―― 比 翼 天 花
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 爛漫の春はあっという間にやってきた。雪解け水が大河となり、土は緩んで、小さな虫たちが活動する。鳥が賑やかに歌い、動物たちの気配もより強く、各地で豊穣を祈って舞って踊る祭りが行われるのもよくわかるくらい、世界が生き生きしていることが感じられている。
 リリスの者たちの動きも、コウセツのお披露目会を経て活発化していた。春になると、自らの資質を示すべく優秀な者たちが次々に王宮に仕官するようになったのだ。また内情はともかく高水準の教育を行うという触れ込みの塾や教師も現れ、どこの家庭でも教育の話題が席巻していることがアマーリエの耳にも入ってきている。これがいい方向ばかりに転がるとは思っていないけれど、新しい考え、世界の変化に敏感で、未来について思い巡らせることができる人々が増えることは、族長であるキヨツグからリリスの同胞への贈り物でもある。
 無限の未来へ至る数多の可能性――次の世代の、そしてその次の、また次の世代の者たちが自分たちにとって最善の未来にたどり着けるように。
 またこの動きに伴って、キヨツグの花嫁の座やアマーリエを引き摺り下ろそうとする者たちの数は一気に減ったようだ。消滅したとは言えず、燻るものがいつか再び燃え上がることはあり得るけれど、きっと大丈夫だという気がしている。
 そのようにしてゆっくりと感慨にふけることができるように、アマーリエたちが執り行うべき大きな行事はなく、いま少しゆっくりと過ごせる期間ともなっていた、そんな折だった。
(……あら?)
 公務の合間を縫ってコウセツのいる子ども部屋に向かったアマーリエは、その入り口に見慣れない黒塗りの箱が置かれているのに気が付いて首を傾げた。
 上質な塗りの箱に、朱色の結び紐、紐の先には飾り玉と、いかにも高級だが、こんなところに置かれている理由がさっぱりわからない。
「誰か、この箱に見覚えがない?」
 とりあえず触れないでおいて、室内にいた乳母や自分の女官と護衛たちに尋ねてみるが、誰も知らないと首を振る。
「贈り物でしょうか……でもどなたから?」
「先ほど通ったときはなかったように思います」
 コウセツのお披露目会は終わり、長逗留していたリオンとアシュも北領に戻っていった。滞在中さんざん血の繋がらない甥を可愛がっていったリオンだが、いまさら彼女からの贈り物でもないだろう。他の誰だとしてもここまで人目につかずにやってこられるはずがない。
「……あ!」
 否、いる。一人だけ。
 存在をどこまでも希薄にしてどこにでも現れることのできる人のことを思い出し、アマーリエは手を打った。だとすれば高級な塗り箱を置いていく理由にも納得がいく。
 だが念のため、護衛官立ち合いのもと、箱を開けることになった。
 持ち上げた箱は、思ったよりも重い。紐を解き、そっと蓋を持ち上げる。
「おお」「まあ」と興味津々に覗き込んでいた護衛官と女官たちが感嘆の声を上げた。
 中に入っていたのは美しい銀の匙を主にしたカトラリー一式だった。
「なんて見事な銀細工でしょう。あしらわれている意匠も、御子様の幸いを祈るものですね」
 鍵、月桂樹、馬蹄など、意味のあるシンボルがささやかに使われている。
 銀は魔除け。その銀の匙を子どもに贈るのは、裕福さと幸せな家庭を象徴し、食べ物に一生困らないことを祝う意味がある。一流の職人が丁寧に彫刻を施した美しい食器は、その意味がわからない子どもだけでなく、両親にも贈り主が心から新しい命の誕生を喜んでいることが伝わる嬉しい贈り物だ。
(銀のスプーンを贈る風習、リリス族にはあんまり浸透していないような気がするんだけど、さすがだなあ)
 長く世界の変わる様を見てきた人だから、失われたものも残っているものもちゃんと覚えているのだろう。ありがたく受け取ることにして、キヨツグにも知らせておこうと人を呼び寄せたとき、室内で悲鳴のような声がした。
 護衛官が飛び出していき、アマーリエも遅れて室内に飛び込む。
「どうしたの!?」
「し、ししし、真様っ! み、御子様が……っ!」
 動揺し切った乳母の訴えに、コウセツに何か、と顔色を変えて姿を探したアマーリエは、次の瞬間、大きく見開いた目を何度も瞬かせることになった。
