―― 冬 麗 の 不 思 議―220317
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 草原の雨は、都市のそれと比べて柔らかい。
 それは匂い立つ草いきれや、濡れた土、生き物の微かな気配といったもののせいかもしれない。高層の建物がないことも理由なのだと思う。雨の雫はどこか丸く、静かに大地に降り注ぐ。ときに大嵐となることもあるけれど、生命力に満ちた恵みの雨という印象だ。
 明るい薄曇りの空を見上げて穏やかな気持ちになれるのは、しかし大人だけなのだと思う。すぐ過ぎ去る雨のせいで、子どもたちの多くは外遊びの中断を余儀なくされる。もうすぐ雨が上がるから家の中でお待ちなさい、と言い聞かせられて。
 じきに一歳になる息子のコウセツも、行動を制限されているに違いない。きりのいいところで仕事を止め、アマーリエはおやつを持って子ども部屋を訪れた。
 絨毯を敷き詰めた板間を動き回る、とてん、とてん、という足音。リリス族の子どもだからなのか、ある日突然平均年齢以上の成長を遂げ、早々と歩き出すようになった。目を離すとすぐ遠く離れたところに行ってしまうのだが、室内だとその心配はない。しかし行動範囲が狭いせいですぐに飽きてしまい、暴れだすという表現がぴったりなほどに活発さを増すので違った意味で見守りが必要だ。
「真様」
 姿を現したアマーリエに本日付き添いに当たっている乳母たちが頭を下げる。見るべき子どもが特殊なので色々あったけれど、変わらず役目を引き受けてくれている高貴な女性たちだ。
 乳母たちの動きを察知したコウセツがこちらを見た。途端、愛らしい幼子の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「たーた!」
 とってんとってん、とむくむくの足を精一杯に動かしてやってくる息子を受け止める。
「たーた、たーた! しょぼぉ」
 周囲が『母上様ですよ』と言い聞かせているので、近頃のアマーリエは母上を意味する『たーた』と呼ばれている。舌足らずに一生懸命喋る様が可愛らしくて頬がとろけてしまいそうだ。
「遊ぶの? おやつは? 先に食べる?」
「んーん! しょぶぅ」
 ぶんっと顔を背けられ、玩具が散らばる中心に連れて行かれる。
 喃語を喋っている頃は持たせられると何でも口に入れていたが、それなりに言葉が通じるようになってきたコウセツの食べ物への興味関心の度合いはどうやら比較的低いようだった。父親の性質を受け継いでいるのだとしたら、好物以外の食べ物には無頓着になりそうだ。
 お手玉で軽くキャッチボールめいたことをしたり、音が出る玩具で即興曲を奏でてみたり。うろ覚えの手遊びをしたり。リリスの童歌は乳母や女官たちに教えてもらって覚えた。素敵な歌声ですと褒めてもらったのはあながちお世辞ではないらしく、歌い始めるとコウセツにもっともっととせがまれて声が枯れかけることもしばしばあった。
 それはそれとして、無尽蔵に湧き出る『遊ぶ』という子どもの欲求を満足させるのは困難だ。
 為政者の伴侶になるという特殊な結婚をしたため、美味しいところだけを摘むような子育てで楽をさせてもらっているとは思うのだが、怪我をしないよう、ご機嫌でいられるよう、躾の邪魔にならないよう気を付けつつ遊び続けるにはアマーリエの体力では不十分なのだった。
「はい、コウセツ。お人形をどうぞ」
 疲れてきたのでお気に入りの馬の人形に遊び相手を任せると、コウセツはじっと見て、ふるりと首を横に降った。
「んーん。じゃないのー」
 アマーリエは首を傾げた。
「うん? お気に入りのお馬さんでしょう?」
「じゃあなぁいのぉうー!」
「お馬さんじゃなくて、狼さん? それとも兎さんかな」
「んーん! にゃん!」
 あ、と背後で声がした。
「始まりましたね……」
「え?」
 乳母たちが顔を見合わせて頷くのに気を取られていたアマーリエは、小さな拳にぽてっと腕を叩かれると同時に膝に倒れ込んできたコウセツを慌てて受け止めた。
「にゃん。にゃーん! にゃんにゃーん!」
 膝の上で駄々をこねるように繰り返される『にゃん』は彼自身のいとけなさも伴って悶絶級の愛らしさだが、まるでスイッチが入ったかのように「にゃん」ばかり繰り返すのでまったく言葉が通じなくなってしまった。
「ええと……?」
 困惑するアマーリエが振り返ると、乳母たちは重々しく頷いた。
