―― 明 日 の 星 と 空
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 高層ビルの空中庭園に吹く夜風は、どれだけ着込んでいても指先や爪先が凍えてしまうくらいに冷たい。しかしいつもと違う夜に浮き立って弾む胸の熱がアマーリエの、そしてクラスメートたちの丸い頬をほのかに赤く色付かせている。
 夜空には都市の光に打ち勝ったいくつかの星が輝き、月は丸く、金色の光の輪を投げかけていた。天体観測という校外学習にはうってつけの、晴れた夜だ。大人がいるわけでも、一人きりでもない夜を過ごせるのは、とても嬉しい。
「いいですかぁ、教科書五十二ページを見ながら、本物の夜空と比べてみてねぇ。みんな持ち場を離れないように、ペアの子と一緒に行動してくださぁい」
 はぁい、と行儀のいい返事とともにクラスメートたちが一斉に動き出す。
「アマーリエ」
「うん」
 アマーリエとペアとなった少年に頷き、自分たちの望遠鏡のところに腰を下ろす。アマーリエは見やすいよう教科書を丁寧に開き、少年は望遠鏡の調整をしている。
「見えるはずないのに」
「え?」
 調整を終えた彼が白い息を吐きながら空を仰ぎ、アマーリエを見た。途端にずり落ちた大きな眼鏡を押し上げながら淡々と言う。
「教科書に載っているような星は、いまは未開発の土地でしか見られないんだよ。この街は明るすぎるんだ」
 アマーリエは教科書の図解と実際の空を見比べて、なるほど、と思った。街の光があるせいで見える星は少ない、という知識を現実のものとして理解したのだ。だからこの天体観測実習は学校の校庭ではなく高層ビルの空中庭園で行われている。
「だから、楽しくなさそうなの?」
 純粋な疑問を口にすると、彼はびっくりしたように目を大きく見開いた。
 星や生き物のことに詳しい彼のことだから何か気に入らないことがあるのだろうと思ったのだけれど、言ってはいけないことだったのかもしれない。アマーリエが「ごめんね」と慌てると「ううん」と首を振られる。
「楽しくないわけじゃないんだけど、なんだか騙されている気がするんだ。何て言うのか、嘘をつかれている、みたいな」
 優等生の彼は時々、他のクラスメートたちとは違った不思議な言い回しをする。何言ってるのかわかんねえ、と仲の良い生徒に言われて、寂しげに視線を落としていたのを何度か見たことがあった。
 特に優秀ではないアマーリエだけれど、それでもいまの彼の言葉にはなんとなく共感を覚えて、自分なりの考えを伝えようと努力して言葉を探す。
「うん……なんだか、私たちだけ損をしているような感じ、なのかな。同じ世界なのに、私たちだけ見えるものが少なくされている、っていうか……」
「世界って言い回しはいいね」
 淡い、けれど嬉しそうな微笑みを返される。
「うん、『世界』って人それぞれなんだ。世界のすべてを知っているなんて人は絶対に存在しないけれど、僕たちはきっと損をしているんだ。この街に生まれたっていうだけで」
 それがなんだかここではないどこかを思っているようで。
「……どこか、遠くへ行きたいの?」
 楽しげにするクラスメートに万が一にでも知られないよう、囁き声で尋ねると、彼もそれに合わせるように「知ってる?」と声を潜めた。
「昔々のヒト族は、この空の向こうへ行くことができたんだよ。あの月に辿り着いた人もいたんだって。僕たちは当たり前のようにこの都市に生きているけれど、あの空の果てに人が住んでいる可能性があるし、もしかしたら僕たちの先祖こそ空からやってきた何かだったのかもしれない。そう考えると、知りたい、色んなものを見たいって思うんだ。行けるのならあの星の向こうまで」
 かつての文明の遺産を蘇らせながら細々と繋いで生きるいま、ヒト族が空を行く技術は失われて久しい。
 けれどいつも冷静な優等生が熱っぽく語っている。その熱に感化されたように、アマーリエの胸もどきどきして、彼の言う世界を、空と星の果てを思った。
 途方もない夢、でもそれを実現できたならどんなに。
「ねえ、アマーリエの夢は何?」
「私?」
 照れくさそうに尋ねられて、アマーリエは驚き、眉を寄せて考え込んだ。
「ええと……なんだろう……?」
 彼ほどの強い思い、いつか、と思い描くものを抱いたことのない自分に気付かされる。たかだが十何年生きただけだが、なりたいものがないというのは、ずいぶん寂しいことのような気がしてしまう。
「お父さんみたいに政治家? それともお母さんみたいなお医者さん?」
「政治家は、そんなに賢くないから無理だよ。お医者さんは……」
 助け舟を出してくれた彼に笑って首を振り、母の姿を思い浮かべた。
 仕事が忙しくて、一緒に過ごせる時間はほとんどないけれど、患者さんの安心した顔や、看護師さんたちに指示したり頼られたりしている姿、難しい顔で端末を睨んで、医学書を読んだりしているところは、とてもかっこいい。
 いつも凛とした表情で、寂しいとも悲しいとも言わない。
「お母さんみたいになれたら、素敵だな」
 優しくて、スマートで、綺麗だと思う。『自立した人』という言葉を、少女のアマーリエはまだ知らない。
「うん、アマーリエはお医者さんになるといいよ」
 彼は眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「僕、二番通りの病院に行くんだけど、そこのお医者さんは子どもが嫌いなんだ。僕も好きじゃない。アマーリエはそういうのじゃない、優しいお医者さんになってよ」
「優しいお医者さん……なれるかな?」
「なれるよ。アマーリエはさっき自分は賢くないって言ったけど、そんなことないよ。いつもテストで百点か九十点だし、他の子みたいに意地悪したり悪口言ったりしないし」
「そんなこと、ないよ」
 曖昧に笑って首を振る。学校の成績がよくても自分に足りないものがたくさんある、それが何かと明確に言うことはできない、そこまでは幼くてもわかっていた。そして大人になったとしても、きっと何かが足りないままだという予感があったから。
「でも、ありがとう。頑張ってみるね」
「うん。でも、人生は何が起こるかわからないから、夢で自分を縛っちゃだめだよ」
「何それ?」
 まるで大人みたいな物言いにアマーリエが笑うと、彼も肩を竦めてくすりとしていた。そこへ「ちゃんとやってくださぁい!」と教師の注意が飛び、二人はまずいと身を小さくして、二人して教科書を覗き込んで真面目にやっているふりをする。
 今日のこの空の星と同じものを、この先も見ることができるのか。都市はこれからも眩く明るく広がり、星の輝きを消してしまうのか、そうではなくなるのか。十一歳のアマーリエには想像もつかなかった。もちろん、十年後のことさえも。



初出:2010拍手お礼初出
改訂版:20221007

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