―― 第 14 章
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 足跡のない雪原は不可侵の証だ。
 リリス北部にある境界は、ヒト族との間にあるものほど、明確なものではない。冬のいまは、かつて壁であった岩石が転がるただの雪原だ。リオンにとっては、娘時代から見慣れた冬景色だった。
 ヒト族の国とリリスの間に本当に『境界』を作ったのは、長寿のリリス族であっても覚えているものが誰もいないような、古い時代のことだと聞いていた。北部の境界が瓦礫と化したのは、時間の流れに加えて他種族の攻撃を受けてのことだ。しかしそれも、明確に語ることのできる者は残ってはいない。
 覚えているとすれば。降ってきたひとひらの雪を、瞬きで払い、リオンは思う。その時代のことを覚えて、語ることのできる者がいるとすれば、それは命山に御座す方々くらいのものだろう。
(リリスには、私たちの感覚では考えられないような、不可思議な力が未だに存在している。境界が封印であったという言い伝えも、あながち間違いではないのかもしれん)
 何を封じたのかは不確かだ。邪神であったとも、魔物であったとも言われているし、種族そのものを囲い込んだのだという説もある。
 こうして、境界の近くに立っていると、妙な想像が働いて仕方がない。封じられたのはリリスかヒト族か。それともいまリリスが戦っているモルグ族か、などと考え始めてしまうのだ。
 静かに雪が降り積もる原野の向こうに、葉の落ちぬ深緑の森と銀の山並みがある。その場所こそ、モルグ族の国だった。長く戦ってきたリオンを始めとしたリリス族にとって、彼らは独自の文化や掟とともに生きる、不可思議な力を使う、不思議な種族だ。不可侵の雪原があるとしても、モルグ族ならば、そこに足跡を残さずに移動してくる可能性がある。
 モルグ族が最も得意とするのは、潜伏と奇襲だ。追っても、気付けば煙のように姿をくらまし、襲いかかってくる可能性は低いと思っていたら、気配すら感じさせないまま攻撃を受けたこともある。様子見だけをさせるつもりで放った斥候が、足の腱だけを切られて戻ってきたときは、心底驚き、感心した。まるで、こちらに戦う意思がないことを最初から知っていたように思えたからだ。だが事前に聞いた話では、奇襲を仕掛けるつもりでいると、返り討ちにあって死者が出るというのだから、モルグ族は人の心が読める、などと言われ、薄気味悪がられるのだ。
 かと思えば、少数精鋭が襲ってきて、しばらく戦っていたら、不意に引き上げるなどという奇行を繰り返す。最初は遊ばれているようで腹が立ったが、次第に慣れてきた。モルグ族は、戦闘を遊戯として楽しんでいるのだ、と気付いたからだ。
 そしてそれは、リリスにとってもそうだった。北の最果てのような地で、大地と雪ばかりに囲まれて、慰めといえば、自らを磨き、強い者と戦い、血を沸かせることくらい。モルグ族もそう思っているに違いなかった。だから、睨み合っているとは言っても、リオンたちと彼らの間にはどこか仲間意識が芽生えていたのだと思う。
 しかし、その関係は崩れてしまった。
 リリス族がヒト族と同盟を結んだことで、モルグ族とヒト族の戦いを静観していたリリス族はその戦闘に駆り出される回数が増えたからだ。兵士を貸せ、などという、横顔を張り倒したくなるようなことをヒト族の指揮官から言われたこともある。
 そのために、リオンは王宮へ戻ったのだ。生憎キヨツグは不在だったが、代わりの者に承認を得てきた。ヒト族への助力を行うのは、自ら攻め込んだときを除くこと。自軍や己の民を守るのみ以外に、決して手は貸さぬということ。
 それまでのヒト族の戦闘は、端から見ていても目に余るような、殲滅行為と言ってもおかしくない、恐ろしい火器を無差別に放つものだった。援護、支援に限るとヒト族側に告げたのは、いつか敵に回るかもしれぬようなあやつらの手助けなどしたくなかったからだ。
「……なあ、怒っているか? モルグ族の指揮官殿。これでも急いだんだがな」
 呟いてみても、答えはない。細かな雪が風にさらわれ、舞い上がる。リリス族が提示した条件飲むのなら、リリス族側に援護に来ずともよい、というそれを受け止めざるを得なかったヒト族の指揮官の、不愉快そうな表情を是非見せてやりたかったというのに。
