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入市は滞りなく済んだ。病の流行もあって、厳しく制限されているようだったが、イリアの持つ市職員の身分証が効力を発揮し、特に停車を求められることなかった。都市に入る前に彼女から渡された、予防用だという白い覆面をしていたため、キヨツグのことも一職員として認識されたらしかった。
「アマーリエは現在、製薬会社の研究施設併設の病院に入院しています。乗り込むことは不可能ではないんですが、警備が厳しいので、しばらくの間潜伏していただいて、機を伺います」
被験者であるアマーリエを守る体制はかなり厳重だろう、ということで当初から予定されていた。潜伏先はイリアが用意した場所だが、キヨツグにも一応、自分だけが知っている心当たりがいくつかある。何度か都市に入った際、リリスの者が使えるよう準備した拠点は、イリアをはじめとした市職員たちも知らないはずだった。
「警備が薄くなるのは、恐らく退院後。近日中に、アマーリエの自宅か市長の実家、どちらかに移動するはずです」
「その理由は?」
万全の体制を敷いている施設でなく、一般住居に移る利は何かと尋ねると、イリアは苦く笑った。
「子どもには良い環境で育ってほしいから、だそうです」
表情に出さなかったはずだが、イリアは恐ろしいものから目を背けるように、キヨツグから視線を外した。咳払いをして話を続ける。
「ええと、それで……アマーリエは恐らく、市長の実家のコレット家で暮らすことになりそうです。古くから勤めている管理人夫妻は、市長とアマーリエのことをよく知っていて、世話をしてくれる人材として最も適していると考えられますから」
そのため、キヨツグが乗り込むのは、アマーリエが別の場所に移動した後。コレット市長が不在のときを狙って、彼女を奪還する。そのための要員は確保されている。
「顔が利くのだな」
イリアは、きらりと目を光らせた。
「共通の夢を持つ仲間を頼っただけです。私の力ではありません」
等間隔に灯る明かりを、ときに早く、ときに緩やかに見送る。静かな夜、けれどリリス族であるキヨツグにとっては騒がしい夜の街だ。これだけの人々が集まって、まるで城のような都市を形成しているのは、奇跡にすら思える。このような石塊の集まりは、一つ崩せば共倒れになりそうだとも。それらを結びつけるものは、いったい何なのだろう。
「大学は、同じ道を志す仲間が集う場所でもあります。私たちは同じ不満と願いと野望を抱いていて、必ず夢を叶えようと誓い合いました。……都市を拡大する政策ではなく、自然を残したままそこに溶け込む、そんな暮らしを始めなければならない。でなければ私たちはこの小さな大陸を食い潰してしまうから――」
ふと、イリアは照れた様子で口をつぐんだ。自らの夢を青臭いものと思い、羞恥を覚えたのかもしれない。キヨツグは為政者の一人だが、彼女の真っ直ぐな気性と活力は好ましく感じられた。
「あなたの将来を楽しみにしている」
イリアは驚き、はにかんだ。その笑顔はアマーリエを思わせて、わずかな胸の疼きを押し殺すために、キヨツグは再び窓の外を見遣った。
潜伏先となるのは、寂れた外観を持つ高層建築の一室だった。イリアは携帯端末を見ながら、扉の開閉機器を操作し、キヨツグを奥へと誘う。打ち捨てられた机や壊れた棚、埃が降り積もったここが今夜の寝床だった。イリアは恐縮しきっていたが、キヨツグは何も感じていなかった。屋根があり、風が防げるだけで十分だ。たとえ野宿であっても慣れているので心配する必要はない。だがヒト族として都市で暮らしてきたイリアには、そんな生活は想像がつきにくいのだろう。
仲間に連絡するという彼女に、何かあったら起こしてくれるよう頼み、キヨツグは運び込まれていた毛布に包まって一夜を過ごした。
夜が明けて、情報収拾に動いていたイリアが、新しい知らせを持ってきた。アマーリエの移動先が判明したという。
「今日の午後、退院して、コレット家で療養を始めるそうです」
施設を出るのなら、体調は良好なのだろう。一目、無事を確かめたい。だが軽率な行動をすべきではないという理性が働き、「わかった」と頷くに留めた。会いたい、という渇望が胸を焼くが、迂闊な行動で機を逃すわけにはいかない。
「コレット家を探りながら奪還計画を練ります。ご協力をお願いいたします」
「承知した」
そうしてキヨツグは、イリアの仲間だという人々に引き合わされた。若者もいれば年齢を重ねた者も、スーツを身にまとう者の他に、刺青を施した無頼な女性もいた。彼らに共通するのは都市を変えたいという思いだ。見た目も年齢もそれぞれ異なるが、彼らの瞳に宿る光は、真っ直ぐで揺るぎないものだった。
その協力が、リリス族長に恩を売るためのものであっても、敵地にいるなら手は多いほうがいい。そう思いながら、握手を交わした。どんなものも踏みつけにする冷酷さを、いまはまだ彼らに気取られないように。
決行の日は、月のない夜だった。初夏だが、夜の風は未だ冷たく、屋敷が立ち並ぶ地区に出歩く者は誰もいない。都市の喧騒から切り離され、無人とも思えるような静けさが漂っている。この静寂を得ることは、権力を持つ証の一つなのだろう。
