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 リリスとは、ある乙女の名であった。
 天を駆ける種族であった宙の一族の者が、地上から見上げる黒き瞳に心を奪われた。その者は地上に降り、瞳を持つ乙女を傍らに、志を同じくする同胞とともに地上に国を作った。
 血の交わりを持って、彼ら一族はそれまでとは別種の生き物となった。
 それがリリス族。リリスの名は、宙の一族の心を奪った黒き瞳の乙女から付けられた。
 最初の者と乙女は番となり、始祖となり、神となった。そしていまもなお、定められた聖地で生き続けている。

   *

「この話から派生して作り上げられたのがリリスの古神話。ここでは、地上に降りた最初の者を『天』と呼び、この方に見初められて天界に昇り女神にお仕えした者を『真』と呼んでいますが、本当は、この女神と真夫人は同じものです」
 短い物語をアマーリエが読み終えたことを見届けて、ライカが言った。
「……同じもの、ですか?」
「女神リリスと天様の伴侶たる真夫人、これは同一人物なのよ。国を作っていくうちに、別の人物であるような神話が創作されたのでしょう。長く生きていると果たす役割も多くなるから、後世の人間に別の人物として受け取られたのね」
 アマーリエは考え込んだ。ライカがこの物語を読ませた真意がわからなかったからだ。
 女神と真夫人が同一人物。リリスの始祖と女神はいまも生きている。
(……黒い瞳の女神……?)
 何かを掴みかけたとき、足音が聞こえてきた。
「失礼する。母上、お目覚めか」
「リオン。おかえりなさい」
「ただいま戻りました。おや真殿、いらしていたのか。女っぷりが上がったなあ」
 アマーリエが思わず顔の傷を隠すと、リオンはくすくす笑った。そうしてどかりと隣に腰を下ろし、ライカとアマーリエを見比べ、薄紅色の表紙を見て顔をしかめる。
「……ああ、その本か」
「ご存知なんですか?」
「もちろん。幼い頃に読まされました。……ということは、母上は真殿に真実をお話しするつもりなのか」
 リオンの眼差しを受けてライカは微笑む。
「手助けをするだけよ。何を得るかは真次第です」
「母上の言葉は曖昧に過ぎる。大概になされませ。率直に話してやる方が彼女のためです」
 リオンは責めるが、ライカはそれでもにこにこと笑っている。アマーリエは身を乗り出した。
「教えてください、お願いします! キヨツグ様の族長としての立場が絶対であると確信が持てなければ、都市は私たちを離婚させる……だから、キヨツグ様が族長として揺るぎないものであることを証明するために、あの方を守るための方法を探したいんです!」
 リオンはライカに視線を投げ、肩を落とした。なるほどね、と呟いている。
「都市が離婚を求めてくる、と、あなたの妙に焦った様子はそういう事情か。私がここに居合わせて、説明を担うことまで夢見で知っておられたのですね。母上はやはりお人が悪い」
「あなたは上手に説明できるわ。大丈夫」
 妙な励ましを受けてリオンはため息をつき、アマーリエと向き合った。
「キヨツグが正しく族長であることを説明できればよい、という解釈でよろしいか?」
「はい」
「であるならば、キヨツグが私の実兄でないことが証になる。リリスの血としてあの男が持つものほど純粋なものはない。リリスそのものとして、あれは非常に濃いと聞いている」
 キヨツグは族長家の人間ではないというのに、血として濃いとはどういう意味だろう。
 考える。考えた末に、血として濃いという言葉に齟齬があるのではないかという可能性に思い至る。
 シェン家の生まれ、つまり前族長の血筋であることが重要視されたのではなく、もっと遠大で及びつかないような濃さ――そう、あの本に書かれていた物語にあった始祖と女神、に近いというような。
 何かに見つめられている気がして、アマーリエは背筋を震わせた。いま自分は深淵を覗き込もうとしているのではないか、という予感が、ひたひたと押し寄せてくる。