 舞い踊るように、浮かれ騒ぐように、遊ぶように戦うモルグ族が、ヒト族に対して奇襲をかけ、戦闘を行ったのが一ヶ月前。リリスからも援護を出したことで、死者が出てしまった。
 いつもと違う。リリス族はみんなそう思ったという。リオンですら、何かがおかしいと感じた。
 そう思って放った斥候が、昨日戻ってきた。――全員、正気を失った状態で。
 そうしてリオンは、長年の攻防で曖昧になった不可視の境界を望みながら、深緑の地とそこに生きる一族のことを考えている。彼らの領土から、空に向かって黒い煙が上っていく。
 まったく動きを見せなくなった彼らは、いったい何をしているのか。リオンの指示で、リリスは動向を見守りながら待機している。一方ヒト族は、しきりに連絡を取ってきてはモルグ族の様子を知らせろと言ってくる。
 鋭く吐き出した息は白くなった。
「いったい、何が起こっている?」
 問うた途端、ひときわ強い風が吹き付ける。
 ――…………。
 囁き声を聞いた気がして、リオンははっと周囲を見回した。
 だがそこには白い世界が広がっているばかりで「来るな」と告げる声の主など、どこにも見当たらなかった。


       *


 北部前線――リオンから早馬が来たという知らせは、アマーリエの元にも届いていた。キヨツグはそれから何らかの対応に追われることになったらしく、不規則な生活を続けていて、すれ違ってばかりだった。だから久しぶりに寝殿で顔を合わせたとき、アマーリエは思ったことをそのまま口にしてしまった。
「座ってください」
 それが、強い言い方に聞こえたのだろうか。キヨツグはつかの間動きを止め、まるで叱られた子どものように、そろそろと、アマーリエの正面にあった椅子に腰を下ろした。
「……どうした?」
 静かに尋ねられ、アマーリエは自らの顔が強張っていることに気付いた。大きく息を吐いて、力を抜くと、真っ直ぐにキヨツグを見つめる。
「リオン殿から伝令が来たこと、聞きました。気がかりがあるなら話してほしいんです。きっと考えがまとまると思いますし、私も、不安な想像ばかりしなくて済みますから……」
 キヨツグは一度、大きく瞬きをした。
 日中の彼は、そんな表情の変化をほとんど見せない。感情を動かさないようにしているようで、恐ろしいくらい冷静だ。忙しければ忙しいほど、それは顕著になって、心をなくしていくのではないかと思える。切り返しが巧みであるために、必要ないとばかりに感情を削ぎ落としていくのは、少し怖くも感じる。
 けれど退くことはできないと、じっと待っていると、やがてキヨツグはふっと力を抜くようにして、椅子に深く身体を預けた。右手は、考えるように口元にある。どのように話そうか考えているのだ。
「……モルグ族の動向が気にかかっている。リオンからの知らせによると、突如として軍を下げ、姿を見せなくなったらしい」
「軍を……撤退したということですか?」
 キヨツグは頷かない。わからない、というのだろう。
「……少なくとも、陣を解いて後退したようだ。定期連絡が来た直後ゆえ、リオンは報告が必要と判断して、早馬を走らせたのだろう」
「リオン殿はどう言っているんですか?」
「……妙だ、と書いてきた。忽然と姿を消したかのように沈黙しているのは、何か画策しているのか、それとも異変があったのか」
 そう、とキヨツグはひとりごちる。
「……不審な煙が上がるらしい。どうやら火を使っているようだ」
 モルグ族は森を拠点としていて、ヒト族に似た外見を持っている、リリス族とは別種の異種族だ。その最大の特徴として、異能力の持ち主であることが挙げられる。魔法、超能力、そう呼ばれる不思議な力を使うらしい。
 だが、彼らは表にほとんど出てこないため、どういった種族なのかは知られていない。面白おかしく書き立てる報道では、火を使わない原始的な一族だとか、人体実験の結果として生み出された新種族だとか、別のところからやってきた異世界人だとか言われていて、ヒト族においてモルグ族は『野蛮で、原始的で、危険な』種族と認識されている。
 長らく戦争を続けてきたモルグ族が、突然姿を見せなくなったとしたら、警戒しなければならないだろう。