その闇を、一台の車両の前照灯が切り開いていく。車内が見通せないよう窓を曇らせているが、この辺りを通る車ならば当たり前だと聞かされた。要人の住宅が多く、車両には当たり前のように防犯の備えが為されているという。
半時前、配送業者を装った先陣がこの地区に入っている。食料を宅配しながら、荷台に潜んでいる者たちを次々に放っているはずだ。キヨツグたちは遅れて、警備会社の名を貼り付けた車両に乗って、巡回するふりをしながら決行時刻を待っていた。
コレット市長は、今日、市長会議で帰宅が遅くなる。コレット家周辺の住人も、不在か、就寝が早いという話だった。だがそれ以前に、どの住宅も敷地が広い。多少の騒ぎは気付かれないだろう。
運転席の男が、キヨツグに屋敷の見取り図を渡す。
「部屋はここですが、別の場所で休んでいる可能性もあります。この家は広いので、もしここにいなければ他の……」
「問題ない。どこにいるかはわかる」
それを聞いて、相手は一瞬ぽかんとしたが、キヨツグがリリス族なのでそういうこともあるかと思ったらしく、何も言わなかった。
(それとも、『儀式』が何らかの恩寵をもたらしたのか……)
ほのかに、ではあるが、アマーリエの存在を感じる。自分がいる位置からどの辺りに彼女がいるか、その心身の状態が良いのか悪いのかがわかるのだ。第六感ともいうべき不思議な感覚だ。だが、わずかに掴み損ねてしまうのは、儀式が完全に結ばれていないからなのだろう。絆が結ばれれば、呼びかけることさえ可能になりそうだというのに、口惜しい。
車中の電子時計が、秒針代わりに規則正しく瞬く。キヨツグは目を閉じ、そのときを待った。脳裏に、まるで待っていたかのようにアマーリエの姿が浮かんでくる。こちらに背を向け、彼方を見やる彼女は、いつか、都市に思いを馳せていたときと同じ姿だ。あのとき、キヨツグはその目をこちらに向けさせるために、強い言葉を用いてアマーリエを傷付けた。
自らの行いは、後悔していない。キヨツグにはアマーリエを妻にしたいという願いがあり、それを叶えるためには、故郷を思う彼女を振り向かせなければならなかった。何かを思い切るためには強い手段を用いる必要があり、アマーリエにそれは選べないと思ったがゆえの、言葉だった。
(エリカ)
その名を呼べば、想像の中のアマーリエは振り向く。こちらに伸ばされた手を取ろうとしたとき、電子の数字が予定時刻を示した。同時に、ばちん、という軽い衝撃とじわりと広がる暗闇の音を聞く。
車両が停まる。キヨツグは目を開き、動いた。目指すは、コレット家。現在停電が発生している家屋の裏側から単独潜入を行い、アマーリエを奪還する。
幸い、月のない夜であってもリリスの目はよく見える。跳躍して壁を乗り越え、速やかに敷地内に入り込むと、素早く庭を横切って建物に近付く。耳を澄まし、人の気配がないことを確信すると、脚力と腕力を用いて壁を伝い、屋根に登った。
「…………です。停電はいましばらく続きますから、ご用心ください」
「わかりました。ありがとうございます」
玄関で話し声がする。警備会社の人間を装った協力者が、家の者を引き付けているのだった。
(この時間帯に屋敷にいる男性は、管理人の夫の方か)
その他に誰もいないのなら、目的達成は容易なのだが、そうはいかないだろう。キヨツグはすぐに、身を低くしながら最も遠い露台を探し、イリアから借りた『道具』で鍵に当たる部分を破壊する。
消音されると聞いていたが、それでも、ぱん、という破裂音が響いた。人が来る前に、開いた硝子戸から屋敷内の闇に身を滑り込ませる。
キヨツグの目は獣のごとく光っているだろう。リリス族の目だからというだけではなく、刺客や狩人としての鋭さだ。空気のわずかな揺らめきさえ見て取れるのは、この身に流れる特別な血が身体能力を向上させているからのようだ。闇を行く獣の速度で、キヨツグは足音を殺し、アマーリエがいると思われる方向へ駆け抜けた。
ゆえに、赤い光がこちらを狙った瞬間、跳躍した。
しゅん、と鋭く空間を裂いたもので、床が小さく穿たれる。キヨツグを追って、しゅん、ちゅん、と続けて二度。突破しようとしたがその攻撃によって阻まれ、後退した。
「……いつの間に強盗に転身したんだい、族長殿?」
高価な服に、磨かれた靴。髪を撫で付け、笑顔は麗しい。恐ろしいほど優しい顔をして、第二都市市長ジョージ・フィル・コレットがそこにいた。
甘くからかう声に、キヨツグは答えず、ただ身を低くした。
市長は、目元を覆う大型の機械眼鏡をつけ、黒く光る銃でこちらを狙っていた。この闇で、ヒト族の目が利くわけがない。となれば、あの機械が怪しい。闇を見る装置なのだ。
(……不在ではなかったのか)
屋敷の外に人が集まる気配を感じ取る。こちらが動き出したのを知って、対策を講じたのだろう。荒事に慣れている人間を投入したようだ。
イリアたちのことは、捨て置くしかない。こうなったときのために、何かあれば足切りをするよう、全員に通達されている。後手に回るが、助けるのは後だ。何よりもまずアマーリエを奪還する。
命までは取らぬが、腕や足の一本は覚悟してもらう。
キヨツグが疾るよりも先に、銃口が火を吹いた。
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