、この瞬間すべて理解できてしまった。都市に行くマサキについていけばよかった。遅れてでも、後を追っていけばよかったのだ。伸ばした手からすり抜ける彼を、顔を見た途端逃げるように迂回する彼を捕まえてきたように。どこに行っても、どこであっても、勇気を出して駆けていけばこんな焦ったい思いをすることはなかった。
 宙の一族の翼は、すでに遠い。
 けれどその羽ばたきは世界を、人を、大きく変えるだろう。
 風が吹いた。春の匂いのする、旅する風。きっと都市にも吹くそれに背中を押されて、ユイコはようやく自らの小さな足で大きな一歩を踏み出すことを決意した。


 命山の庇護と宙の者の加護を得た族長と花嫁の帰還は、リリスの多くの者に祝福された。ユイコもその一人として、アマーリエが戻ったことを祝う手紙をしたため、一方、キヨツグには頼み事と自らの思いを綴って送った。
 族長に何かを願い出るなど滅多にないこと、彼の普段の厳しさと冷徹さを重々理解しているせいか、待つ間はどうにも落ち着かなかった。
 だから返信が来たときはほっとした。そして王宮に呼び出される内容には背筋が伸びた。
 意志と願い、説得の材料を用意し、凜然とした身なりで武装するようにしてユイコは未だ落ち着かない王宮に、キヨツグの御前に上がった。
 謁見の間のキヨツグは、まるで研いだ刃のように痩せて、鋭い気配をまとっていた。しかし眼差しは柔らかく、顔を上げるよう促す声はユイコを気遣って優しい。
「久しぶりだな」
「大変ご無沙汰しております、天様。真様も、お元気そうで何よりでございます」
 少し離れたところにちんまりと座っていたアマーリエはにっこりと笑顔になった。彼女にも病み衰えて痩せた気配があったが、回復の途中なのだろう、表情は明るく、落ち着いた気配を伴っている。最後に会ったときはいかにも少女らしいいとけなさがあったが、その頃とは異なる清廉さが淡い光となって彼女を覆っているようだった。
「それで」とキヨツグが口を開いたとき、部屋の隅から女官がにじり寄ってきた。女官はアマーリエに耳打ちし、彼女はあっという顔をして、慌てた様子で膝を浮かせる。
「申し訳ありません。せっかくお越しいただいたのですが、ここで失礼させていただきます」
「どうした」
 キヨツグの端的な問いに、アマーリエは困ったような笑みを浮かべる。
「コウセツがぐずっているみたいです。少し見てきます」
 アマーリエはユイコに謝罪し「またお会いできますように」と言って退出していった。
 それを見送った途端、室内がわずかに暗くなったように感じられたが、先ほどよりも空気はふわりと暖かくなっていた。
「……御子様もお健やかでいらっしゃるようですね」
 この頃にはユイコたちリリスの多くが、当時都市へ移送されたアマーリエの状況と理由を知るようになっていた。
 流行病に倒れたときの彼女はキヨツグの子を宿しており、二人分の命の安全のためにリリスよりも医療が発達した都市へ搬送せざるを得なかったという。だからこそリリスの者たちは真夫人と御子を取り戻そうと一致団結し、全氏族が境界に集うこととなったのだった。
 アマーリエの変化は母親になったことも大きいのだろう。変わらず少女のように儚いが、子どものことを説明する彼女は覚悟を持った母親の顔をしていた。
 キヨツグは言った。
「健やかすぎるくらいだ。時々こうして母を求めて癇癪を起こすのも、本人なりに見知らぬ土地にいる所以を知りたがってのことらしい。呼び出しておいて落ち着かぬ状況になっているが、容赦してもらいたい」
「天様がそのように仰る必要はございません」
 無慈悲と評された族長も、我が子は可愛いものらしい。謝意と気遣いにユイコは微笑み、そうして殊勝に頭を垂れた。
「御子様が最優先、わたくしはいくらでもお待ちいたします。むしろ押しかけたわたくしこそ、許しを請わねばなりません」
「都市の状況、ならびにマサキの様子を知りたいということだったな」
 来訪の目的である話し合いが始まり、ユイコは気を引き締めて「はい」と答えた。
「知って、どうする」
 都市と一触即発の状況にあり、度々王宮を不在にしていたキヨツグだ。向こうにいるマサキと連絡を取っていないわけがない。こういうときのために先んじて彼を潜伏させていたのだとすれば恐ろしいとも思うが、それでも自分の望みのためには恐怖も怯えも飲み込んで訴えなければ何一つ叶わない。
 無感動にこちらを見つめる視線を真っ向から受け止めて、言った。
「可能ならば、マサキ様と同じお役目をいただきとうございます」
 都市に入り込んでいるリリスは、恐らくマサキだけではない。戦う手段を持てばいいのだから女性もいるはずだ。ユイコは決して武芸者ではないが、人付き合いや情報収集能力、それらで鍛えた胆力は、都市での任務を負うのに十分なはずだった。
「マサキに与えているのは、お前の思っているような平穏な務めではない」
「天様が仰るのならそうなのでしょう。ですがリリスのように武器を携帯し、防具を身に着ける日常とは無縁と聞き及んでおります。ならば戦えぬわたくしはヒト族に紛れることが可能なのではありませんか?」
「確かに、リリスとは異なる文化だ。しかし武器は存在する。剣や弓では敵わぬ、殺傷能力の高いものだ。如何な武者もその武器の前では無事では済まぬ」
「それではヒト族の都市は比較的平穏な場所なのですね。そのような武器が存在するにも関わらず、真様のような方がお暮らしであったくらいですから」
 教養として馬術と武術を嗜むリリスの女性に比べて、アマーリエはずっと脆くて弱い。為政者の娘であるとは聞いているが彼女だけが特別すぎるわけではないはず。そう思って微笑み返すと、キヨツグはじっとこちらを見つめ、視線を廊下へ、そこに控えていた女官に向けた。
 意を汲んだ女官がしばらくしてキヨツグに何かを差し出す。不思議な絵が描かれた紙の箱だ。
「都市の機械で、携帯端末と呼ばれるものだ。一週間預ける。これを使いこなせれば、お前の願いを聞き届けよう」
 機械、と聞いて、それを禁忌と厭うリリスの価値観が嫌な感じに蠢く。
 だがもう決めたのだと、ユイコはそれを恭しくいただいた。
「お預かりいたします。必ずや天様のご期待に応えます」
 こうしてユイコは定められた期間、王宮に滞在することを許された。

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