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そうしているうちに、夕食の時間が来る。仕事を交代し、配膳係の者が膳を運んでくるのを見守りながら、同僚たちとこの後の入浴や就寝支度の手配をしていると、慌てた様子で部屋にいた者が耳打ちした。
「天様がお越しですって。夕餉をご一緒されるみたい。いま御膳を運んでくるところよ」
「今日もなの? だったら茶器を変えないと。脇息は出ている? 円座は?」
「真様のお召し物を見てくるわ。さっきまで御子様とご一緒だったら乱れているかもしれない」
にわかに忙しくなり、ココはアマーリエの服装を確かめるため、表に戻る。真夫人の前に出るよりも早く、こちらを見つけた筆頭女官のアイが、ココを手招きし、近くにいた衣装係に告げた。
「お召し替えの必要はないわ。その代わり、夜着と寝殿を整えてちょうだい」
ココと衣装係の女官は、ぴっと背筋を正した。
筆頭女官の指示が意味するのは、真夫人のもとに天様のお渡りがある、ということだ。
族長夫妻は、常に寝室をともにしている。にも関わらず、多忙なキヨツグが一日を終えるのはほぼ毎夜遅く、アマーリエがとっくに寝殿に入って、お付き女官も業務を終えており、ココたちがそれらしい支度などをしたことは数えるほどしかなかった。この夫妻でなければ、たとえば先代や先々代辺りなら、夜の支度は女官の日常業務のはずなのだが、結婚して早々に「なるべく意識させることはしないように」と族長直々に指示があって以来、閨のための支度は省略化することが慣例になっていた。
(アイ様が仰るのだから、きっと侍従長辺りから連絡があったのね)
アマーリエが戻って以来、キヨツグはなるべく、夜の時間をともにしようとしているようだった。初めは彼女の精神状態が不安定だったので、落ち着かせる意味合いもあったのだろう。その頃から、一緒にいる時間を長くするため、事前に族長付きの者を通じて、真夫人付きの者に連絡が入るようになっていた。
この異例の指示があった場合、女官の仕事は、夜着を新しいものに変え、かつ美しく品の良い柄や飾りのものを選ぶこと、寝殿すなわち寝間には火を入れ、香を焚き、誰も不用意に近付くことのないよう手配することだ。アマーリエの身の回りの世話をする者は、いつもと変わらない態度を装いつつ、髪を念入りに梳かし、爪を切り磨き、ときには香水をまとわせ、にこやかに送り出すという超高難易度の仕事をこなさなければならない。
忙しくはなるが、自分たちの主人が変わらない寵愛を受けていることは、女官にとって誉れでもある。
ココたちが裏で走り回っている間に夕食が終わり、女官たちも代わる代わる食事をしていると、あっという間に夜が深くなっていく。手早く食事をし、命じられた寝殿の支度をして、ココは最終確認を行った。
(寝殿の灯りはできるだけ少なくして雰囲気が出るように。香は可愛らしさと清純を感じさせるよう白檀と桜桃を。真様が飲めるようお茶の他にも弱いお酒も準備したし。室内の備えも確認済み、と。まったくもう、私ったらなんて有能なのかしら!)
ふふん、と満足感に浸り、宮に戻る。
アマーリエは護衛官のユメとともに明日の予定の打ち合わせをしていた。話をしている最中、担当の者が彼女の髪に櫛を通し、丁寧に艶を出している。羽織ものの下の白い夜着には、同じく純白の糸で可憐な花模様が刺繍され、足には大胆な切れ込みが入っていた。ゆったりと腰に巻いた帯は銀糸を織り込んだ紗で、星の川のように長く流れている。
恐らく、着替えが終わるかどうかのときに、打ち合わせが始まったと思われる。いつもより夜着が華やかで、裾の切れ込みが深いことも、念入りに髪をとかされていることにも、まだ気付いていないようだ。
「では、明日はいつも通り、朝からお菓子を焼いてもらえるのね。よかった、養護院の子どもたちが喜んでくれるわ。王宮のお菓子は美味しいって、取り合いになるくらいだから。料理人たちに、ありがとうと伝えてください」
「かしこまりました。伝えておきます」
明日は街にある施設を訪問する予定なのだそうだ。その際、アマーリエは、恵まれない子どもたちが暮らす養護院には差し入れの甘味を、入院施設がある病院には下着や毛布を持っていく。女官がお伴することは滅多にないのだが、真夫人が現れると、みんなひどくありがたがるらしい。アマーリエはそこにいる全員と一言交わすことを使命として公務に臨むので、毎度時間が押して押してたまらない、と高官たちは苦い顔だそうだけれど。