「何か、大掛かりな攻撃を加えてくるかもしれない、ということですね」
 だが、アマーリエの言葉にキヨツグはさらに考え込む素ぶりを見せた。
「キヨツグ様?」
「……『動かない』のか、それとも『動けない』のか。それを考えている」
 動けない、と聞いて、先ほどキヨツグが異変と言ったことを思い出した。
(何か企んでいるとばかり考えていたけれど、そうか……キヨツグ様の言う通り、モルグ族に何か起こっていて、それで戦いを続けられなくなった可能性もあるんだ)
 思い込みはよくない。モルグ族に備える必要があるなら、キヨツグは最初からその選択をしていたはずだ。だが気がかりがあるということは、別の、予想し得ない何かが起こっているかもしれないと感じたということだった。
 だが、それを判断するための材料がない。モルグ族の動向は、北部戦線にいるリオンや長老家などからしか届かない。リオンたちのことを信用していないわけではないけれど、やはり伝え聞いたものと実際に見たものとでは、感じることもわかることも異なるものだ。
「だったら、確かめに行きませんか?」
 気付けば、そう言っていた。
 後から思うなら、それはアマーリエが都市へ一度戻ったことが原因だったかもしれない。確かめたいと思うならそうすればいいのではないかと、可能かどうか考えるよりも先に口に出していた。
 アマーリエの大胆な発言を、キヨツグは決して笑い飛ばすことはない。このときも、面食らったような間はあったものの、さらに考え込むように視線を落とした。
「……それは……」
 それきり言葉を止める。珍しい。低く静かに話す人ではあるけれど、言い淀むところは初めて見た。それだけ迷う理由があるのだ。
 キヨツグは目を伏せ、頷いた。
「……そうだな。赴くことで牽制になるやもしれぬし、わかることもあるだろう。それに境界に近しい地で日々を営む者を安心させることができる」
 それを聞いた次の瞬間、浮かび上がってくるものがあった。
 もしモルグ族に異変が起こっているとしたら、それは、ヒト族が仕掛けたものによるのではないか。
 キヨツグが言い淀んだのはきっとそのせいだ。その考えが頭の隅にあるから、アマーリエを遠ざけようと言葉を選んだのだ。
 嫌な予感を覚えながらも、アマーリエは拳を握りしめてキヨツグに言った。
「私も連れて行ってください」
「……エリカ」
「お願いします。都市で暮らしていた頃も、モルグ族のことをよく知りませんでした。でもいまは、知らないままでいたくないんです。他の種族のことを、自分の世界の出来事として考えたいんです。実際に見なくちゃ、伝えられないから」
 それは無理だという言葉を飲み込んだ、小さなため息が聞こえたけれど、引き下がるつもりはない。
「危険な場所だということは承知しています。私も、自分の身を守るために剣を習っています。誰かを斬りつけたことはないけれど、持っているものがどういうものなのかはわかっているつもりです」
 キヨツグの黒真珠のような瞳を見つめたとき、沸き起こった思いで胸が震えた。
 それは、もしこの人を失ったら、という恐れ。『そのとき』が――自身の大切なものを守るために、何をも顧みない決断をするときが必ず来る、という確信だった。
「――私は、守られるだけなのは嫌です」
 溢れた思いは震え声になった。泣いているように聞こえた気がして、はっと唇を噛む。恐れないと、断固とした態度で挑むべきところに、恐怖していると思われてしまえば、絶対に同行させてもらえなくなる。
(恐い。でも、逃げたくない。以前襲われたときのように、何が起こっているのかわからないままなのは嫌だ。自分を傷付けようとする相手に立ち向かうためには、まずは逃げないことから始めなければ)
 モルグ族に襲われたことは過去に一度。結婚するとき、リリスを移動している最中だった。悪意のある誰かが襲ってきたことは、忘れていない。
 そして、気付いた。あのときの襲撃。キヨツグは、その犯人を突き止めたのだろうか。そしてその狙いは。
「モルグ族は……」
 モルグ族は、ヒト族とリリス族の同盟を阻止したいから襲ってきたのだと、ずっと思い込んでいた。しかしそもそも、犯人はモルグ族だったのだろうか? 同盟を阻むことが目的だったのだろうか。
(モルグ族には、私を狙う理由がある……?)
