序章 Twentieth
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 ちらちらと胸をよぎる期待についに集中が切れた。何をしていても「今日あの人が来るかもしれない」と思うだけで、彼が目の前で笑いかけてくれているような気がして落ち着かなくなってしまう。
 恵理子は英単語を書き綴っていたノートの上にシャープペンを投げ出した。誰もが寝静まるような夜更けに、テーブルライトの光が机に白い世界を作り出している。シャープペンはまるでその世界のただひとりの住人のようだ。
 眩しさが目を突き刺すように感じられて、瞼を閉じて椅子の上で大きく伸びをする。背後の時計を振り返ると、暗がりで光る蛍光グリーンの針は深夜十二時半を指していた。
(休憩しようかな)
 そう思ってラジカセに手を伸ばす。深夜番組の録音を聞くために、巻き戻しボタンを押し込んだ。
 大きな機械の箱から響くきゅるきゅるという音は虫の鳴き声のようだ。
 やがて流れ出したジングルの後女性DJの落ち着いた声が番組の始まりと今日のテーマを語りだす。
 ――今晩のテーマは「恋」です。
 彼女がミュージックナンバーを言って曲がかかるまでのほんの一瞬の静寂が、恵理子は好きだった。その番組に関わる人々、特に彼女がこの時間の音楽というものを本当に愛していることがわかる気がしたから。
 最初の曲は、恋の素晴らしさと苦味と悲しみを歌っていた。祝福であり光であるとも。
 肘をついて手のひらで顔を支えながらメロディーと詞を反芻する。聞き覚えのない不思議なタイトルだったけれど、好きな曲だ。後で曲名を確認しよう。
 そんな風にして夜を満たす音楽にたゆたっていると、ふと声が響いて、次いで近所の犬が大きく吠え出した。ばたばたと家の中を走る音、そして人の声が聞こえ始める。父が帰ってきたのだ。
 その瞬間躍り出した心のまま、恵理子は部屋を飛び出した。
 階段を下りながら響いてくるのは母と男の声。
 最後の一段を下りる瞬間、自分の格好を思い出して躊躇したが構うまいと心を決める。
 サテン地の淡い月色のパジャマ。寝巻き姿というのもきっと扇情的で悪くないはず。
 そうして玄関に行くと、三人の大人の姿があった。
「……こんばんは」
「あら恵理子。まだ起きてたの?」
「うん」
 母への返事もそぞろに、酔ってその場に座り込む父を介抱する男性を見た。
 彼は苦笑を浮かべながら、もろとも倒れこみそうになりつつも上がって行けと連呼する父を母の腕に託している。
 そのとき、目が合った。
 濡羽色、というらしい。漆黒とかぬばたまという呼び名もある。夜の深い色よりももっと鮮やかに光り輝く黒い瞳だ。
 そこに恵理子の姿が映って、逸らされた。
「恵理子ぉ、お前美人になったなあっ!」
「ごめんなさいね、神郷さん。ちょっと待っていてくださる? タクシー代をお持ちしますから。――あなた、立ってちょうだい。ここで寝ないで」
 酔っ払いの叫び声に刹那のやりとりを見逃した母は、細腕からは想像もできない怪力で父を引きずっていった。
「奥様、お構いなく……」
 彼はそう言い、玄関には恵理子と神郷の二人きりになった。
 お互いに何も言えず言葉を探す気配の中、恵理子の目に入ったのは散らかった玄関だった。義務感にかられてその場にしゃがみ、脱ぎ散らかされた靴と吹き飛ばされたつっかけを揃えた後にようやく、彼を見上げた。
「……上がっていきませんか?」
 一瞬彼の目が細くなった。
 だがすぐに微笑みを浮かべる。社会人として適切な距離を表すような顔だった。
「いいえ。遅くなるので、お構いなく。……奥様、私はこれで失礼させていただきます」
 そう奥へと声をかけて彼は踵を返す。
「あ……っ」
 恵理子は先ほど揃えたつっかけを履いて慌てて後を追った。
 最初にこの人に会ったとき恵理子は恋に落ちた。父から取引先の、と紹介されたこともあまり耳に入らず、ただその顔や佇まいに見とれていた。自分でもコントロールできなくなってしまった心が、彼だ、彼なのだと叫んでいた。それはこう言っていた。
 私、あなたに出会うために生まれてきたんじゃないかしら……?