 コウセツはちゃんと室内にいた。丸い頬をいつもより赤くして、嬉しそうにはしゃいで遊んでいる。
「あっ、たーた! きらきらよぅ!」
 アマーリエを見つけたコウセツは手にしていた遊び道具を振って満面の笑みだ。彼に手にあるのは輝く紐――に見えたが、よくよく見ればそれは、立派な金でできたブレスレットだった。
「も、もも申し訳ありません! どこからお持ちになったのか、あのような高価な……!」
「ああ、うん……大丈夫……多分、コウセツのもののはずだから……」
 脱力するアマーリエのため息と、乳母の「はいぃい?」と狼狽する声に高価な装飾品を取り上げようとする声、逆らうコウセツと、いつの間にかやってきてそれにじゃれつく黒猫のコク、再び上がる悲鳴、という混沌の光景は、落ち着くまでにいましばらくの時間を要した。

 そんなことがありまして、と問題の銀食器と金の装飾品を持って、アマーリエは執務中のキヨツグを訪ねてその意向を伺った。
「恐らくあのお二人からだと思うんですが……」
「……そうだろうな」
 こういう贈り物をするような身分の、誰にも気付かれず置いていってしまうような人物なんて、キヨツグにも他に心当たりがなさそうだ。
 あの二人――たくさんの名前と、それが必要になるだけの時間を生きた彼と彼女。一人は一時期王宮に、オウギという名でキヨツグの警護をしていた。もう一人は遥か命山に、一族を示すリリスの名を背負い、女神とも呼ばれている。
 彼らこそ、キヨツグの血を分けた実の両親だ。
「……いまになって寄越さずともよかろうに」
「そんな言い方は……きっと立場を憚って控えていらっしゃったんでしょう。贈るか贈らないか、いまさらじゃないか、なんて意見を戦わせているお二人が見えますもの」
 贈るにしても、届けるのはオウギ、改めセンだ。手紙を残すかどうかでも言い合う二人が簡単に想像できて笑ってしまう。だがもちろん、そんなことキヨツグは百も承知なのだろう。
「他の方に倣うのでしたら、返礼の品物をお送りすることになりますが、どうしましょうか」
「……送ったところで、受け取らぬだろうな」
 そう、それが悩みどころなのだ。命山はリリスの最高機関とされ、世俗とは切り離されている。山に登ることも容易ではないし、品物や手紙もよほどでなければ届かないと考えた方がいい。
「送るだけ送って、麓の街の廟にお供えしていただきましょうか。お菓子かお花か、巡礼の方も見ていただけるような」
「…………」
 悪くない提案ではないかと思ったのだが、返事がない。どうしたのだろうと思ったらふと顔を上げ、「カリヤ」と隣の部屋にいるはずの側近を呼ぶ。
「はい。何の御用ですか?」
「これから一月のうちに、三日ほど不在にして問題のない期間はあるか」
 カリヤは物凄く嫌そうな顔をした。
「………………予定を詰めていけば、不可能ではありません」
「ではエリカと合わせる形で三日間都合をつけるよう」
 そのためにどれだけの人間が苦労するか、という表情を隠さないカリヤに反応しないキヨツグが怖い。見えていないはずなのに何も思わないというのが不思議で仕方がなかった。
 いやそれはともかく、その三日間はいったい何なのか。
「あの、キヨツグ様? これはどういう……?」
「……気がかりが一つ残っている。それを終わらせに、命山に行く」
 思いがけない宣言にアマーリエは驚き、カリヤは頭痛を覚えているらしいものすごい形相でキヨツグに対するいくつかの恨み言を長々と唱えていた。

 とりあえず返礼の品は準備し、先んじて命山に送る手配を整えた。そのときにこれからそちらを訪ねるというキヨツグの手紙が添えられている。しかし手紙を受け取るよりも前からこちらの動きはわかっているはずだとキヨツグは言った。
「突然お訪ねして、ご迷惑ではないでしょうか」
「……そうだったなら事前に制止してくる。それがないのだから、問題なかろう」
 予定を調整するため、お互い急ぎの仕事を片付けている状況で、話し合いや報告は寝所で行われるようになった。