「さあコウセツ様、隣の部屋でおやつをいただきましょうね」
「にゃんー、くろくろなのぅ。くろにゃーん!」
「真様はどうぞこちらへ。ご説明申し上げます」
 乳母の一人が仰反るコウセツを抱き抱えて隣室に消える。かすかに「にゃん」が聞こえてくるので、きっとおやつを食べながら謎の鳴き声を発しているのだろう。
「少し前から、ふとした途端に謎めいた言葉を繰り返すようになっておりました。私どもでは心当たりがございませんでしたので、様子を見て、飽きて忘れるようならよし、でなければご相談に伺おうと話していたところです」
「心当たりというと……猫、ですか?」
 そう考えております、と乳母は苦笑して頷いた。確かに『にゃん』というのは何かの鳴き声か、猫そのものを指しているように思うだろう。
 だが彼女たちには猫にまつわる何かをコウセツに触れさせた記憶がないという。人形も、衣服の柄や絵本といったものにも猫とは関わりがなかった。そもそも以前は猫にそれほど反応を示さなかったのだから、ますます首を捻ってしまったという。
「庭に迷い込んできたとか……?」
「そう思って庭師などに尋ねてみたのですが痕跡はないと言われました。厨には鼠取りの猫がいますが、足を伸ばさずとも餌は十分にありますから、こちらまでやってくることはないと思います」
 外で遊ばせたことはあるがそこで猫を見掛けることもない。誰かが猫の話をした記憶もないので、コウセツが猫に執着する理由やそれをどうしたいのか、さっぱり見当がつかない。
 アマーリエも困ってしまった。常に一緒にいるわけではないので、推理の手がかりが少なすぎて、ちくちくと胸が痛む。
(もっと一緒にいてあげられたらわかったんだろうな……)
 などと落ち込んでばかりではいられない。何かを訴えているのは間違いないのだから、汲み取って、理解したい。
「猫……猫か……ううん、都市だと結構見掛けるけれどこちらではそうでもないから……」
 抱えて触れたのは数度、そう思ったとき何かが引っかかった。
 そのとき新たな人物が部屋にやってきた。深々と頭を下げる彼女に、乳母も礼儀正しく一礼する。
「ただいま戻りました。所用により席を外しておりましたゆえ、真様をお迎えできず申し訳ございません」
「とんでもございません。お疲れ様でございました。少し休憩を取られますか?」
 いいえ、と緩く首を振る彼女の短い黒茶の髪がさらさらと揺れる。
 瞳は髪と同じく黒にも見える濃い茶色。切長の目は周囲がいつもほのかに赤く、どことなく狐を思わせ、さっぱりした身のこなしにも関わらず色気が漂う。薄い唇は紅もないのにいつも明るい。ジウという名のこの人は、乳母のうちでも最も新参で最も若い二十代の見た目だが、同時に所属している場所が少々特殊なので、新参者といっても乳母たちは自分たちよりも高貴な人に対するように接する。
「神殿で何かあった?」
 アマーリエの問いにジウは緩く首を振った。
「何かというほどではございません。ご心配いただき恐縮でございます。巫女様が花を切ってくるようにと仰せになられたそうで、お届けに上がっておりました」
 凛と、しかしほろりと微笑むジウの本来の所属は神殿の巫女だ。特別にこちらに寄越してもらっているが、時折用事を頼まれてあちらとこちらを行き来している。花を切るように言ったのは巫女たちの頂点に立つ夢見の巫女ライカだろう。アマーリエにとっては義母に当たる人なので、眠りにつく時間が長いかの女性の近くに冬の花と濃緑の枝が飾られていると思うと心が和んだ。
「それはよかった。ライカ様も喜んでくださるといいわね」
 はい、とジウも嬉しそうに目を細めた。
 そうして養育に当たっているコウセツの姿がないことを確認し、そういうことかと頷いた。
「お聞きになりましたか?」
「ええ。どうして突然猫なんでしょうね……」
「そのことなのですが、コウセツ様は恐らく異相のものをご覧になっているのではないかと思うのです」
 異相、などという普段口にすることのないような言葉をさらりと口にしたジウは、多少身構えたアマーリエを温かく見守るような目をして話し始めた。
「この世のものはすべて、大きく二つの見方で捉えることができるのです。たとえばその人の顔形、髪色といった目に映るもの。過去、深い思い、関係者が抱く感情などの目に映らないもの。前者は視力があれば認識できますが、後者はそれを視るための力が備わっていなければなりません。これをもう一つの異なる姿形という意味で『異相』と申します」