 きっと彼も同じ感覚だったはずだ。けれど恵理子とは違い、彼は十歳以上年上の大人だったからすぐにその心を押さえつけてみせた。それ以来彼は恵理子と顔を合わせるたびに心を揺らしては、社会人と高校生の間に横たわる一線を越えないよう恵理子に背を向ける。
 凍りつくような寒さと心に吹いた風に怯んでも、恵理子は駆けた。
 つっかけがつまずく音に気付いた彼が振り返ったので、恵理子は転ぶところを抱き止められた。
 思わず腕を回すと、彼をまとう空気が冷えて強張った。
「……恵理子さん」
「……ごめんなさい」
 聞き分けの悪い子どもではないつもりだったから、大人しく腕を離した。
 彼は大人で社会人で、自分は子どもで高校生だ。きっとこのまま道は交わることはない。父から聞いている、彼は彼を見初めたという社長令嬢と結婚し、恵理子は多分見合い結婚をして子どもを産むのだ。
 そう考えたとき、恵理子はこの人を無茶苦茶にしたくなる。彼を傷付けるか、見たこともない社長令嬢を傷付けるのか、自分自身を傷付けるのか、そのどれでもいい。痛手を負って忘れられなくなるくらい。憎まれるのでもいい。この人の心に住んでいたいと思ってしまう。
「っ……」
 苦しさに涙が滲んだ。助けてほしいと見えない誰かに願いたくなった。
 ただの恋だと言われても、恵理子はこれが本当の恋だと信じている。けれど未来がわからないいまは、この恋が唯一だとは限らないのだとみんなが言うだろう。
 でも私はこの恋がほしい。
 夜の中に立ち尽くして思う。恵理子の胸には確かに光があるのに、それは星よりも小さなものでしかなく、誰も何も照らしてはくれないのだ。自分のものでしかないそれはいったいどこで輝けばいいのだろう。
 ――そのとき、地を震わす音がした。
 きいんという高音があらゆるものを揺らし、地鳴りのような低音が天地に広がり始める。
「何の音だ……あれは?」
 彼は空を見ている。真空宇宙のような真っ黒の空から、瞬いていた星々が次第に消えていった。
 そして現れる、一筋の光。
 落ちていくのか登っていくのか。その光が広がって世界は真白く塗りつぶされていく。
 恵理子にはあれがなんの光なのかがわかった。妄想でもいい。直感以下の幻想でも。
 あれは恋の光だ。
 何も見えなくなっていく中、恵理子は神郷に庇われるようにして強く抱きしめられていた。
 周囲から音は消え、とくんとくんと、鼓動だけが耳の中で響いている。自分のそれと彼のそれが重なるのを感じながら、恵理子は思う。
 何かが違えば。たとえば年齢や、立場や、国や世界が別のものであったなら、この恋は叶ったのだろうか?
 誰しもあの光のような恋を夢見るのだと思う。世界を照らすほどの光と、何もかもを包み込む眩さを持つ想いであれば、それはきっと世界で唯一の恋にちがいないのだから。
 いまから世界が終わるのかそれとも続けられるのか、自分たちが生きているのかどうかもわからないけれど、祈りたい。
 どうかどれほど時を経たとしても、そんな恋が私に――この世界と人々に巡り続けますように。
 だからもしこの光が消えたら、言おう。
 あなたの名前を呼ん――で、……い………………………………………………………………――――――――……――――………………――――――――――――――――――――――――

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