 命山への訪問は、コウセツのお披露目に絡めて、彼の成長を報告して将来を記念するためという名目になった。急遽差し込まれた予定に、小休止的な期間を迎えたはずの側近たちは大慌ててで支度を整えてくれ、麓の街まで同行する者も決まった。こう何度も命山に行く機会があるとは、なんて、最近キヨツグとアマーリエ付きになった新任の護衛官は笑っていたくらい、珍しい事態なのだそうだ。信仰心が薄れつつあるいま、最高機関であっても参拝に行くような人間がほとんどいなくなっているという証左だった。
「……向こうもそれを望んでいるのだろう。片付けるべき予定がこうも都合よくずれ込むとは、とカリヤが気味悪そうな顔をしていた」
 ここと見込んだ三日間のため、前後の予定をずらし、差し込まれるであろう案件の状況を観察していたら、それが上手く片付くなどして見事に予定通りの旅程を獲得できたのだ。キヨツグと同等に諸官や政の流れを読むカリヤが、こんなに都合よくいくはずがないと顔を引きつらせるのも無理はない。
「それを言うなら、コウセツもですよ。多分何かを言われたんだろうなという反応でしたから」
 命山行きにはもちろんコウセツも連れていく予定だった。二人にとっては孫、お祝いの品を贈ってくれるくらいなのだから可愛くないはずはなく、気兼ねなく会ってくれればと思ったのだ。
 だがアマーリエの目論見は大きく外れた。みんなでお出掛けしよう、と事情を説明するとコウセツは大人しく聞いた上で、にぱっと笑ってこう言った。
『ん! いってあっしゃー』
 一緒に行くんだよ、父と母だけが行くんじゃないのよ、と説明しても「ん!」とかいってらっしゃいを意味する「いってあっしゃ」や上手に言えないばいばいの「ばいばー」を言う。ずっといい子だっただけに困惑もひとしおで、色々相談した結果、コウセツは置いて行こうということになったのだ。
(『コウくん、いいこよぅー』って、わかっているんだからそうでないんだかっていう笑顔は可愛いんだけれど……心配だ)
 何かあればキヨツグ、可能性は低いがアマーリエも不在にする瞬間が起こりうる立場ではある。そのときのために慣れてもらう、と考えれば落ち着くかと思ったが、三日間は長い。それだけの時間を離れて過ごさなければならないのは、色々と嫌な記憶を呼び覚ましてしまう。
 アマーリエの伏せた目元に、キヨツグの指先が触れる。弾かれたように身を竦めて苦笑いを浮かべた。
「泣いているわけじゃないですから、大丈夫ですよ?」
「……見たところはな」
 心の中では不安に身を縮めているのだろうと言外に言われ、やはりこの人は勝てないことを思い知らされて、くすりと笑みを溢した。
 そう簡単に強くはなれないけれど、弱い自分がいま何を思って震えているのか、ちゃんと見えるようになったしゆっくりとだけれど受け入れられるようになった気がしている。時間が、アマーリエの近くにいる人が、少しずつ成長することを許して見守ってくれるからだ。
 触れていた指先は唇に変わり、慰めの言葉は口付けになった。背中を支える手は熱く、髪を梳くもう一方はまるでアマーリエを撫でているかのようだ。そうやってアマーリエ自身が硬く結んだ心に触れていく。そうして。
(――……解かれてしまう)
 目尻から頬に、そして唇にと落ちる口付けに、アマーリエは小さく息を零した。
「……どうした?」
「キヨツグ様。……気がかりって、何のことですか?」
 キヨツグは刹那動きを止め、少しだけ口の端に笑みを載せた。
「……約束をしている。借り物を必ず返すと」
 それに気付いたアマーリエの好きにさせるように、彼は首を傾けて伸ばした指先にそれが触れるようにした。
 古い、年代物の耳飾り。近頃彼が必ず身に着けるようにしていて、就寝時も決して外さないでいるくらい大切なものだ。預かり物という言葉通り、その持ち主は確かに命山にいる。
「……もう、必要になることはないだろう」
 耳飾りとともに借り受けたその力が何なのか、アマーリエにはよくわからない。
 ただそれを必須と考え、お互いに結ぶ必要がないと考えていた親子の絆と可能な限り避けていた対面の時に臨んだキヨツグの思いの強さは、ちゃんと知っているつもりだ。
 それを返すというのなら、きっともう『大丈夫』なのだ、と思う。
「……そうだったんですね。じゃあ、ちゃんとお礼を申し上げなくちゃいけませんね。私も、以前お世話になりましたから」
 笑うアマーリエに、キヨツグが互いの鼻先を擦り合わせるように距離を詰めた。長い睫毛に触れてしまいそうな、瞬きの起こす風すら感じることができてしまえるところに彼がいる。アマーリエの鼓動は否応なしに高まっていく。