 隣室からは変わらずコウセツの声がしている。
 彼が異能の持ち主かもしれないと乳母たちから知らされた記憶は新しい。そしてこのジウこそ、コウセツには力があると鑑定した巫女本人なのだった。悪鬼悪霊に狙われやすい幼子を守るため、またその力が暴走しないために見守り役の乳母に命じられてここにいる。
 そんな巫女は、ふっと表情を和らげた。
「どうかそのように思い詰められませぬよう。コウセツ様には強い守護がついていますから、心身に悪影響を及ぼすものは見えなくなくなっているようです。したがって今回はさほど危険なものではないと存じます」
 アマーリエは曖昧に笑った。彼女の言う通りだとしても、同じものを見てやれないというのは、いずれ無理解という断絶に至りそうで少し怖いのだ。現にいま、コウセツが繰り返す言葉の意味がわからないでいる。
「危険でも悪いものでもないけれど、猫にまつわる何かがあるのよね……ううん、何だろう……?」
 首を捻ったそのとき、隣室からばたばたどたっ、と一際大きな物音がして「にゃあん!」「コウセツ様!?」「えぇえ!?」という三つの叫び声が廊下に響き渡るのを聞いた。アマーリエは廊下に飛び出し、「どうしたの!?」と声を荒げたが、そこに繰り広げられている光景に丸くなった目を何度か瞬かせた。
「にゃん! にゃんはじょこー?」
「ええと、『にゃん』ですか? 申し訳ありませんがセリにはわかりかねますわ、コウセツ様」
 飛び出してきた幼子を抱えながら苦笑する女官長補佐は、アマーリエを見つけて軽く頭を下げた。
「団欒のお邪魔をして誠に申し訳ありません、真様。新年のコウセツ様のご意匠について御針の者たちが、」
「ああ! そう、そういうこと!」
 遮られたセリも、乳母やジウたちも「わかった」と手を打つアマーリエを目を丸くして見ている。
 謎が解けた興奮のまま、アマーリエはセリと彼女から離れないコウセツを巻き込んで自身の気付きを説明し、なるほどと納得の声と過剰な称賛を得たのだ。

 夜が更け、政務を終えて休みにやってきたキヨツグとお茶を飲みながら今日の出来事を話すと、それで、と彼は低く穏やかに続きを促した。
「……結局、正解は猫だったのか?」
「はい。こちらに来てから猫との触れ合いは数えるほどだと考えたとき、引っ掛かりを覚えたのが当たりだったんです。覚えていませんか? 私が子猫を拾ってきてしまったこと」
 あれは結婚して一年経つか経たないかという頃。
 かつて医者を志していたアマーリエは宮医でもあるハナの診療所で学びたいと思い、キヨツグの許可を得て王宮から街へ通っていた。護衛がついているので寄り道等は度を越さなければ認められていて、リリスのことを知らないアマーリエは人々の暮らしを見るのも勉強だと思い、都合がつけば街を散策することがあった。
 そんなある寒い日のこと、路地裏でみいみいと鳴いているぼろぼろの子猫を見つけたのだ。一生懸命に鳴く子猫を放っておけるわけがなく、連れ帰ったものの、猫の世話はしたことがない。周りに尋ねてなんとかこなしていたが、運のいい子だったのだろう、アマーリエの不慣れな世話でもすっかり元気を取り戻したのだった。
「……覚えている。手元に置かず譲ったのだったな」
 本当によく覚えている、とアマーリエは目を細めた。
 きっと、あの頃のアマーリエの覚悟のなさも彼はちゃんと覚えているのだろう。
「そうです。セリの知人に、当時愛猫を亡くして寂しがっている方がいると聞いて、その方にお願いしました。あの頃の私は自分のことだけで精一杯で、とても猫を家族に迎えられるとは思えませんでしたから……」
 細い爪を立ててしがみついてくる小さな命を、家族としてこれから長く愛し続けられるか。
 そう自分に問うたとき、できない、と思ったのだ。愛しい、愛しいと伝えて大事にすることはできても、命が終わるそのときにきっと自分の心はばらばらになってしまう。そして自らの命数を確かめてキヨツグと離別する未来を呪うと、そんな風に。
 けれどいまは。
「それでセリに、猫の様子を知らせてもらえるよう頼んでもらうことにしました。時間がかかるだろうと思っていたんですが、実は、先ほど返信が届いてしまって……」