しかも最初、お菓子の準備は直接厨房の人間に掛け合い、材料や個数の算段までつけて、族長に奏上したとか。さらには、フラウ病によって設置された入院施設は、重篤患者が多く感染の危険性が皆無とは言い切れないので、訪問先から除外していたのを、彼女自身が見咎めて、責任者に理由を問いただしたらしい。そうして、妥当性を欠いていると思うので天様にお尋ねする、と告げて、本当に行動した。天様に意見を求めるところが、非常に周到だ。姑息だとも、寵愛を受けている者の傲慢と独善だとも言われ、悪口が絶えない。
それでも、アマーリエはどこ吹く風だった。
けれど、近くにいるからこそ、感じる。
以前のアマーリエと、戻ってきた後の彼女は、まるで別人のように変わった。
少女めいた優しさと穏やかさはそのままに、芯が太く、凛とした表情をするようになった。不安で視線を彷徨わせることも、それらから身を守るように心をどこかに飛ばすこともない。周囲の気配を感じ、動きを察知し、それとなく会話に耳をそばだて、変化を見逃さない。なのに緊張感は漲らせない。瞳はいつも、見守るように温かい光を宿し、過ちをも一度受け止めて悲しむことができる。
その変化を、なんと呼べばいいのかわからない。同僚たちとは、お仕えがいがあるとか、ご立派になられたなどと言い合うけれど。
(変わらざるを得なかったと、わかってしまうから)
戸惑ったように、けれど正義感と誠実さを込めて、下級文官におどおどと朝の挨拶をしたあの少女は、もういないのだ。
いや、いなくなったわけではないのだろう。けれどアマーリエは、真夫人として、母親として、一人の大人の女性として、そのような子どもじみた態度を表に出すことは許されないと自覚していると、わかる。
打ち合わせを終えた官にも、終業が遅くならないようにといたわりの言葉をかけ、就寝の挨拶を告げたアマーリエが一息つくと、さっとアイが淹れたばかりのお茶を差し出した。湯気の立つ器を受け取って、アマーリエはほっと微笑む。
「ありがとう。これを飲んだら寝るわね」
アマーリエに気付かれない素早さで、髪梳きの者は手を止めて道具を片付け、爪を磨いていた者も気配を消すように下がっていた。
心を切り替えるようにしてお茶を味わったアマーリエは、空になった器を託し、立ち上がる。さらさらと白い羽織ものを流す姿は、どこから見ても可憐で、愛されるに値する女性だった。
いつも通りなら、ここでアマーリエはその場にいる全員にありがとうとおやすみなさいを告げて、灯り持ちに先導されて寝殿に行く。
だがこのとき不思議な感慨を覚えたのは、どうやらココだけではなかったらしいのだ。
「今宵の真様はなんてお綺麗なんでしょう……きっと天様がお離しになりませんわ……!」
「え」
感極まり上ずった新米女官の声に、その場が硬直した。
そして、さやかに輝くようだったアマーリエの清らかな頬は、みるみるうちに下から上へと真っ赤に染まっていく。
「な……な、ななな、な……っ!」
まあ、すごい。人ってこんなに赤くなるものなのね。
それまでの淑やかさを突然剥ぎ取られたかのように、アマーリエは赤く染まった顔で、ぱくぱくと口を開閉する。大きく見開かれた瞳は羞恥に潤み、震える両手はみるみる泣きそうに歪んでいく顔を覆い隠した。
そこには、みんなが立派だと称える真夫人はいなかった。ココたちが以前からよく知る、恥ずかしがりで、愛情表現に慣れておらず、余裕なんてどこにもない、迷子のようなヒト族の少女が、無邪気な言葉に照れて身悶えしていた。
「お、お、おおやすみなさいぃ……!」
逃げるように小走りでアマーリエが去ると、その場にいた女官たちは各々顔を見合わせ、数秒の間を置いて、どっと笑った。笑い声はしばし止まず、騒ぎを鎮めるはずのアイやセリですら、仕方がないとばかりに笑いを噛み殺す。
どんなに堂々とした真夫人となっても、本質は何ら変わりないアマーリエに、誰もが安堵し、笑顔になっている。
それは、その場にいる全員にとって、なんだか泣きたくなるくらい嬉しいことだった。
ぱん、とアイが手を打つ。
「さあ、みんな、後始末をしましょう。夜の番の者は支度をして、朝からの者は早々にお下がりなさい。……まあ、恐らく明日はいつもより遅いでしょうから、多少の遅刻は問題ないでしょうけれど、気を抜かずに」
はい、と同僚たちと声を揃え、ココは仕事を片付けると、その場にいた者やすれ違う者に終業の挨拶をして、自室に下がる。
空には、明るい初冬の月が輝いていた。まるで、アマーリエの微笑みに宿る光のようでもある。そして先ほどの、月の光が慌てたように瞬く様を思い返し、くすりと笑みを零したココは、平和な一日をつつがなく過ごした充実感で胸を満たし、その日を終えた。
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