「あの、あの……仕事の話は……」
「……もう一つ、約束事があるのだが」
 アマーリエの訴えを軽やかに聞いていないふりをして、キヨツグの手が首筋に滑る。開いた襟元からいまにも内側に滑り込んできそうな位置に、全身が熱を吹き上げたのを感じた。
「……それは当日わかることでもある」
「キヨツグ、」
「……まだ、仕事の話がしたいのか? 私は早々に『次』に行きたいのだが」
 寝室で仕事の話をしていて、それが終わった『次』のこと。
 直感的にそれが何なのか悟り、直前までの会話をすべて頭の中から吹っ飛ばしたアマーリエが、真っ赤になった顔を覆って言えたのは一つだけだった。
「…………お手柔らかに願います……」
 それにキヨツグは「……お前次第だな」と答えて、明かりを吹き消した。

 出発直前、コウセツや王宮に残る者たちの見送りを受けていたアマーリエは「お待ちを」と強い調子でアイに呼び止められた。何事かと思っていたらその後で息せき切って女官たちが駆けてくる。
「あ、ま、間に合ったぁ……!」
「落ち着いて? ゆっくり息を整えて……いったいどうしたの? 私に何か……?」
 いまにも倒れ込みそうな彼女たちは、乱れた息のままアマーリエにぐいっと小さな箱を押し付けて早口に言った。
「ご依頼のものです……!」
「直前に申し訳ありません、一刻も早くお渡しすべきだと思って!」
 まあ、とアマーリエは目を見張り、柔らかく表情を緩めた。
「気遣ってくれてありがとう。嬉しいわ」
「あの、一応品物をを確認していただいて……」
「何かございましたらいつでもご報告ください! 実家でも何でも使ってみせますので!」
 女官の威信、というよりは実家の家業が誇らしくてならない風情の二人に、アマーリエはくすくす笑って、もう一度ありがとうとお礼を言った。
 一応誰にも見られていないことを確認しながら、受け取った箱の中身を確認する。
(……うん、とても綺麗。これなら……)
「先方が、お戻りになった際には是非ご挨拶に伺いたいと申しておりました。予定に組み込んでもよろしゅうございますか?」
「もちろん。お礼を申し上げたいと伝えておいて。ありがとう、アイ」
 女官たちを走らせ、出発直前のアマーリエを呼び止めるという見事な技を披露したアイは何らそれを誇ることなく微笑んでいる。
「真様。さほど危険のない旅程かと存じますが、この度はお付きに慣れぬ者が多うございます。お気付きのことがございましたらご報告いただけますと幸いです」
「わかりました。……人を育てるって大変ね、ユメ」
 真夫人付き護衛官の筆頭だったユメは、仕事を任せられる部下の教育を本格的に始めている。今回彼女は同行せず、後継になる部下たちに一任したのだ。そうしなければ責務を全うできないと、恐らくは長くなるであろうキヨツグとアマーリエの在位を懸念してのことで、彼女の忠誠心には感謝しかない。
「大変は大変ですが、楽しくもありますこと、真様はご存じでございましょう?」
「うん。毎日実感してる」
 ユメが育てているのは立派な大人たちに加えて、やっと四歳になる自分の娘だ。彼女ほどではないけれどアマーリエも、コウセツが育っていくことと思いがけない事件や笑いに遭遇する喜びを日々感じている。
「コウセツ様のご様子は、ハナ・リュウ医官も交えて見ております。手が足りぬときは男出としてシキ殿も手を貸してくれるようお約束を取り付けましたので、ご安心くださいませ」
「政務はカリヤが滞りないところまで進めるでしょう。口と態度の悪い男ですが、仕事はきっちり果たす者でございますゆえ」
 そのカリヤとの引き継ぎが長引いているから、キヨツグはなかなか出てこないのだ。待つのに飽きたコウセツが呼ぶので、アマーリエはそちらに行って、乳母から彼を抱き取った。
「はい、母上ですよ。やっぱりコウセツも一緒に行く?」
「んーん! コウくん、いいこなの!」
 その意志の強さがどこからくるのか、ちょっと寂しい気がして頬をふにふにと突くと「やーあ!」と身を捩って拒否されてしまった。拒絶されても可愛いと思ってしまう辺り、どんどん愛が深まってきていて我ながら怖い。
(……というか……もしかしてキヨツグ様もこんな感じだったり……?)