「……エリカ」
 呼びかけられて、はっと我に返った。音もなく立ち上がったキヨツグが、アマーリエの前に跪き、手を伸ばして頬に触れてきた。そうする意味がわからなくて、けれどその体温が心地よくて、胸の奥の強張りが解けるのを感じていると、彼が言った。
「……お前の気持ちはわかった。望みを叶えられるよう、手を尽くそう」
 アマーリエは目を伏せた。またわがままを言ってしまったという後悔と、今回の離れなくていいのだという安心感が、そうさせたのだった。


 その夜、キヨツグは、うつ伏せて眠るアマーリエの髪を梳きながら、呼吸が規則正しい寝息になるのを聞いていた。少しずつ眠りが深くなっていく様子が感じられ、そっと手を止めて離す。
 憂いを忘れた寝顔を見つめていると、自責の念が強まった。
(……私が都市を疑っていることを気付かれてしまったか。故郷が敵に回るやもしれぬなどと、思わせたくはなかったのだが)
 珍しく言葉に詰まるほど疲れていたらしい。ため息を飲み込んだキヨツグは、静かに身を横たえながら考えを巡らせた。
(……ヒト族、あるいはモルグ族が何を狙っているとしても、北部戦線に私たちが姿を現したのならば、彼らがどのように動くかの見極めができるか)
 自分自身だけでなくアマーリエまでも利用する手を考えているなどと、口が裂けても言えない。裏切りに等しいと、己でもよくわかっている。しかし別の己は、アマーリエは人質なのだと冷静に判断している。
 ヒト族は、モルグ族への対抗手段としてリリス族との同盟を申し出て、その結果、政略結婚が成立した。花嫁がリリス族にとって人質であることは明白だ。そしてヒト族が素直に人質を差し出すことに同意したのは、都市の発展の妨げとなるであろう、他種族との戦を避けたいと考えてのことだったはずだ。
 止まることなく発展する自らの都市をどのように維持し、広げていくか、というのがヒト族の課題だった。そのためには土地が必要であり、リリス族をはじめとした別の種族の住まう地にある資源を欲している。この小大陸は、そう広いものではない。戦などで貴重な資源を消費したくはないだろう。
 そしてリリス族の問題は、ヒト族の発展に逆らうようにして停滞していたことだった。変化を拒み、古い時代から続くものを緩やかに続けてきたのは、この地に未だに神代の存在があることに起因している。しかし、いまこの時代に、変わることなく止まっていれば、いずれ巨大な波に押し潰されることだろう。ヒト族は、そう遠くない未来にそれだけの力を手にするだろうという予感がする。
 ゆえに、この先、リリス族が生き残るためには、流れを無視し、変化を排してはならないのだ。
 そのための結婚であり、ヒト族の技術を手に入れたいがための花嫁だ。それがアマーリエの幸福につながるのか、キヨツグにはわからない。
 ただ、リリスにいるのならば、幸福な日々にしてやりたい、と思う。
「…………」
 キヨツグはふっと息を吐く。それは苦笑に近い、幸せな嘆息だった。
 リリス族の未来や都市の思惑について考えを巡らせていたはずが、いつの間にか、アマーリエのことを考えていると気付かされたからだ。
 小さくなって眠る彼女を見つめていると、愛おしさと淡い憐憫を覚える。
 彼女に求め、望むものはキヨツグとて持っている。しかし、求めるよりも与えたいと思うのだ。
 彼女を境界に伴う己を想像して、キヨツグは静かに自嘲した。どんなに族長らしく行動しようとしても、アマーリエを尊重してしまうことに気付かされて。

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