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 夜が明けた。朝の光でぼんやりと明るくなった天幕の天井が見えていて、ああそうだ、ここはリリスの北部戦線だと思い出す。
 途端に、昨日の鮮血の光景がフラッシュバックして、ぎゅっと目を瞑り、こみ上げた吐き気を飲み込んだ。何度か深呼吸をして、自身を落ち着かせる。
(……薬をもらってよかった。神経が高ぶって眠れないところだった)
 思考は鈍く、身体は重いけれど、眠れたことは幸いだった。
 平らで重いが、温かい布団から抜け出して、髪を梳きながら衝立を越えると、切り株のような低い椅子に座っていたユメが、こちらを見て目元を和らげた。
「おはようございます、真様。よくお休みになれましたか?」
「うん。……薬が、よく効いたみたい」
「それは何よりです」
 安堵したように微笑まれ、アマーリエはなんとか笑みを浮かべた。
 眠れはしたものの、払拭しきれない恐怖が胸の奥に流れている。きっと覚えていないだけで、悪夢を見ていたに違いない。薬があって本当によかった。
「キヨツグ様の具合は……?」
 すると、ユメは困った顔でため息をついた。
「大丈夫だとの仰せで、朝早くから動き回っておられます。真様、天様がご無理なさらぬよう、気をつけて差し上げてくださいませ」
 アマーリエは気を引き締めて頷いた。あんなに失血して、もう動き回るなんて。頑丈だというリリス族でも身体によくない。休めなくとも、こまめに休憩を取るよう促した方がいいだろう。
 ユメに手伝ってもらって、装備一式を身に着ける。軽量化されているが、それでも鎖帷子や籠手といった防具はずっしりとくる。それが、自分の責任や危険の重さを実感させてくれた。
「あれから、何か変化はあった?」
 アマーリエが尋ねると、ユメは一つ頷いて教えてくれた。
 昨日の襲撃のせいで、リリス族はこれからの指針を変更せざるを得なくなってしまったらしい。リリス族側は負傷者のみで済んだものの、襲撃者は全員死亡し、かろうじて息があった者も自死を選んだからだ。犯人やその目的は明らかにならなかったけれど、個々に自決するほどの統率力があるのなら、一族の結束が強いモルグ族ではないか、というのが現在の見立てだそうだ。確かに、ヒト族には、自身を犠牲にして種族を守るような忠誠心はない、と思う。
(人質を取られていたり、洗脳されたり、薬を使ったりされていなければ、だけど)
 支度を終えたアマーリエは、ユメの案内で、会議が行われている天幕へ向かった。そこではキヨツグとリオンが、軍を統率する指揮官を交えて、意見を交換したり、状況を整理したりしていたようだった。アマーリエがその輪から少し離れたところで腰を下ろす。目を向けたキヨツグが「おはよう」とでも言うように小さく頷いたので、微笑みを返した。
 流血するほど深い傷を負ったキヨツグだが、服に隠れて腕を確認することはできない。しかし見たところ、いつも通りに手や腕を動かしているので、腕が不自由になるほどの負傷ではなかったようだ。それでも、休むべきところに動き回っているのは心配なので、注意して見ておこうと心に決める。
 そこへ、新たに一人の武士が書類を手に現れた。
「失礼いたします。過去に発生した、境界周辺での襲撃に関する報告書をまとめてお持ちしました」
 ユメがアマーリエに耳打ちする。
「昨日のような襲撃が過去に起こっていないか、確認するようですね」
 書類はリオンへ、そしてキヨツグへと手渡される。キヨツグがそれに目を通している間に、リオンがユメに問いを投げかけた。
「ユメ御前。先ほど聞いたんだが、以前にも正体不明の何者かに襲撃を受けたことがあるそうだな?」
「真様をお迎えに参った際のことですね」
 ユメは頷いた。そういえば、そういうこともあった。同じ犯人、同じ目的だったのだろうか。
(だとすれば狙われたのは私? でも、そんな感じじゃなかった気がする……)
