―― 夕 暮 れ の 花
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 蜩の鳴く、夏の夕暮れ。草原の国の夕陽が沈みゆく様は、まるで映像作品のような美しさと非現実さがあるとアマーリエは思う。
 もしこの一瞬を切り取ったなら、異界的な雰囲気と終末めいた寂寥感に、作り物と断じられてしまいそうだ。
 季節が流れ行けばきっとあの夕陽は冬の、燃えるような宝石の赤に輝くことだろう。そんな風にしてこのリリスの国はいつも、アマーリエにとって驚きに満ちている。
 小さなため息を吐きそうになり、急いで袖で隠して咳払いのふりをする。思い悩んでいると思われるとすぐ誰かしら飛んできてしまうので、自分の気持ちをおおっぴらにできず、常に気を遣う必要がある。そのようにしてリリスの生活は美しいだけでなく不自由も存在する。
 身に纏うものは、夏の盛りを超えて少しずつ分厚いものに変わってきていた。季節に合わせた衣、帯、上着、靴。装飾品の数々。リリスは着込む種族なのか、アマーリエの装いはこれまでになくいっそう鮮やかで華やかになっている。その壮麗さ、手仕事の見事さだけは、さすがリリス族長の妻の衣装だと褒め称えられるべきものだ。アマーリエも最初は、手の込んだ素晴らしい衣装の数々に、まるで美術館に迷い込んでしまったかのようで感動し、感嘆のため息をついたものだった。
 それが自分の普段着であると思い知り、夫であるキヨツグからの贈り物であるという重みに気付くまでは。
 ヒト族の富裕層に生まれ育ち、不自由ない暮らしを送りながら、激しい物欲を抱くことも贅沢とも無縁だったアマーリエは、結婚してからまるで絵空事めいたお姫様暮らしをしている。
 食事を作ることはない。掃除や洗濯もしない。自分で買い物に行くこともないし、着替えや入浴は複数人が手伝ってくれさえする。少女たちが夢見るような生活だ。求められば求めるだけ与えられる日々。
 けれどそのように大事にされる自分は、果たして何を返すことができるのか。何一つ思いつかなくて、無力感と自己嫌悪に死んでしまいたくなる。
 族長の妻としての役目は、十分とは言い難い。必死に考えて、この甘えた状況から脱したいと願い出た医療助手の真似事を始めてみた。それはわずかに心を慰めてはくれたけれど、足りない、もっと、と思ってしまう。むしろそうした行動すら空回りで、迷惑をかけているかもしれないと突然不安になることもある。
(役目を果たすって、すごく難しい……)
 すべきこと、やらなければならないことをする。
 好きなことをする。やりたいことをやる。
 やってみたいと思うことを実行する。何をすればいいのか考える。
 それを見つけられないまま漫然と生きる人は、きっとたくさんいるのだろう。都市という情報に溢れた場所で生まれ育つ人間の方がその傾向が顕著かもしれない。誰でも知っていることは知識としてあるのに、それ以上のものを求めない。偏った情報ばかり身に付けて、信憑性のないセンセーショナルな話題ばかりに踊らされて。何を知り、考え、どのように生きようか、見つけられずにいる人たち。
 でもそれでも、その大勢の一人一人が少しずつ世界を担っている。
 そう思うのに、その一人であるはずのアマーリエはちっぽけな自分に嫌気がさしてしまうのだ。
 そのようにして長い物煩いに囚われていると、心身どちらも疲れ果ててしまう。
「……はあ」
「如何されましたか、真様」
 しまった、と思ったときにはもう遅い。ため息を聞き咎めた若々しくも威厳のある声に、アマーリエは急いで『真夫人』の微笑を貼り付けた。
「はい。これからの予定の目まぐるしさに少々眩暈がしてしまいました」
「左様でございますか」と言ったのは、アマーリエの礼儀作法教育を担当するリリスの老婦人サコだ。 礼儀作法の指導を受ける時間の終盤で、リリスの一年と主な公務について講義してもらっていたところだった。
 この日は最も近い祭儀である祖霊供養の儀や豊穣祭における衣装の確認を兼ねており、先頃からアマーリエを幾度となく悩ませる壮麗な衣装の数々が並べられている。
 祖霊供養の儀の装束は光り物を着けない決まりだそうだ。衣装も白か黒か灰と決まっており、紺桔梗を貴色とするキヨツグ以外はアマーリエでも白色を身につける。その代わり、その衣は白は白でも、同じ色の糸で緻密な刺繍を施している。都市の展示会でもあれば目玉として飾られるような逸品だった。
 一方、豊穣の祭りはそれとは異なり、これでもかというほど華やかになる。色鮮やかな衣を重ね、珠の連なる装飾品や靴を身に着ける。首飾りに耳飾り、ずっしりと重いかんざしに宝冠がずらりと並ぶと、少しでも身動ぎをすればそれらの輝きがアマーリエの目を射るのだった。
「無理もないとは存じますが、慣れていただかねばなりません。年末年始は行事が多うございます。祭儀の際の立ち居振る舞い、御衣装や御挨拶等々、しっかり覚えていただくますのでお覚悟を」
 柄にもなく「ひえええ」と言いたくなる厳しい物言いだが、ここで求められている行動はそれではない。
「はい、ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます」
 だが頭を下げた瞬間、西日が金銀宝石の装飾品をきらめかせて、思わず「うっ」となってしまった。
「真様」
「あっ、すみません!」
 鋭い一声で咎められ、肩を縮める。叱責される予感にアマーリエは悄然と項垂れた。
「ご気分が優れないようですね」
「そういうわけでは……! その、必要なことだとはわかってはいるんですが、衣装があまりに華やかで眩しくて、怯んでしまって……お見苦しくて申し訳ありません……」
 覚悟が足りない、と叱られても仕方がない。せめて正直でいようと思ったが、改めて口にすると羞恥心に見舞われた。ただでさえ異種族の人間なのだから、教え子がこんな不出来ではサコもがっかりするだろう。
「謝る必要はございません」
 固く厳しい声音に心臓をぎゅっと掴まれる。
「たとえ血筋の正しい姫君でも、物を知らぬ幼子であっても、天様に並び立つのであれば、怯み、恐れを抱くのは当然です。恥じぬ者がいればそれこそ身の程を弁えぬ愚か者」
 顔を上げたアマーリエは、かすかに呆れを浮かべているサコをまじまじと見つめた。あまりにも断定的な物言いだったが聞き間違いではないかと思えて、恐る恐る澄まし顔のサコに確認する。
「……怯んで、いいのでしょうか?」
「ええ。お喜びください。あなた様はまともな感性の持ち主です」
 様子を窺っていた女官たちがくすくすと笑い始めると、サコもわずかに表情を緩めた。
「天様の隣に並び立つのが誰だろうと見劣りするのは当然のこと。言いたい者には好きに言わせておけばよろしい」
 確かにそうだ、とアマーリエもちょっとくすりとした。
 キヨツグは鍛えられた立派な体格と身分にふさわしい服装で間違えられることはないが、百人が百人とも認めてしまうような絶世の美丈夫なのだ。リリス族は男女ともに誰もが美形だが、彼に匹敵する完璧な美女でもなければ、並び立つのにふさわしいとは言えないと思う。
「ですから、あなた様はあなた様のすべきことをしっかり果たしなさい。身の丈に合わぬことをしても足元が疎かになるだけで意味はありません。高価な品の数々は、数多の努力と忍耐に対する事前報酬と思って受け取ればいいでしょう」
 身の丈に合う。
 一歩一歩、明日へ向かって進むように。
 小さな芽吹きが蔓を伸ばすように、やがてふさわしい姿と形へと育ち、花開く。
 そんな自分になりたい。この日このときのことを忘れないでいようとアマーリエは思った。
 さあ、とサコは軽く両手を鳴らす。
「おしゃべりはここまで。いただいていた時刻を過ぎてしまいましたので、わたくしはここで失礼させていただきます。天様がお渡りになられたときのため、真様は急いでお召し替えをなさいませ」
 それを聞いた女官たちが、支度の準備に、サコの見送りにと動き出す。辞去を告げたものの、教えたことを確認するようにアマーリエの着替えをしばらく見守っていたサコは満足げに目を細め「ずいぶん上達なされたようで何よりでございます」と言った。
「どうせすぐにお脱がされあそばされますでしょうが、諦めずお励みくださいませ」
「はいぃっ!?」
 まさかサコがそんなことを言うとは、驚き過ぎて、赤くなるよりも青ざめる。
「さっさささささ……!?」
「それでは、失礼致します」
 罰弾発言で固まるアマーリエに、優雅な暇乞いをして去っていく。そのさらさらと軽やかな衣擦れは、アマーリエをまったく初心だと笑うようでもあった。

