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ただそれだけの邂逅であったはずなのに、それはセツエイが倒れたという知らせで色形を変えてしまった。
リリス族としては元より蒲柳の質であったセツエイだったが、このときは典医や医官、各地の医師や薬師、果ては呪い師まで集められた。それまでに病状が重かったのだ。
やがてその理由がわかった。――公子に代わって毒を受けたという。
しばらくして重篤な状態からは脱したものの、セツエイは寝込むことが多くなった。彼の世話は信頼の置ける一部の上級官のみに許され、アイなどは近付くことすらできなかった。
「アイ・マァ。マァ女官」
「はい、ここに」
族長の近くに侍ることのできる身分ではないため、一時的に文部の手伝いに格下げされていたアイは、その日、同輩たちと仕事をしていたところで、上司である上級女官に呼び出された。
「天様がお呼びです。いますぐ身支度を整えてきなさい」
一瞬の静寂の後、同輩たちの反応は歓喜と絶叫に二分された。
「なんであの子が!?」
「天様のお召しなんてすごい!」
「いつの間にお近付きになっていたの?」
それらの声にアイは答えなかった。動けなかった。何故か、とんでもない失敗を仕出かしたときのように、どんどん血の気が引いていく。
そんなアイの肩を掴んだのは、セリだった。
「アイ。顔色が悪いわ。化粧をした方がいい」
そう告げられて、アイは自室に戻り、鏡と化粧道具を手に取った。青白さを隠すために頬紅を塗っていると、やってきたセリがそれを引ったくり、代わりに、濡れた手巾を投げつけてきた。
「馬鹿みたいに塗らない。道化になりたいの? ほら、顔を拭いて。私がやってあげます」
冷たく絞られた布の中に、アイは涙とため息を覆い隠した。そうしてようやく冷静になれた。
(落ち着きなさい。私の気持ちがばれたわけがない。それを追求するために呼ばれたわけでもないわ、きっと)
だから必要なのは、あくまで一女官としてセツエイに会いたいすること。
セリのおかげで化粧も整い、アイの表情は落ち着いた。彼女は何も尋ねなかった。上司に連れられていくアイを、羨望や嫉妬の眼差しで見送る女官たちの中、ただ一人呆れたような顔をしていたけれど。
他の上級女官たちが詰める中、セツエイの貴色の名を持つ深縹殿(こきはなだでん)の奥に踏み入り、その一室に設えられた寝所にたどり着く。上司が声掛けをし、取り次いで取り次いで、「お入りなさい」と許しが出た。
頼るもののない孤独な気持ちで部屋に入る。ほのかに漂っていた薬の匂いが、ぐっと濃くなった。
寝台に半身を起こしていたセツエイは、決して病み衰えているようには見えなかった。近くにいた女官に目配せして、人払いをする。途端に苦しいほどの静寂が漂い、この人はこんなに寂しいところにいるのかと思ったが、彼はあのときと同じ低い声で、この状況を困った様子で笑ったのだった。
「呼びつけてすまなかったね、アイ」
名前を呼ばれた途端、胸の奥がくすぐられたような気がした。
だがなんでもないふりをして、離れたところに膝をつく。
「お呼びと伺い参上いたしました。何なりとお申し付けください」
「うん。近くに」
セツエイは手招き、アイがにじり寄ると「もっと」と言った。さらに近付くと、くすりと笑って「ここへ」と寝台の傍らを指す。
いいのだろうかと思ったが、命令なら仕方がない。
あのときよりもずっと近く、瞳の色や笑い皺まで見えるところまで近付き、示されるままにそこにあった腰掛けに座った。
「君のことが気になったものでね。このままだと心残りになりそうだから」
さらりと口にされた心残りという言葉に、アイの心臓は嫌な鼓動を立てる。
「あのときの君を見つけた私の責任を果たそうと思う。こんなことを言っては怒られるとわかっているのだが、聞いてほしい」
何を言われても、心を動かさないと決めている。身構えつつも「はい」と答えて促すと、セツエイはほろりと笑った。
「アイ。君が胸に秘めている願い事を、言いなさい」
息を詰めた。
気付かれた? 知っている? 偶然なのか。あのとき、セツエイはアイの何を見て、この言葉に至ったのか。
「叶わない願いがあるのなら、私が、宙に届けるから」
そうして続く言葉に、じわりと感情が滲んだ。どうしてそんなことを言うのだろう。何故、そのように、あなたを思う娘の前で、自分は近く死んでしまうなどと言ってしまえるのか。溢れる感情は、悲しみと怒りの色に染まっていく。