 純粋なようでいてちょっと壊れた感じの愛情深さの理由を掴みかけた気がしたとき、「天様!」の声がしてその人が姿を現したのを知る。
 無事引き継ぎを終えただろうに付き従う側近たちに間断なく話しかけられ、遅れてやってきた者の言葉に応じている。たった数日の不在のため大事になるのも仕方がない、そんな風に思わせられる頼られ方だ。
(これは優秀な人を増やしたいという気になるのも頷ける……)
 こっそりため息を飲んだアマーリエだったが、そのときだった。
「――――とっと!!」
 憂いも何もかも吹き飛ばすような、コウセツの呼び声が響き渡った。
 アマーリエがぎょっとし、周囲がびっくりしているというのに、どこか誇らしげにむふんと息を荒くして「ん!」と怒りめいたものを主張している。
「ん! ん、んっ!!」
「……どうした?」
 そこへ降り立つように優しい声がした。
「……私を呼んだか、コウセツ」
「ん!」
 むくれた顔で両手を伸ばし、抱っこを所望する。キヨツグはふ、とかすかに息を零してアマーリエからコウセツを受け取り、高く抱き上げた。いつの間にかキヨツグを取り囲んでいた者たちは自重して、その場に留まってキヨツグとコウセツを見守っている。
「……私が困っていたから呼んでくれたのか?」
「う? ん、ん……?」
 そうではないか、と独りごちるキヨツグは何だか楽しそうだ。それが伝わったのか機嫌を損ねていたコウセツはぱっと笑顔になった。
「とっと、いってあっしゃ! コウくん、いいこよお」
「……ああ。いい子で待っていなさい。土産を買って帰ってくるから」
 言いたかったことを言えて、コウセツは満足したようだ。今度はアマーリエに小さな手のひらを振った。
「たーた。きらきら、きれーよぉ。ぴったり!」
「っ!」
 アマーリエはどきりと胸元を押さえた。先ほど受け取った小箱がそこに隠してあるが、同時にいつか似たようなことをコウセツが言っていた気がすることに気付いたのだ。
 あのときキヨツグは王宮を離れて東に発つことになっていた。その見送りのとき、彼の舌足らずの「きらきら」という言葉を聞いた気がする。
『きらきら、してー?』
(……コウセツ、まさかこうなるってわかって……?)
