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オーディオプレイヤーから流れてくる曲が、ふと耳に障って、アマーリエはのろりと顔を上げた。
妊婦健診のついでに指の傷を診た医師が帰って、どのくらい経ったのだろう。なんだかついさっき「若い人は治りが早いですね」と言われたような気がするのに、他人の気配はまるで残っていない。こんなに一人きりで長々と過ごすことが久しくなくて、時間の感覚が溶けていくみたいだった。
(誰がオーディオを点けたんだろう)
ソファーに座り、本を読むともなく開いていたところに、力強い女声が恋の歌を歌い上げている。一昨年デビューした歌手と、最優秀歌曲賞を獲った曲だったか。当時どこにいても耳にしたせいで、聞き流す癖がついたつもりだったのに、頭の中にこびりついていた歌詞が文章の形を取り始めた。
あなたに会えてよかった。愛を知って、世界が変わった。
要約すればそういう内容だ。大方の流行曲は、大雑把に括るとみんな同じだ。
億劫ながらも傍らのテーブルに手を伸ばし、置いてあったリモコンで、曲を変える。結局、いつものクラシック音楽だ。
(我ながら重症だな……恋の歌が聞けなくなった、だなんて)
歌は、好きなつもりだった。母のアンナはどちらかというとシンプルな生活を好む人だったので、音楽、特に流行歌なんてものは余分だと思っているようだったし、両親の離婚後に養育者となった祖母は音楽と言えば伝統と考え、新しい歌や曲を嫌っている節があった。だから教育の一貫として歌うことはあれど、身近な人と歌った記憶はない。
それを寂しいと感じたかは、覚えていない。いまなら寂しいことだと客観的に思うけれど、成長すれば音楽はこの街のどこにでも溢れていたし、成長後はテレビを見たりオーディオプレイヤーを手に入れたりしてメディアに触れる自由を得られたから、特に気にしたこともなかった。一人きりの自室で歌うこともしばしばあったくらいだ。
なのにいまは、その歌を口ずさむと心が軋む。
これまで何気なく歌っていた曲は愛や恋の歌だった。すなわち、世の中に溢れている大抵の歌がそうだった。タイトルを見たり聞いたりするだけで嫌な気持ちになり、携帯端末からデータを削除したくらいだ。
今日はとうとう、クラシック音楽にも飽きてしまい、それどころか苛立ちを覚えて、わざわざプレイヤーの電源まで切ってしまった。ぶちん、と切れる音が聞こえてきそうなくらい乱暴に。
黙って座っているだけでも、ちりちりとした空気の音や、電化製品の唸る音、外の風や庭木の緑が揺れる音などが聞こえてくる。
けれど本当に聞きたいのは。
(……風の音。遠くに聞こえる笑い声。星が降る音が響いてきそうな静寂)
そして、たった一つの名で私を呼ぶあの人の声。
こんこん、と追想を邪魔するノックの音が響いて、サーワイが姿を見せた。アマーリエの淀んだ表情に対して、温かで穏やかな笑みで言う。
「お嬢様、林檎を召し上がりませんか? とても美味しそうだったのでつい買ってきてしまったんです」
悪阻がないのに、食欲が落ちているアマーリエを心配して、彼女はこうしてよく果物を持って来てくれる。どうしてもどこか人工的な味を感じてしまう食事と違って、果物はまだ食べようかという気になるから、このときも、小さく頷いた。それに、サーワイに話さなければならないこともあった。
綺麗な櫛形をした薄黄色い果実は、そこに置いてあるだけで甘酸っぱい香りを放っていた。しゃくっと咀嚼すると、きんと冷えたそれに爽やかな甘みが合わさって、気持ちを落ち着かせてくれる。そうすると、やはり自分は少々空腹だったらしいと気付かされて、ついまた手が伸びる。
三切れ食べたところで、人心地ついた。にこにこと見守っていたサーワイは「もうよろしいんですか?」と尋ね、アマーリエは頷いた。
「うん。もう、お腹がいっぱい」
「なら残りはたっぷりのお砂糖で煮ておきましょう」
きっとジャムにするか、パイを焼こうかと考えているのだろう。アマーリエが口元を緩めると、サーワイは満足げに笑みを深めた。
そんな彼女がキッチンに戻ってしまう前に、アマーリエは引き出しの棚を指した。
「サーワイ、そこの引き出しに入っているものを持っていってくれる?」
「はい」と言って示された引き出しを開け、サーワイは動きを止めた。
「マリア伯母さんの日記。もう読んだから、返すね」
彼女は振り返り、ゆっくりと首を傾げた。
「何故、私に?」
繋がりがわからない、とサーワイはとぼけた。いや、アマーリエを試しているのだ。日記を読んで、何を感じ、どう考えたかを聞きたがっている。だから、説明した。
「私の部屋に入って、マリアの日記を置いていけるのはあなたかダオしかいない。父さんの可能性が低いと思ったのは、父さんが話して聞かせてくれていたマリアの言動と日記の内容が、微妙に異なっているから。マリアを崇拝しているくらいだから、それを否定するような本人の真意は読ませたくないでしょう」