 特に急ぐ必要はないと言ったのだが、恐らくセリは自らの持つ最も早い手段を用いて、アマーリエの名前を添えたのだと思う。『真夫人』の肩書きの威力は凄まじかったようで、間を置かずに来たと笑いながらセリが返信を渡してくれたのが、つい先刻のこと。依頼を受けた先方は震え上がったのだと思うと、本当に申し訳ない。
「その猫が、先日子どもを産んだそうなんです。そのうち一匹が……」
「……黒猫か」
 含み笑いをするアマーリエに、キヨツグがかすかな笑みで応じる。
 そう、コウセツの言う「くろくろ」「にゃん」だ。
 一般的に猫の出産は初夏に増えるという。だからこのような寒い時期に妊娠出産するのは滅多にない。ありえないと断言してもいいくらいなのだそうだ。それをコウセツが『視た』。
 それを知ったとき、アマーリエは笑ってしまった。そして、ああこの子の力はこういうものなのだな、とひとまずの理解を得たのだ。いつか恐ろしく強い異能になるかもしれない。けれど微笑ましい側面も持つのだと思って。
「キヨツグ様。お願いがあります」
 膝の上で揃えた手がふるっと震えるのを握って堪え、席を立ち、彼の傍らに跪く。
「……その黒い子猫を引き取らせていただくお許しをいただきたいのです」
 いつか手離した小さな命だ。温かな幸せに包まれて生きていたその命が、別の小さな命を産み落とした。時期が時期だけに上手く育つかわからない。そう気付いたとき、コウセツのこととは別に、引き取りたい、とアマーリエは思ってしまったのだった。
 都合のいいことを言っている。わがままだと理解している。いまさらだ、と詰られて当然だ。
 だから必死に考えた。自らの過ちを、かつての償いのために、これからどのように行動するべきか。
「子猫どころか成猫すら世話をしたことがないので、先方に伺ってどのようにすればいいのか教えを請うつもりでいます。私一人では心許ないのでもう一人か二人、何かあったときに対応できる人を連れていこうと思います。猫と暮らした経験のある女官たちに必要最低限の準備や食餌について尋ねて、いまあるもので賄えると保証してもらっていました」
 迎える準備はできている。アマーリエだけでは常に様子を見ていてやれないので手伝ってもらうこと前提だけれど、女官たちに頼み込むとまったく構わないと言ってもらっているし、必要ならもっと慣れた人間を引っ張ってくるのがいいと助言ももらった。
「ですから……」
 萎んでいく言葉にキヨツグが答えた。
「……構わぬ」
 アマーリエはぱっと顔を上げた。
「……そこまでしたのだから覚悟はあるのだろう。そもそも、私は以前のときも手離さずともよいと言わなかったか」
 そうなのだ。あのときキヨツグは拾ってきた子猫を手元に置いて構わないと言ってくれた。それでも、と首を振ったのはアマーリエの方だ。
 キヨツグの手が頬を包む。あのときと同じように心まで包み込んでくれる。
「……猫がいれば寂しくなかろうと思っての提案だったが、それでは埋められぬものがあると、あのとき思い知った」
 囁きに目を伏せる。思いが溢れ返ってしまいそうだ。
「……だが、いまはそうではないのだな」
 さほど長くはない、けれど苦しみを伴った時間が流れて、アマーリエを取り巻く状況は大きく変わった。帰りたいと思っていた故郷に以前ほど強い思い入れはなくなり、かろうじて繋ぎ止めていた家族は今度こそばらばらになってそれぞれの道を歩み出して、アマーリエは愛する人と子どもとここ(リリス)にいる。たった一人を得るために、これまでのすべてを捨てた。
『ヒト』であることすらも。
 アマーリエは大きく息を吐き、大きく波打つ感情を確かめて、微笑んだ。
「はい」
 満ち足りた言葉に、キヨツグは眩しげに目を細めると、ほの温かくなっていた頬に口付けを落とした。
 そうしてアマーリエを軽々と引き上げて膝に載せてしまう。揺れる身体を立て直そうとしたが考え直し、そっと胸に頭をもたせかけた。頭とこめかみに口付けられ、ゆるりとした手つきで髪を梳かれる。気持ちよくて目を閉じて呟いた。
「……いま、少しだけ猫の気持ちがわかった気がします」
 キヨツグは何も言わなかったけれど、面白がるように口の端を上げた気配がした。そうしてアマーリエがうつらうつらし始めるまで、繰り返し撫で続けたのだった。

 子猫は、しっかりと育った二ヶ月後を目処にやってくることとなった。
