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可愛らしい鳥の鳴き声が聞こえてくる。あれはこちらに来てから日常的に耳にするようになった草原に生息する野鳥だろう。枯れ草のような羽色に木の実のような黒い瞳という地味な姿ながら、鈴のような声で歌うように鳴くのだと、散歩のときに教えてもらった。都市にいた頃は雀か鳩くらいしか見分けがつかなかったが、亜種を含めた多数の動植物が生息する草原の国で、すべてとは言わずとも一般的なものは、名前は思い出せずとも見分けるくらいはできるようになった。ああそれにしてもなんていい声……と、何度目かに真っ赤になった顔と鼓動を落ち着かせながら、アマーリエは決然と名前を呼んだ。
「……キヨツグ様」
「…………」
抗議の声が聞こえているはずなのに夫になった人は返事をしない。いつも執務室でしているように黙々と書類を繰っている。
仕事の邪魔は、したくない。したくないけれど、求められたらどうすればいいのだろう。
アマーリエは困った顔で言葉を飲むと、書類を走る筆の動きを見守る。さらさらと涼やかな音を立てて、小さな筆がまるで生きているかのように文字を描き出す。この古い筆記具を生まれたときから日常的に使う文化圏にいる彼の文字は、アマーリエの書くそれと天と地ほどの差がある。もちろん達者という意味で、額に入れれば芸術作品になってしまいそうだ。
ふと、彼が手を伸ばした。机の端に積んでいた書類に用があるらしい。
身を乗り出せずにいるのは障害物のせいなのだが、アマーリエは彼の意図を理解しつつも助けることはしなかった。取りにくければ障害物を下ろせばいいのだと、黙って「そこ」に座っている。
「…………」
「…………」
無言の攻防が続く。
キヨツグは障害物を抱えたまま。アマーリエは動かないと決めて黙ったまま。
だがぐぐっと寄せられる身体を意識して、アマーリエは体温はみるみる上がり、鼓動が一気に跳ねた。呼気の気配を感じて、耳や首筋に甘い震えが走る。このままでは速さを増す心音も全身を満たす熱も、何を考えているかすら伝わってしまうのではないか。
(……もう…………もう無理、かも……!)
ついに気恥ずかしさの針が振り切れる、その瞬間。
「……何をしておられるのかと思えば」
「っ!」
アマーリエの様子を見に来た護衛官が、部屋を覗いて目を見張っていた。穏やかな人なので笑みを浮かべてはいるが、この人に呆れられるのはアマーリエにとって爪の先ほどの威厳すらも失われることを意味する。
慌てて威厳を回復させようと思ったのに。
「っあ!?」
「…………」
アマーリエは、夫の膝に乗せられ、抱えられて、逃れようとしたがしっかり腰を抱かれてしまったのだった。
そうこうするうちに護衛官の彼女は呆れたような微笑ましそうな顔をして、静かにその場を離れていってしまった。気遣いのかたまりのような人だから、夫婦の時間の邪魔はしないでおこうと考えたに違いない。
林檎のように真っ赤な顔でキヨツグを睨むアマーリエだが、彼は涼しい視線を返すばかりだ。
言いたいことはわかる。早く仕事が終われば解放されるというのだろう。
だからアマーリエは赤い顔で急いで書類を手に取り、キヨツグに押し付けた。それを受け取った彼は「……ありがとう」とだけ言うと、膝にアマーリエを乗せる重さも密着した状況にも何とも思っていないような様子で黙々と仕事を進めていく。
合間合間に執務室を訪れる者はみんな面妖な顔をしていたが、キヨツグが堂々としているので誰一人としてアマーリエの存在を指摘しない。むしろ逆に気恥ずかしそうにしてそそくさと立ち去っていくのだった。
悪びれもしない、表情の薄い彼をこれほど羨ましくも恨めしく思ったことはない。
そんな状態は、執務が終了する定刻まで続いた。
その後アマーリエは、こんなことでは困ります、周りの人たちがどう思ったか、と怒り半分でお説教めいたことを訴えたが、キヨツグはそんな感情を昂らせる妻をかすかに笑んで見守っていて、どうも効果はないようだった。
夫婦となって間もない、麗かなる午後の一幕である。
初出:20090321
改訂版:20221007
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