スーワイは、なるほど、と頷いている。
「あなたが日記を手に入れられたのは、きっと、マリアが亡くなった直後に部屋を片付けたからだよね。マリアの死に、お祖母様と父さんはかなりのショックを受けて、しばらく動けなくなっていたようだった。でも、二人の指示がなくても、散らかった部屋をあなたやダオは簡単に片付けたはず。あなたはそのときに日記を見つけた。そして、誰にも知られないうちに持ち去って、いままでその存在を隠してきた」
こんなに長く喋ったのは久しぶりで、息が上がってきた。アマーリエは呼吸を整え、自らを落ち着かせながら、最後の問いを放つ。
「でも、わからないのはそんなことをした理由なの。日記を隠してきたのはどうして? それをいまになって私に見せたのは?」
「お嬢様にはすべてを知る権利があると思ったからです」
厳しい言葉や、思いがけない理由を聞かされると覚悟していたのに、深い微笑みと静かな口調で告げられ、何も言えなくなってしまった。母のように、家族のように触れ合ってきた女性は、見たこともないような影を背負い、なのに美しく、笑っていた。
「すべてを知る権利……?」
「お嬢様は、日記を読んでどう思われましたか。何が本当なのかわからなくなった、と感じたのではありませんか?」
サーワイは重々しく頷いた。
「当然だと思います。本人の記録と周囲が語るもの、齟齬があって当たり前です。そしてどちらも真実なのです。それを語る本人がそう思っているなら、それは真実足り得ると、サーワイは思います」
マリアが見てきたものと、父が語ってきたもの、それらがすべて真実であると、彼女は言う。なら、とアマーリエは真っ直ぐサーワイを見つめた。
「なら、サーワイは何を見てきたの? あのときの出来事について、あなたにとっての真実って、何?」
口にしたことで、実感した。マリアのことを、家族以外から聞いたことがなかった。祖母は呟くように罵り、父は讃えてきたが、サーワイとダオを含めた他の人々は多くを語ってこなかった。けれどあのとき、あの不幸な死に接した人間は、家族以外にもいる。このサーワイが、その一人だ。
そして彼女は、この問いを待っていたようだった。
「これからサーワイがお話しすることは、お嬢様しか存じません。ですので、どうなさるかは、お嬢様がお決めになってください。胸の秘めるのでも、……旦那様にお話しするのでも、お好きに」
そうして彼女が語り始めたその『真実』は、アマーリエに衝撃をもたらした。
それは毒にも薬にも、あるいは刃にも成り得る、凄まじい威力を持っていた。
アマーリエは呻き、頭を抱えた。頭痛と吐き気がひどくなる。だがそれよりも、胸が痛い。
(父さんはこのことを知らない。けれど私は知っている)
真実は、武器だ。ときに偽りを、嘘を、幻想を切り裂き、心に深い傷を与えるものとなる。そしていまアマーリエは確かに、父の心に突き立てる刃を手に入れたのだった。
それをわざわざ握らせた彼女の意図は、知っておかなければならない。
言葉を失いながらも、いくつかやりとりをして、アマーリエがひとまず受け止めたことを知ると、サーワイは日記を手に去っていった。深く椅子にもたれたアマーリエは彼女から聞いたものを反芻した。まるで刃を研ぐように。
そしてそのまま、うたたねをしてしまったらしい。
マリアの夢を見た。幸せな男女が引き裂かれるところを、彼女が絶望を、その命を自ら投げ捨てた瞬間を見た。悲嘆に暮れ、涙し、憎悪した。許せない。許せない許せない許せない。夢うつつに自身が呻き声を発しているのを聞いた。煮えたぎる憎しみに息ができなくなったとき。
あの、懐かしい香りを感じた。
真昼の、冬の風の匂い。深い夜の冷たさ。雪解け水の感触を、思い出すような。アマーリエにとって安らぎそのもの。
気付けば意識を失ったときの姿勢のままで、部屋は薄暗くなっていた。目覚めたばかりもあって、世界が朧に見える。沈黙の気配が漂う中、アマーリエは息を吐く。サーワイとのやりとりは思っていた以上に消耗したようだ。
都市に戻ってきてから、こうして知らず知らずに眠り込むことが頻繁にある。妊娠や体力の低下が引き起こしているせいだと診断されていたが、あまりにも急激な眠気に不安を覚える。命を育んでいる身体、というだけでなく、自分そのものが別のものになっていくような。それは決してあり得ないことではないのだ。
部屋の明かりを点けようと腕を伸ばしたとき、ぱさりと毛布が滑り落ちた。途端、視界がぐらついた。震える手でそれを拾い上げ、大きく息を吸い込む。
それは毛布ではなかった。草原の香りがする、本物の、毛皮をなめしたもの。
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