―― あ な た は わ た し の
<<  |    |  >>

 目の前にいるその人は、奇跡的なくらい美しい。
 ファッション誌に必ずと言っていいほど掲載されるダイエット特集や、化粧品の広告、宝飾品の写真を見てそれを身に着けるのにふさわしくありたいと考え、自身に磨きをかけるため努力を続ける人たちがいる。たとえ興味がないとしても、心の中でこれという理想とポリシーを持ってあるがままの美しさを体現しようとする人たちもいるだろう。
 そうした人々が求めてやまないものを持つ人の存在に、アマーリエはついため息してしまう。すべてのものを与えられているのではないかとまで思えてしまうくらいだ。
 その人の名を、キヨツグ・シェンという。
 アマーリエは現在キヨツグの執務室で、彼の手が空くのを待っている。
 彼の美しさは、たとえば手の甲に浮かぶ、骨の筋にも感じられる。薄い皮膚とごつごつした骨の対比がどきりとするほど色っぽくて綺麗で、思わず魅入ってしまうときがあるのだ。性差や個人差があると理解していても、家事をせず、土や薬を扱うアマーリエの手は、お世辞にも美しいとは言えない。短く切った爪を磨いて輝かせても、苦労を知らない甘えた手をして、あるとき不意にがっかりしてしまう。
 けれどキヨツグの手はまるで違う。硝子を彫ったような硬質で繊細な手が、紙面を軽やかな羽のように華麗に繰る。筆を握る手の、爪の一つ一つが眩しく思える。
 そしてその瞳にも、目を奪われてしまう。文書を読み込むために文字を追う瞳は、静かで作り物のようだけれど、そこに浮かぶわずかな感情や変化を読み取ろうとする作業はアマーリエの心をいつも騒がしくさせる。落ち込んだり悲しんだり、腹が立つだけではない。それ以上の喜びやときめきを与えてくれるのだ。
 黒い髪。リリス族の特徴である不思議な虹彩の瞳。
 この人はキヨツグ・シェン。特別に綺麗な、アマーリエの夫。
(好き、だなあ……)
 文字を記すことに囚われたその手を奪って、自分の指に絡めてしまいたい。
 仕事を追うその目をこちらに向けて、離せないようにしたい。
 そうなるとただじゃすまない気もするけれど、と、そんなことを考えてひそかに赤面する。
 そういう衝動を抱くのはあなただけじゃないんですよ、と言える日はいったいいつだろう。勇気も思いも成長も、何もかもまだまだ足りないアマーリエはひそかに頬を赤らめたままそのときを待っている。


       *


 やけにじっとこちらを見る妻に、キヨツグは書面に落としていた目を上げて首を傾げた。動作で表した『さっきから見ているがどうかしたのか?』という問いに、視線に気付かれていると思わなかったらしいアマーリエはぱっと頬を鮮やかに染めておろおろと視線を落としてしまう。さて今度は何を考えていたのか。
(……可愛らしいことだ)
 内心で笑いながら、一つ悪戯を思いつく。
 キヨツグは机にあった書類を一枚、意図的とはわからないよう机の向こう側に滑らせた。運良くそれは彼女の視界に、そしてキヨツグの執務机の脇の方へと落ちていく。アマーリエははっとし、素早く書類を拾ってこちらにやってきた。
 それが罠だと知らないまま「どうぞ」と笑うアマーリエを、次の瞬間キヨツグは自らの内側に封じていた。
「きっ!?」
 位置を調節しながら膝の上に乗せ、胸の中に抱き込む。横座りになったアマーリエが混乱と戸惑いで身動きが取れない隙に、キヨツグは彼女を捕らえることに成功した。
「ぅ、あ、あの……!」
「……私に何か言いたいことがあるのではないのか」
 そのとき何故かアマーリエはいつも以上に反応した。色付いた頬は果実のごとき赤に染まり、瞳は潤んで、全身から甘い香りが立ち上るかのようだ。
「……もういいのか?」
「も、もういいです。だ、だいじょうぶ、ですっ」
 慌てたように振られる小作りな顔の、小さな顎をキヨツグは優しく捕まえた。いとけない子兎のごとく、大きな目を見張って睫毛を震わせている。
 その目の端に口付けたなら、蝶の羽ばたきのような睫毛の瞬きを感じられるだろう。
 その耳元で呼びかけたら腕の中の彼女は小さな熱となってキヨツグをとろかせるだろう。
 その唇を啄めば、きっと甘い。何度となく味わいたくなってしまうことを、キヨツグはすでに知っている。
 何故こうも飽きないのだろう。自らの内に共存する少女らしさを本人は善し悪しと、喜ぶよりも後ろめたく感じているようだが、その変わらない無垢さをキヨツグは愛おしいと思う。どれほど大人びた装いをしようと、立ち居振る舞いが権威に見合ったものになろうと、その柔い身体の内に輝く心の有り様はいまでもキヨツグを魅了してやまない。
「……エリカ」
 呼びかける囁きに、アマーリエがそっと、わずかに目を上げる。
 抱き締めて、飽くことなく彼女を愛でていられるのは。
 ――こちらを見る花の色の瞳に、いまなお冷めることない甘い熱が浮かんでいるからだ。
 恥じらって伏せられる潤んだ目を覗き込みながら、唇を啄んだ。あたかも彼女の抱く熱に自らのそれを注ぎ込むように。彼女もそれを望んでいたのだと、ゆっくりと解けていく心とその持ち主を腕の中に閉じ込めてキヨツグは確信した。



あなたは美しいひと/あなたは愛しいひと
初出:20121028
修正:20130825
加筆修正:20221127

<<  |    |  >>



|  HOME  |