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 身だしなみを整えて、御前試合が行われているという練兵場へ向かう。衣装担当の女官たちは、アマーリエの体調を気遣って、あまり強く締め付けない、涼しい生地の衣装を選んでくれていた。
 練兵場は風と砂が舞っていた。今日は日差しが強く、少し暑いくらいだ。
 用意されていた桟敷席にはリオンの姿があった。襟元を緩くはだけた男装で、近くには武器を置いている。片膝を立てて座る姿は、長い手足と凛とした気配が強調されて、非常に雄々しく、艶美だった。
 近くにいたユメがこちらに目礼したのに反応して、リオンはこちらに向かって手を振った。
「ああ、真殿。ようこそ。こちらへ参られよ」
 アマーリエが周囲に軽く挨拶をしながら桟敷に上がると、やけにつやつやした顔のリオンに笑いかけられた。
「二日酔いの具合はいかがですか?」
「……リオン殿はなんともなさそうですね」
 これまで会った中で、最も潤ったつややかな顔をしているリオンは、呵呵と笑い声を響かせた。
「あの程度の酒量、どうってことはありません。私の楽しみはあれと剣を振るうことなので、強くもなりましょう」
 結婚式のときに失敗しかけたことや昨夜のことを思い出すと、非常に羨ましい。
 だがそういう世間話をしにきたわけではないのだ。アマーリエは手をついて身を乗り出した。
「リオン殿。いい加減、指環を、」
「双方、準備を終えたな? では、始めよ!」
 試合の場に目を移したリオンが強い声で開始を告げた。はっとしたときにはばーんと高らかに木剣の音が響き、アマーリエはびくりと固まった。
 二撃三撃四撃、と打ち合った武士たちは途端に離れ、最初の攻撃よりもさらに激しい勢いで剣を交わし始めた。耳が麻痺するくらいの、気合と意志が込められた応酬だ。
 身体能力の高いリリス族らしく、練兵場を広く使って縦横無尽に駆け回り、跳躍している。二メートルくらいの高さまで跳んだのには目を見張った。脚力だけであんなところまで。
 木剣のぶつかる音は続き、彼らの表情にも必死さが現れ始めていた。目をかっと見開き歯を食いしばり、呼吸の一つまですべて、この瞬間の戦いに捧げている。
 いつの間にか食い入るようにして両手を握りしめて見守っていた。
 アマーリエがこれまで見てきたスポーツの試合とは違う。全身全霊をかけているのに、もっと深く、もっと容赦なく勝利を求めている。険しい顔、土に汚れた姿に、優雅ではないと都市のセレブリティは眉をひそめるかもしれない。折れた木剣を使い続けて試合を続けるところは、その道を行くヒト族には嫌悪されるかもしれない。
 けれど、ここにあるのは術だった。生き残るための。生きていくための。折れても折られてもなお戦い、人間らしさを失いつつある獣じみた咆哮を上げ、勝利と生きることを望み続ける。
 これほどの苛烈さで、ヒト族は生を望んだことがあるのだろうか。
 アマーリエは、知らない。裕福な家に生まれ、大学に行くための費用を出してもらい、戦争をテレビの中の出来事として見ていた、これまでの自分には。いまでもアマーリエは戦争を知らないし、当然のように生きることを許されている。そのことに初めて疑問を抱いた。
「……ヒト族などにはわからぬと思ったが」
 隣でリオンがひとりごちた。アマーリエは試合から目を逸らすことができないままそれを聞く。
「戦場にて攻勢に回ることのない我らを、腑抜けやら臆病者と呼ぶ者どももいるようだが、我らは無為に命を散らせたいわけではない。生きることを阻害されれば反撃はやむを得ぬが、自ら命を落としにいくような阿呆ではないのだよ」
「うがっ!」
 アマーリエは息を飲む。腕に鋭い一撃が入り、剣を落としたのだ。
 歓声が上がる。討ち取られた者は下がり、新しい武士が場に出た。勝ち抜き戦を行うようだ。勝者は息が上がったまま、次なる戦いに身を投じていく。
「自らの心身を知るために、戦いは必要だ。牙を隠したままでは牙があることを忘れてしまう。自分は何を可能とし、いずれを不可能とするか、知らねば生き延びていくことはできん」
 自分の心と身体を知ること。自分に何が出来て、何が出来ないか。
 焦げ付くくらいの熱さを胸に感じた。いまにも叫び出したいくらいの強い力が全身に漲っていく。
 ヒト族が友愛の民を自称するなら、リリス族は清幽と苛烈の民だった。その長い人生を緩やかに流れゆくだけかと思っていたのに、彼らは生きることを強く、叫んでいる。その生は穏やかな一方で火花のようだ。
 もしこの世界が滅びるときがきたら、生き残るのはどの種族だろう。
「……リリスは、生きる」
 呟くと、リオンは微笑んだ。
「どんなものも生きるだけだ」
 軽やかな笑みを浮かべた彼女は、傍にあった木剣を手に立ち上がり、試合の場に進み出た。武士たち、そして勝敗の決した双方からの礼を受け取り、邪魔な袖を抜いて剣を振る。
「姫将軍のお出ましだ!」
「挑戦者はおらぬか! 将軍を討ち取れば褒美が出るぞ!」
 おおという歓声とともに野次が飛ぶ。
