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蒼穹の下、春の色に染まった草原に、都市から走ってきた高級車が停車する。どれも都市が所有している公用車だ。
キヨツグは扉を開けた市職員に礼を言い、久方ぶりに、人の手が入っていない自然のままの大地に降り立った。その温かさと柔らかさ、そして風の透き通った香りを全身に染み渡らせるようにしてゆっくりと呼吸する。無機質な都市にはない、まろやかな大気を感じる。
目前にあった境界の扉が開かれると、そこに広がる光景に市職員たちが息を飲んだ。刹那、恐慌が走り、怖気付いた彼らが携帯端末を取り出して担当者に確認と思しき連絡を始めるが、キヨツグだけが、それとわからないくらいに目を和らげた。
風が渡る草原、境界の向こうの地平に居並ぶ、馬とリリスと旗印。まるでいままさに攻め入らんとするような、地平を埋め尽くす集合。
キヨツグが事前に授けておいた指示が発動された結果、そしてアマーリエがそのように行動せねば見ることができなかった光景だった。
だが想定していた数よりも多い。命山の宣言が効いているのだと思われた。リリスたちはキヨツグの姿を捉え、戦を始めるような声を上げ始めた。
その只中から、単騎が飛び出す。
追従する二騎が見えた頃には市職員たちも気が付いたが、彼らはまだそれをリリス族がやってきたのだと思っている。だがキヨツグの目には、後を追う二騎に比べ、リリスの装束に身を包んだ小柄な娘が、白い愛馬を駆けさせているのが見えていた。
白馬が足を緩める。停まるのももどかしく飛び降りた影に、また周囲が息を飲む。
その小柄さは、成人前のリリス族のよう。髪は結える程度に長く、鈍色をしている。優しく、幼くも見える柔らかな顔立ちに、春の花の色をした瞳。少し粧っているようだ。簪の光が目を射り、首にかかった飾りのいくつかがしゃらしゃらと音を立てた。
アマーリエは、それらにまったく構わず、伸びやかな手足で駆けてくる。もどかしそうに、必死に。
こちらを捉えた、喜びに輝く顔を見た瞬間、キヨツグは進み始めていた。
最後に、一応の礼儀として都市の人々に告げる。
「世話になった。感謝する」
そうして真っ直ぐに歩む。むずむずと沸き起こる走り出したい衝動を堪えているのは、リリスの長として見られていることを意識しているからか、それとも必死に駆けてくる彼女が可愛らしいと思うためか。
きっと後者だ。キヨツグを求めて懸命に駆けてくる彼女が、愛おしい。
キヨツグは境界を越えた。彼女が越えられないそれを、リリス側に抜ける。
「――キヨツグ様!」
白い手が伸ばされ、キヨツグは腕を広げた。
次の瞬間抱きとめた重みを、愛しいと思った。背を握りしめる手は温かく、小さくて、より強く彼女を抱きしめる。アマーリエは息を詰めた後、自信を落ち着けるような呼吸を繰り返し、やがて言葉を紡ぎだした。
「あの、いろんなことがたくさんあって、だから言いたいことも山ほどあって……謝らなくちゃいけないことも、報告したいこともあるんですけれど、ええと……」
腕の中で顔を上げたアマーリエが瞳を潤ませている。また泣いてしまうのだろうかと案じて、その頬に触れ、努めて落ち着いて聞こえるように尋ねた。
「……どうした?」
ごくり、と涙を飲んだ喉が震え、濡れた目がキヨツグを見つめた。
「……あなたが何者であっても、あなたのことを愛しています」
キヨツグは目を見張った。
アマーリエがきつく唇を噛み締める。目の端が、感情でうっすらと染まった。
「だから、私がどんな人間でも、好きでいてほしいです……」
震えのように走った衝動のまま、キヨツグはその身体を抱き上げていた。突然の浮遊にアマーリエが驚きの声を上げて硬直する。
「……笑ってくれ」
アマーリエは目を丸くしている。
「……ずっと会いたかった」
すると、言わずともといった様子で彼女は微笑みを浮かべた。
その思いを告げるのに、どれだけの勇気を振り絞ったことだろう。寂しいとも側にいてくれともなかなか言えないでいる彼女が、愛してくれと乞うている。それは真実の心。どんな人間であっても好きでいてくれという傲慢な願い事は、キヨツグにとって大きな意味を持つ。
願い事は他者に唱えるもの。
アマーリエはそれを告げる相手に、キヨツグを選んだのだ。
次の瞬間、リリスから轟きのような声が上がった。
アマーリエが驚いて身を硬くする。キヨツグは顔にこそ表さなかったが、都市側を確認して苦笑めいた気持ちになった。誰もが顔色を失っていた。少々やりすぎだ。
そしてそれらの前に出た幾人もの人間が、こちらに閃光を浴びせかけた。報道陣だと気付いたときには遅い、光の連射が止まらない。
するとアマーリエが呟いた。
「また新聞に載るんでしょうね……」
少々うんざりした様子だ。キヨツグは光のひらめくそちらにわざと見えるように身体の向きを変えながら、彼女を抱え直し、囁いた。
「……見せつけてやれば良い」
アマーリエはぎょっとしたが、まじまじとこちらを見て、キヨツグが本気だとわかったらしく、噴き出した、花が揺れるような柔らかな笑い声が耳をくすぐる。さらに激しく閃光がひらめいたが、キヨツグはかすかに微笑むと、同胞たちの元へと歩き出した。
「……帰ろう」
「はい。キヨツグ様」
甘えるように腕を回したアマーリエをこれ以上ない宝物のように抱いて、自分たちの生きるその場所へ。
*
それらの光景を、ただ一人当然のような顔で見ていたオウギは、先んじて立ち去った族長の代わりに指示を与え、手続きを終えた彼らが全員戻るのを見届けた後、慇懃に挨拶を終えてリリスに入った。
閉じられていこうとする境界の扉の向こうに、姿を霞ませてそびえる塔の数々を見て目を細める。
命山の指示を受け、都市の空を飛んで思ったのは、ヒト族はやがて宙へ至るのだろうという予感だった。
あのように空を目指す塔を建てる種族が、現状に甘んじているはずがない。やがてあの種族は牙を剥く。大地を飲み込み、空を支配するだろう。繰り返される歴史を、ありありと思い浮かべることができる。
しかし手を加えることはしない。領分を超えるからだ。
ゆえにオウギは沈黙する。族長の護衛官、あるいは影。寄り添いながらも認識されない、透明な何かとなって、ただ世界が流れ、変わりゆく様を見つめている。
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