 季節外れの猫を引き取りたい、それも一匹だけの黒猫がいいという申し出は他にもあることを承知で、セリを通じて名乗りを上げ「忖度は不要」と伝えてあるのだが、あまり意味をなさないだろう。こういうとき、ヒト族の富裕層に生まれながら感覚は庶民寄りのアマーリエは居心地が悪くて困ってしまうが、いい加減慣れるべきなのだろうし、一方で当たり前と思ってはいけないと気を引き締めてもいる。
 先方には猫の世話について教えを請うつもりで予定を立てているが、それにキヨツグも同行すると言ってきたのはさすがに止めた。族長のお出ましとなると忖度どころではない。セリが言うにさほど位の高くない武官の家だと聞いているので、キヨツグが来ると一族郎党でもてなそうとするだろうし、そもそも彼の護衛が相手方の上司に当たるのだから、一家全員冷や汗で干からびかねないと思ったのだ。
 子猫を引き取る許可を得てから、コウセツの「にゃん」はぴたりと止まった。乳母や女官たちの「とってもお可愛らしかったのに……」と惜しむ声がおかしかった。
(でも……もう少し大きくなって、顔立ちがもっとキヨツグ様に似るようになったら、私もまずいかも……)
 キヨツグを幼くしたような少年のコウセツが「にゃん」と言う……――破壊力が強すぎて政治機能が麻痺するかもしれない。
「幼い頃から動物と触れ合うのはようございますね。草原で暮らしているとごく当然に馬や家畜と接しますが、街で生まれるとそうもいきませんもの。ましてやコウセツ様は御子様でいらっしゃいますし」
 ふっくらと笑う乳母のリーファは武官を束ねる将軍の愛妻なので、当たり前のように馬を大事にし、家畜を財産として管理する価値観を持っている。そして自分の経験から、コウセツには様々なものに触れてほしいという教育方針で接してくれている、アマーリエの子育ての協力者だ。
「ありがとうございます。自分より弱いものへの接し方を理解してくれれば、と思っているんです。弟妹がいればまた違うんでしょうけれど、こればかりは……」
「ええ、宙(そら)の采配です。けれどそうなれば素敵ですわね」
 微笑んで頷きつつ、どうだろうか、と思う。コウセツ自身が先行きが見えない出生だったから、もし新しい命を授かったとして、その子が異能を持たないとも限らない。コウセツのように育つのならいい、けれどそれでも困難なほどに強ければ?
 そこまで思って、ふっ、と息を溢す。吐いたそれは苦い自嘲だ。
(今度は可能性のことばかり考えて不安になっているなんて。本当に、私って仕方がない……)
「たーた」
 呼び声に顔を上げたとき、アマーリエはすでに慈しみの笑みを浮かべている。
「はい。コウセツ、どうしたの?」
「あげゆぅ」
 差し出されたのは、手習いで使用して後は捨てるだけという紙を折ったものだ。好き放題に折り曲げているので何を作ったのかは見ただけではわからない。
「くれるの? ありがとう。何を作ってくれたの?」
「こっくん!」
 しばらく時が止まる。
「……『こっくん』?」
「うん! こっくんにすゆのー」
 笑みを崩さないようにしながらアマーリエの周囲では疑問符が飛んでいる。
(こっくんって、何だろう……? 『こっくん』に『する』って言ってるんだよね……? するって、何をどうするの……?)
 傍らにいたリーファが微笑みをたたえて控えていた同僚を呼んだ。
「神殿まで一走りして、ジウ様を呼んできてくださいな。あの方なら手がかりがわかるでしょう」
「あ、ええと、ちょっと待って! もう少し考えさせて、できれば次は自力で解きたい……!」
 頭を抱えて引き止めたのは母親としての矜恃だが、「うーん、ううん」と唸るだけで有益な回答が出なかったので、無駄な足掻きを笑われても仕方がなかったと思う。これからしばらく、さほど長い期間ではないはずだが、コウセツのお喋りが発達するまで同じことが繰り返されるのだから。
 なおこの謎はひとまず棚置きとされた。「にゃん」のときのように繰り返して意思疎通が困難になるならまだしも、様子見をしていてもさほどひどくならなかったからだ。
 そして謎が解けたのは約二ヶ月後。やってきた黒猫に「コク!」と幾分かお喋りが上手になったコウセツが呼び掛けたことで、「こっくん」とは名前であったのだとわかったのだった。コクと名付けられた猫は後々までコウセツの弟分として、コクの母猫の分まで可愛がられることになる。

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