 途端、笑いがこみ上げた。ふふ、うふふ、と笑いながらこんなアマーリエの片手でも簡単に撫でられてしまう小さな頭を存分にこれでもかと可愛がり、きゃあっと嬌声を上げる額にキスをする。
「――大好きよ。あなたが生まれてきてくれたから、私は、愛するとはどういうことなのか学ぶことができるの……」
 囁くアマーリエの額に、キヨツグが唇を寄せた。
 そしてそのまま同じようにコウセツにも口付ける。コウセツの喜びの声とアマーリエの涙混じりの微笑みが重なった。
「……行くか」
「はい」
 馬車の乗る直前、乳母たちにコウセツを託す。人々が乗り込むアマーリエたちを見守り、やがて声が放たれた。
「天様、真様、御出立!」
「いってあっしゃー!」
 周りを顧みないコウセツの声が誰よりも大きく響くのに笑いながら、アマーリエは窓から身を乗り出した。それをはしたないと思えど咎める人はいない。アマーリエがそういう人なのだと微笑ましく見てくれている。
「――いってきます!」
 そう言えることが、誇らしい。戻ってきたいと思える場所が見つかったということだから。
 席に座り直し、まだ少しどきどきと打つ鼓動を心地よく感じていると、大きな手に抱き寄せられた。そっと身体を預けて目を閉じる。こうして寄り添うことでアマーリエを満たす喜びをもしかしたらキヨツグも感じ取ってくれているのかもしれない。
 そっと、襟の内側に隠した箱に触れる。
(いつ渡そうかな。喜んで、くれるかな……)
 ――キヨツグに何か贈り物をしたい、と思ったある冬の日。その前に首飾りを贈られていたのと、コウセツの「きらきら」が頭にあり、贈るなら装飾品がいいと考えた。公式行事以外は滅多に装飾品を着けない人ではあるのだけれど、自分が選んだものを持っていてくれるだけで嬉しいと思ったからだ。
 装飾品といっても色々あるが、彼の邪魔にならないものがいい。動きの邪魔にならない、あるいはその美しさを損なわないもの。
 耳飾り、がいい。少し悩みはしたがそう思ったのは、装着する責任があったとしてもそれがひどく彼に似合っていたからだ。
 王宮出入りの商人に頼むと遠からずキヨツグの耳に入ってしまうと考え、頼れるアイとユメに相談してみた。武器を扱うユメは、家業が彫金師と宝石職人だという二人の女官の存在を教えてくれ、アイを介して呼び出してもらった彼女たちを通じて、実家に制作を依頼することになったのだった。
 街に降りて診療所の手伝いをする仕事は頻度こそ下がったものの続いていたので、そのときに場所を借りて打ち合わせを重ねた。こういうものを頼みたい、と拙い絵を描いて見せたとき、穏やかそうな老いた男女の職人は「ほう」と珍しいものを見たと声を漏らしたのを覚えている。
 どうやらそれは古い職人でも知らない者の方が多いくらい、埋もれた意匠なのだという。絵巻物にちらりと描かれていたり、文書に記述があったりなどして、こういうものなのではないかと再現したという記録すらもずいぶん昔のもののようだ。それを偶然とはいえ異種族のアマーリエが似たようなものを出してきたから驚いたらしい。
『ああ、でも――最近、天様がよく似たものをお召しでしたね』
 その絵とは、記述とは、もしかしたら。
 けれど真実は追い求めない。怖いものなど一つもないから、贈り物とそれに込めた思いを大事に抱えている。
「……到着まで、いましばらくかかる。少し眠るといい」
「はい。キヨツグ様も」
 そうして目を閉じると、安らぎだけが満ちる時間が過ぎていく。話したいこともたくさんあるけれど、言葉を交わさなくてもそれでいいと思える人がいることが、ただただ幸せだった。
「今日……いただいた護符を持ってきているんです。今日だけじゃなくて、持てるときはいつも身に着けるようにしていて……」
「……そのことを、話して聞かせるといい。きっと喜ぶ」
 キヨツグの声はどこか夢を見ているようだ。ゆったりと優しく、彼が見ているものは喜びに溢れたものなのだと感じさせる。距離を置いていた実の両親との再会を前にしても穏やかでいられる、そのことが嬉しくてアマーリエは密かに笑った。堪えておかないと涙が出てしまいそうだったからだ。
 そうしてアマーリエも少しだけ夢を見る。
 来たね、と迎えてくれる黒髪の彼女と、その隣に佇んで眼差しだけで歓迎を伝える銀の髪の彼。
 キヨツグの耳に下がる新しい耳飾りに、彼女は気付くだろう。返却された自分のそれと比べてこう言うかもしれない。少女のように開けっぴろげな笑顔で――お揃いみたいだね、と。
(……ううん、夢なんて見なくてもいい)
 たどり着いたその先に、夢に見た、いや夢なんてでは見ることのできない素晴らしい光景がきっと待っているから。

 そして、それは、現実になる。

 蒼穹の下を歩むアマーリエとキヨツグを迎えて、傍らの彼と手を繋ぎ、彼女はいつか口にした古い言葉でこう呼んだ。
「待っていたよ『グラィエーシア』――愛する、花なる者たち!」

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