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煙を吹き出した後、もう一度呼吸をして大きく肩で息をするのが癖だね。
オリガがかつて付き合った男性がそう言った。自分では気が付かなかった癖だった。その彼に、君はそんな風にとても嫌そうにいつも煙草を吸うものだからおかしい、と笑われた。
気分が浮かないときだ、煙草を吸うのは。繰り返しの作業、吸って、吐く。呼吸と同じだけれど、考え事に向いている。苛立ちを押さえつけ、悲しみに煙の弾幕を張り、暗い気持ちにひたりと浸る。
一人になれる。
一緒にいる彼は、こちらが煙草を吸っているそのとき、同じ時間を過ごすことにうんざりされているとは思ってもみなかったろう。
真っ暗な自室の窓辺で、街明かりに照らされながら紫煙を燻らせる。時刻は深夜過ぎ、住宅地区であっても郊外にあるマンションには隣接する地区の賑やかな往来の音と光が届く。忌避されるそれらの騒音が、オリガは嫌いではなかった。
地区の中心部に位置する高層マンションにはこんな安物の煙草に火をつけるような女はいないだろう、と暗闇に沈む方角を見遣る。昨今の価値観では、法律で規制されていることもあって喫煙は忌避されがちだ。
オリガも滅多なことでは煙草を吸わない。だから喫煙行為は自らを晒す行為でもあった。そのようにして素を見せられる彼と別れるか別れないかを考えるとき、自然と煙草を取り出すようになっていた。
『無理に誰かと一緒にいる必要はないと思うよ』
いつか、恋を知らない友人は、苛立つオリガにそんな風に呟いた。
恋人だからといって常日頃一緒に過ごさなければならないわけではない。自由に会って、好きなときに別れて一人になる。それが恋人。それが交際。たとえ婚姻関係であっても気軽に別れる時代だ。
でも彼女はいつも、恋イコール結婚だった。一生添い遂げられる、唯一の人を求めていた。
夢見る少女。下世話なゴシップ誌にも写真が掲載されたことがある彼女を、人となりをよく知りもしない輩は汚れを知らないお嬢様として偶像化していたようだった。彼女は汚れないし汚されようともしない。
綺麗な世界で大切に育てられた、美しい花。
嵐にさらされれば簡単に散り散りになってしまう弱い花。
どのような巡り合わせか彼女と知り合い、「煙草は好きじゃないから」と言われたとき、ああなるほどねと納得がいったものだった。
紫煙が窓越しの街の光に溶けるように、白くゆうらりと消えていく。
そうして膝に置いていた携帯端末の真っ黒なディスプレイを眺めた。
(ねえ、恋もせずに結婚したのはどんな気持ち?)
アマーリエ、と美しい花のような友人に呼びかける。
唯一の人を求め、しかし恋に怯えていた、幼い心を持った彼女。
真面目な性格なのに大学に姿を見せなくなったと思ったらいつの間にか退学していて、音沙汰がなくなったと思ったら、異種族の長と結婚していたことが報じられた。
人々はセンセーショナルな報道に大きく食いついた。未知の異種族との結婚もそうだが、その相手というのが売り出し中の俳優たちが霞んでしまうほどの美形だったからだ。
緩く束ねた艶やかな黒髪。高身長、見事な体躯に絢爛な民族衣装を纏っている。瞳はカラーコンタクトなど入れずとも深い漆黒で、獣を思わせる縦長の瞳をしていた。一見して美しい人間に見えるがそこだけがまったく別の生き物のようで、オリガには薄気味悪く感じられた。この男は、本来は人とは程遠い生き物で、人間を擬態しているのではないか、という。
(本当の恋を知らず異種族と政略結婚したけどどんな気持ち?)
世紀の恋、なんて報道を見たけれど、大半は「ああ政略結婚か」と思っただろう。アマーリエは第二都市市長の娘で、オリガたち友人が知る限り、異種族と交流を持つような生活とは無縁だったからだ。
そしてアマーリエのアドレスによる一斉送信のメッセージで、人権を無視した政略結婚であるという噂は一気に広まった。
翌日には真偽を確かめようとする学生たちと押し寄せたマスコミで大学は騒然となっていた。メッセージを受け取った人間が他の者に漏らすかして、マスコミにも情報が流出したのだと思われた。アングラに詳しい者が以前からそういう噂があったと言い、報道関係者は学生たちを捕まえてインタビューをし、大学側から摘み出されると敷地の外で情報を得ようと蠢いた。オリガたちもかなりわずらわされたが、話すことはないとつっぱねていまに至る。
しかし。その後の出来事を思い出して、オリガは唇の端に笑みを刻んだ。
誰も思いもしなかった。異種族リリスの長が、どうやら真実ヒト族の花嫁を愛しているらしいことに。
(ねえ、結婚して恋をするのはどんな気持ち?)
新聞で、メディアで、頻繁に目にした『世紀の恋』のアマーリエは、オリガも知らない、匂い立つ花のように甘く麗しく、幸福な笑みをたたえていた。
結婚から、恋を知る。まるで逆の道を辿るよう。
ああこの子は、こんな形で最も望んでいた恋を手に入れたのだ――。
最後に大きく吸い、長く細く煙を吐く。
白い煙が消えた後はひんやりした窓が物思いに沈むオリガを写していた。
『無理に誰かと一緒にいる必要はないと思うよ』
「……寂しいと思うなら、まだ一緒にいるべきだったのかもしれないわね」
遠くにいる友人に笑みを向けて、オリガは携帯端末を操作して書きかけのメッセージを消去した。代わりに宛先であった彼のアドレスを呼び出した。
(私は、あなたのような恋はできない。したいとも思わない)
唯一であれば始まりも終わりもない、それは永遠によく似ている。
そのような恋は、オリガには自ら縛める呪いのように思えるのだ。
『消去しました』のウィンドウは、放置すると自動的に閉じられ、ディスプレイは輝きを失って沈黙した。
初出:20090913
改訂版:20220830
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