だがアイの立場では、何も表に出すことはできない。
寛恕を願うように、深く頭を下げた。
「いいえ。……いいえ。何も、ございません。天様のお気をわずらわせるようなことは、何も」
私が口にできるのは一つ。
「ですからどうか、そのようなことを仰らないでくださいませ」
あなたに生きていてほしいと、婉曲に、ただの臣下の言葉で請うだけ。
セツエイが見せた寂しげな眼差しに感じた後悔は、甘んじて受け入れる。本当なら襟を掴んでがくがくと揺さぶりながら「そんなことを言うくらいならもう少し生きる努力をなさい!」と怒鳴ってやりたいところだったが、アイとセツエイでは身分も何もかも違う。手を伸ばせば触れられるところにいても、それは天と地ほどに遠い距離だ。
だからアイはまっすぐに彼を見つめる。その佇まいを、自分にだけ向けられる視線、表情、言葉を、胸に焼き付ける。
もしも、出会いがもう少し早いものであったなら、こんな焦げ付くような思いをしないで済んだのだろうか。
「もう少し早く出会えていたらよかったね」
セツエイが零し、目元を震わせるアイに微笑む。
「そうすれば、君はきっと願いを告げることができただろうに」
アイは、答えなかった。
ただ、気配を、同じ空気を感じていたかった。ずっとそうしていたかった。けれど体力の保たないセツエイは沈み込むようにして眠りにつくまでだった。寝具を被せるよう側付きの女官に頼むため、アイは席を立った。
胸の中には、セツエイが告げた願い事がひとつ。
それが最後だった。
それから少しして、セツエイは穏やかに人生を終えた。
葬儀は避けられることなく執り行われ、アイの身分では遠くからの参列しか許されず、死に顔を見ることは叶わなかった。それが当然のことであったから、心密かに、別れの言葉と安らかな眠りを祈るだけだった。
次期族長を決めるにあたって、しばらくリリスは揺れた。正統な血を持つとはいえキヨツグが族長になるのを問題視するカリヤ・インらの派閥や、セツエイの子であるリオンを擁立しようとする一派などがあったが、最終的にキヨツグが族長に就任した。
キヨツグの改革は王宮のあり方を変え、多数の部署と人員が整理された。真夫人となることに重きを置いていた女官はおおよそ辞することになったが、アイは仕事を選んだ居残り組にいた。家に帰るよりも仕事をしている方が毎日が充実していたからだ。
アイは族長付きに戻り、セリたち同輩らとともに順調に役職を上げていく。
口にもできず、叶えられなかった願い事は、いつしかセツエイが託したそれと一つになった。
「どうか君と同じ、願いをそれと口にできない者が現れたら、その願いを聞いてやれる者になってほしい」
思い出の中でセツエイは微笑む。アイの心に芽生えた花が、切なく散るのに似た笑顔だった。
キヨツグを見ると、いまでもつくづくと、似ていないわ、と思う。族長は族長でも、アイが心を捧げた人は彼ではないとはっきりわかる。
月日が経ち、主人は変わったが、キヨツグ自身もまた、彼のことを知ったときとはずいぶん変わった。なにせ、異種族の妻を迎え、人並みに恋をし、それを拗らせて、アイに対してひどく身勝手な振る舞いをした。そのとき謹慎を命じられたアイだが、アマーリエを取り戻す直前にキヨツグから直々の謝罪を受けている。
もちろん許さないなんて選択肢は存在しないので、受け入れるしかないのだが、少しばかりやり返したいと思うのは普通のことだと思う。
「次はないとご承知おきくださいませ」
頷くほか何もできないキヨツグは、爽快だった。
近くにいた売り子から花と線香を買い求め、廟に入る。埃っぽく煤けたそこに、いつもするように跪いた。
セツエイの願い事を叶えられたかどうかはさだかではない。けれどアイの胸にはいつもそれがある。アマーリエを救ったのはキヨツグだが、少なからず自分の存在も彼女の救いになっているはずだと思っているし、この先、似たような誰かが現れても、きっと同じようにするだろう。
(天様、わたくし、いま新しい願い事があるんですのよ)
あの日のことを思い出したのは、これを告げるためだろう。
あなたの血の繋がらない孫息子――コウセツ様が無事にご成長なされ、伴侶を迎えること。
それが新しい、アイ自身の願いであるといったら、彼は笑ってくれるに違いない。春の日差しの、温もりそのものの顔で。
初出:091110
改訂版:200928
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