 そんなことあったと笑えるようになったのは、色々なことを経験したからかもしれない。思い出話ができるような親しい関係ではなかったけれど、アマーリエがサコが嫌いでなかったのは、外見と実年齢が釣り合うほど高齢の彼女が、ヒト族の花嫁を決して邪険にすることはなかったからだ。
 だから息子の教育係を選定するにあたって、すぐに彼女の名前を挙げた。アマーリエを教え、ユイコのような高貴な家の令嬢を教え、族長家出身のリオンや、果てはキヨツグまでを指導したサコほどうってつけの人物はいない。
(礼儀作法だけでなく、リリス族の文化や歴史について教えてもらう。ヒト族の文明や思想と身近に接するはずのコウセツに、サコ先生はきっと、どちらかを否定したり優劣をつけたりしないで、上手く教えてくださるに違いないから)
「真様。お越しになりました」
 来訪を告げる女官ともう一人の気配にアマーリエは微笑んで応える。
「どうぞ、お入りください」
「失礼いたします」
 固く厳しい、老いているけれど若々しいきびきびした声。
 深く叩頭するサコにアマーリエは微笑んで声をかけた。
「大変ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいましたか?」
 今日はお願いがあってお呼びしたのです。どうか楽にして聞いてください――……。
 陽が沈み、暮れなずむ空に山の稜線が淡い赤に輝く。天空は紺に、銀の星を連れてきた。異国の地の満点の星空、その空を受け止めんばかりに草原の王宮の縁の下で、蔓を伸ばした夕顔があちこちに花開いていた。



初出:20090916
加筆修正:20220911

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