 獰猛な表情で周囲を見渡すリオンは、美しかった。生きるだけ、それがリリス族の本質なら彼女は生粋のリリスなのだろう。眩しかった。ヒト族の競争心や、モルグ族の破壊衝動にはない、リリスの生き方の体現のようだ。
 だからリオンは認めないのだろう。
 リリスの生き方を知らないアマーリエを、きっとこの先もそうであると思っている。
 悔しさに拳を握りしめて。
「……っ!」
 立ち上がった。
 きょとんとしたような視線を受けながらも、アマーリエは振り返らず、羽織ものを捨てて場に出た。
 沈黙する武士たち。リオンもこちらを見た。アマーリエは彼女たちの前で頭からすべての飾りを引き抜くと、持っていた飾り紐で無造作に髪を括り、袖が邪魔にならないように襷掛けにした。
「真様……?」
「木剣を」
 近くに来た女官を一瞥した後、周囲を見回して告げる。
「誰か、木剣を貸してください」
 は、と目を丸くされた。直後、どよめきが起こり、アイたちが悲鳴のような制止の声を上げた。
「真様! そんな、お止めください!」
 声を無視したアマーリエが、木剣を持っていた武士の一人をじっと見つめていると、彼ははっとしたように直立し、ゆっくりとこちらに近付いてきて、手にしていたそれを捧げ持った。アマーリエが受け取ると、一礼して下がる。
「なんてこと。そちらの武士、顔を覚えましてよ!」
「真様! お考え直しくださいませ!」
「リオン殿。私が勝ったら、私を認めてくださいますか?」
 指環を返すよう要求するのではなく、そう言った。
 リオンとの酒宴での会話を思い出していた。指環を大事にし、キヨツグを愛するのは、キヨツグがアマーリエを守るものだからだという。
 だから、指環を返してもらっただけでは、意味がない。キヨツグと心を通わせた証を取り戻すのも大事だけれど、リオンの疑いを払拭するにも、汚名を返上することにもならない。アマーリエが彼女に認められる必要がある。
 真夫人として。リリスの国でリリスとして生きる命として。
「認めていただけますか」
 リオンは愉快そうに笑った。唇を釣り上げる表情は、楽しくてならないからなのだろう。
「ヒト族がリリスに敵うとでも?」
 相手は戦線を指揮する将軍だ。戦闘を経験した剣と手習いのような剣では、絶対的にアマーリエに勝ち目はないと、戦う前から明らかだ。
 それでも挑まなければ。アマーリエは胸を張ってキヨツグに会うことができない。
「……担がれているというのなら、その役目を果たします。たとえ捨てられることになっても、輝きを失うことになっても、いまそこにいるのだからその役目を負い続けます」
 政略結婚したヒト族の娘。真夫人としての役割。多数の思惑と要求が作り出している役割を背負うのが、アマーリエに課せられている義務だ。それを果たさなければならないという思いはあるけれど、それよりももっと強くて熱い衝動が生まれている。
「――それでも私はここにいる。ここにいて、自分の生き方を決められる」
 お前の居場所は、リリスだ。
 そう言われた。そのときは受け入れ難かったけれど、いまは違う。
 ここにいる。いまがある。いま、何ができるのか。
(私も、リリスの生き方を選びたい)
 咲き誇る花のような生を。
 リオンの顔から笑みが消えた。唇は緩やかな弧を描いているのに、その目はきらめく刃の鋭さを伴う。彼女は得心したように頭を動かして息をすべて吐き出すと、かっと目を見開いた。戦う者の激しさで叫ぶ。
「――来いッ!」
 アマーリエは打ち込んだ。
 だが軽々といなされる。すぐさま放たれたリオンの一撃は、彼女にとっては軽いものであっただろうけれど、アマーリエには石をぶつけられたかのような重量として感じられた。
「うっ……!」
 手首が痺れ、痛みで声が漏れたが、剣を取り落とす失態は辛うじて免れた。
 リオンが片腕だけで風を切って繰り出す攻撃は、アマーリエの想像以上に力強いものだった。だがそんな風にいちいち立ち止まって考えていては大怪我をする。思考を振り払い、剣を握った。
 周りの声は聞こえない。野次を飛ばせるほどアマーリエの身分は低くなかったからだ。それでも攻撃を避けそこなって腕や身体に一撃をくらい、ときには押し返されて地面に倒れると、押し殺したような悲鳴があちこちから漏れた。
 それでもアマーリエが立ち上がって剣を構えるので、誰も止めることができない。
 リオンも止めなかった。目配せして、好きなようにさせよと指示を与えていた。どれだけアマーリエを転がそうとも、彼女は憐れみを浮かべることなく、ただ立ちはだかった。それはアマーリエの心を奮い立たせた。
 哀れに思われていない、それはいまこのとき、リオンはアマーリエと対等に向かい合っている証拠なのだから。
 傷ついても立ち上がり、ぶつかっていく。それは心を得ようとすることに似ている、と思った。
 私は、心を得るためにここにいる。
 リオンは何を思って剣を選んだのだろう。傷を恐れずに戦い続けるその道を、どんな理由で進んでいるのか。生きていると叫ぶために? それとも何かを打ち壊したくて?
 その答えを得るには、アマーリエは未熟すぎた。何もかも。

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