 一度目を閉じ、恐れを振り払うと、リオンを見つめた。
「リオン殿の言うことを説明する手段はありますか? 証拠とか……」
「ない」
 リオンはばっさりと切り捨てた。
「それは不可能なことだ。同時に不可侵でもある。命山の秘密に関わるゆえに」
「では誰に尋ねればわかりますか?」
 食い下がるアマーリエに、リオンは呆れたような顔をした。
「諦めの悪いことだなあ。都市が許すかどうかなど関係がない。キヨツグは族長で、それは命山が決めたこと。それ以上でもそれ以下でもないのだよ」
 違う、と思った。
 違う。知りたいのはそんなことではない。
 あの人が族長であろうとなかろうと好きだと思う。しかしそれでは納得できないと叫ぶ何かが胸の中にいた。けれどそれを上手く表現できない。
「……命山が決めたことだっていうなら、そこに行けば、答えをもらえるんですね」
 リオンは瞬きをし、驚愕で顔を歪めた。
「まさか。命山に行くつもりか? お止めなさい、あなたに門を開くとは思えない」
「だからって何もしないままでいたくないんです。ただ待っているだけなんて」
 ああそれだ、とアマーリエは瞑目した。
 待っているだけなんて嫌なのだ。何故なら私は、本当はとても悲しくて、少し怒っているから。キヨツグに対する疑念が解消されないのが苦しくて、動き出さずにはいられない。
 それは、彼が秘めているものが何故私に明かされなかったのだろうか、というもの。
「私には知る権利がある。――キヨツグ様の妻、だから」
 そうして息を吐き、二人に向かって深々と叩頭する。
「いろいろと教えてくださり、ありがとうございました。準備がありますので、これで失礼いたします」
「お待ちなさい」
 立ち上がったアマーリエを引き止めたのは、リオンだった。眉間に皺、頭痛を覚えている様子で苦悩を浮かべていた彼女は、何度か頭を振り、長くて重いため息を吐く。
「あなたが知りたがっていることは、リリスにとっても大いなる秘密だ。妻だからといってそれに安易に触れていいとは思えぬ。それに、真実があなたの望むものではない可能性もある。キヨツグが族長として不適格であるという確信に至るかもしれない。なのに、あなたは行くのか?」
「はい」
「キヨツグが不愉快に思うかもしれぬ。不興を買えば、都市云々の前に、あれの方から離婚を告げるかもしれない」
「それでも、行きます」
 他人の秘密に触れることは、最も恐ろしい行為だと思っていた。なるべく避けて、見ないふりをしてきた。何故ならそれは心に触れる行為と同じことだからだ。
 でもいまは、その恐れを乗り越えてなお、キヨツグのことを知りたいと思っている。ある意味、独占欲めいた、薄暗く狂おしい衝動で。
 たとえ嫌われても、謗られても、あの人のすべてが欲しかった。秘密すら丸ごと、全部。
 だから、躊躇いはなかった。
 ライカは呼気とともに静かな笑みをこぼし、リオンはくくっと笑った。
「その覚悟やよし。ならば確かめてみられよ、真夫人」


「真様……リオン様!?」
「何事ですか!?」
 すでに落花の背の上にいたアマーリエを止めに、女官たちが裾を絡げて表に出てきた。リオンは馬首を巡らせ、アマーリエを待っている。周囲には同道する彼女の武士たちの姿があり、誰も彼も荷物を手に、旅の格好をしていた。
「どちらへおいでですの!? リオン様、真様!?」
「命山だ。第一小隊、出発するぞ!」
「ごめんなさい、すぐに戻るから!」
 リオンが答え、彼女に追いつくために落花を歩かせながらアマーリエは叫んだ。女官たちの悲鳴が上がる。キヨツグがいなくなってから彼女たちを驚かせてばかりだ。そのくらい問題行動が多いのだろう。今回だってリオンを頼って着の身着のままなのだ。
 馬に乗ってある程度の距離を走る機会は、今回が初めてと言っていい。だからアマーリエは集中して落花の手綱を握り、武士たちに励まされながら、王宮そしてシャドの門を抜け、東に位置する命山へと向かった。

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