 そこで思い出したのは、アマーリエに向かってきた襲撃者のことだった。
 乱れた鼓動を落ち着かせ、そっとキヨツグを見る。静かに書類に目を通しながら、周りの会話を聞いているはずだが、その様子からは犯人に目星をつけているようには感じられない。
 リオンはさらに尋ねる。
「それがモルグ族だった可能性はあるのか?」
「断定はできませぬ。ヒト族の領土とリリスの間には境界があり、一方で、モルグ族との間には境界のように侵入を拒むものがございません。この地ではモルグ族の侵入は容易ではありますが、以前襲撃を受けたのはヒト族の境界に近い地点でございましたゆえ」
 ユメの返答に、リオンは頷いた。
「境界があっても侵入する隙がないわけではないことは、過去の事例からも明らかだ。境界の守り人たる領主家が、常に境界の破損や劣化を報告しているわけでなし、ヒト族もリリスに潜伏することができる」
 常に監視の目があるわけではないから、知らないうちにヒト族が入り込んでいる可能性は否定できない。アマーリエも、ずいぶん昔に、リリスに迷い込んだヒト族のニュースを見たことがある。そのときは、リリス族の領地に侵入した者には死刑を言い渡されることもある、という都市伝説めいた噂を伴っていて、大きく繰り返し報道されたものだ。ヒト族にとって、リリス族は自分たちとまったく異なる未知の異種族という扱いだった。機械を受け入れることができない、未開の人という認識で、そしてそれはいまも、大きく変わってはいない。
 政略結婚のことが事件として扱われたときは、マスコミが侵入してこないよう、監視を徹底するように言い渡されていたし、そのようにして本当に偶然に、誰にも見咎められることなくリリス族の国に踏み入ることはできる。だから、意図的に監視をかいくぐって侵入することだって不可能ではないはずだ。
 そうしてリオンはキヨツグに視線を投げた。
「以前に受けた襲撃、犯人を突き止めなかったのは何故です?」
 それを受けて、キヨツグは紙束を置いた。
「モルグ族と断定できなかったからだ。捕縛した者が口を割らなかった」
「今回のように自決を選んだと?」
 初めて聞く話にアマーリエははっとした。犯人はわからない、モルグ族の可能性がある、と聞いていただけで、全員が自死したとは誰も教えてくれなかった。こちらが気付いたことを、キヨツグとユメも感じ取ったらしい。キヨツグは表情を変えなかったが、ユメは痛ましい顔で頷いて肯定する。
 アマーリエは目眩を覚え、額を押さえて目を閉じた。貧血を起こしかけているらしく、呼吸が浅くなり、視界が点滅する。
「真」
 キヨツグに呼ばれて顔を上げた。真っ青なそれを見て、彼は言う。
「ひどい顔色をしている。天幕に戻って、もう少し休みなさい」
 そうしてユメに付き添うよう手振りする。リオンたちの目もあって、アマーリエは「はい」と答えて大人しくその場を後にした。
 天幕に戻ってすぐ、軍医が、昨夜処方してくれた睡眠薬を持って現れた。それを飲んで横になる。ユメはアマーリエが眠るまで付いていると言ってくれた。
 眠りの訪れを待ちながら、浮かんでは消える様々な疑問や不安のことを考える。キヨツグやリオンは度々の襲撃の犯人が誰なのだと思っているのか。襲撃者たちは何を思って自害を選ぶのか。キヨツグを傷付けた襲撃者は、アマーリエを見て何故驚いたのか。
 その中でアマーリエが答えを見つけられるとしたら、あの襲撃者のことだろう。
 一つだけ、簡単だが確かめる方法がある。時機を逃せば、一生わからなくなってしまう。だから動き出すとすれば、なるべく早く。
(誰が、何を、思っているんだろう)
 自分自身が見えないアマーリエに、その問いの答えが見つかるはずはなく、ただ押し寄せる眠りの暗闇に静かに沈んでいくばかりだった。

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