―― 第 18 章
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 日が沈んで久しい時間、キヨツグの執務室はにわかに騒がしくなった。食事の膳を捧げ持った女官たちが、部屋の前にいた兵を突破し、なだれ込んできたのだ。料理が放つ香りで胸焼けがする。
「要らぬ。下げろ」
「ですが天様、」
「下げろ、と、言っている」
 不快感も露わに、一言ずつ語調を強めれば、族長の怒りを買ったと知った彼女らは引き下がるしかなかったようだった。竦み上がった女官たちが膳を下げると、キヨツグは再び政務に戻る。
 仕事は山積し、いくら崩そうとも絶えることはない。何をしても終わらない、輪の中をいつまでも走らされているかのようだ。だが己が走らねば何一つとして終わらぬと、食事をする時間も惜しく活動して、季節は秋。冬になればフラウ病の流行から一年が経つことになる。
 夏が過ぎ、気温が下がって天候が変化し始めると、フラウ病は再び流行の気配を見せていた。その他の感冒でも体調を崩す者も現れる時期で、キヨツグは族長として衛生管理と健康への配慮を徹底するよう街や各氏族に通達していた。また医学知識を持つ優秀な人材を集め、リリス族独自の新薬開発のための研究を進める一方、都市部における下水路の整備の遅れを質し、公衆衛生の向上に注力した。遊牧を主とする氏族の間では未だ病への恐れと薬剤への嫌悪感が強いが、少なくとも前年より被害は少なく済むだろうという試算だ。
 この騒ぎのせいで、リリスに機械文化を導入する予定は大幅にずれ込む見通しだ。ヒト族に対する悪感情も払拭しきれていない状態では、まともな国交すら覚束ない。マサキを初めとした若手を中心に先遣隊を出したが、帰還日程は変更になるだろう。これを機会により深く学び、より速やかに、抵抗なく機械知識を広められる結果に落とし込むことで帳尻を合わせなければなるまい。
 だが、同盟の決裂となれば、それらも無為に終わるか。
「…………」
 呼び声が耳を掠めた気がして、目を閉じる。この幻聴は頻繁にあって、別の事柄に意識を向けていなければ鮮明に聞こえすぎる。政務に注力するのは、耳奥に残るような甘い声を忘れるためでもあった。
 どちらにしても、リリスには変化が必要だ。ヒト族との関係がどうなるかはわからないが、変わりゆく彼らと並び立つのに、いまのままではいずれ蹂躙される。リリス族を守るための新しい手段を見つけるのが、族長であるキヨツグの役目でもある。
 ゆえに、声など聞こえない。あの微笑みも思い浮かべない。
 再び、外が騒がしくなる気配に、キヨツグはらしくもなく険しい顔を向けた。警備の制止を振り切って入ってきたのは、女官のアイだ。彼女もまた、キヨツグに負けず劣らぬ苛立ちを面に出している。
「入室を許可した覚えはない。去れ」
「いいえ。何か召し上がってくださるまで居座ります。水すらろくに口になさっておられないと聞きました」
 先ほどの女官か、大膳の者が泣きついたのだろう。族長に物申せる者は多くない。それもとびきり不機嫌とくれば、どのような咎めを受けても平然とできる豪胆な人間に役目を託すだろう。
 キヨツグは息を吐き、器の水を飲み干して、アイに目をやった。
「これでいいだろう。満足したなら出て行け」
 次の流行の備えに、新薬の研究費や施設費の確保、未だヒト族に対して嫌悪感を募らせる長老方や氏族を抑える機会を設けることも考えなければならない。その他日常的に起こる、氏族同士の争いや、裁判、刑の執行、この病のごたつきで見えてきた人事の問題の解決、年明けの人事異動についても忘れてはならなかった。その他微細な事項がキヨツグの前に山となって積まれているのだ。時間はいくらあっても足りない。
「……ご政務に没頭することでご自身の問題から目を背けておられる」
 アイの呟きに、キヨツグは視線で威嚇した。
 だが長年王宮に務めたこの女官は、怯みはしたものの言葉を失うことはなかった。
「忘れようとしていらっしゃるのです。なかったことにしようと。最初からあの方はここにはいなかったのだと」
「よく回る口だな。私の怒りを買うとわかっていて、勇敢なことだ」
「あなた様はずっとその態度でわたくしたちに暗に、忘れろ、とお命じになるのですね」
 感情のない口調で、だがせせら笑う言葉で嬲るキヨツグに、アイはどこまでも毅然としている。だからこそ、耳に障る。
「けれど忘れることなどできはしないのです。それは、天様が誰よりもご存知のはず、」
「出て行け」
 たった一言、言い放つ。
「お前は真の筆頭女官だった。その功績に免じて王宮に残ることは許す。だがしばらく私の前に姿を見せるな」
 紛うことない独裁だった。私情で、処罰した。平等さの欠片もない、他者が聞けば弾劾されてもおかしくはない。常ならず平静を欠いていることを思い知らされて、ますます胸が掻き乱される。
 唇を噛み締めて震えていたアイは、絞り出すように言った。
「……傷付きたくないから、仰る」
 それはキヨツグの逆鱗に触れた。拳を叩きつけるのと、アイが叫ぶのは同時だった。
「真様を忘れることなんて出来ないでしょう!?」
「下がれ!!」
 肩で息をしながら、互いを睨みつける。どちらも、相手に頑なさと譲らなさを見て取った。まだ言い足りないと唇を震わせていたアイは、結局何を言っても無駄だと悟り、眉間に深い皺を作って涙を堪えた後、乱暴な仕草で踵を返した。
 静寂が戻り、キヨツグは椅子に倒れ込むようにして身を預ける。
 目を閉じた途端、困った人だ、とでも言うように彼女が微笑む幻影が見えた。
(……見えぬ。聞こえぬ。これはただの願望だ)
 守りたいものを守るために、決めた。これがキヨツグとアマーリエの選択なのだ。リリスを守るためには、都市とヒト族のためには、このまま別れることが最良である、と決めた。キヨツグは内々に長老方にもそう伝えていたが、もちろん彼らは納得などしなかった。アマーリエは『儀式』を経た上で、族長の子を宿しているのだ。ヒト族に奪われたままでいるなどとは考えられぬのだろう。
 怒りの波が過ぎると、ひどい倦怠感に襲われた。痛むのが目なのか頭なのか、はたまた眠いのか。何かしたいという欲求がなくなって久しく、アイの言うように食事をしなくなり、睡眠も短く浅くなっていたから、いま己がどのような状態なのかいまひとつ把握できない。
 そして思考の隙間に、何度も考えたことが巡ってくる。――二度と会うことがなければ、互いを知らぬ頃のように離れれば、胸に咲く花はいつか潰えて終わるだろう。時間が過ぎ、互いに相手のことを忘れて新しい日々を生きるようになるはずだ。
 恋が終わるときを待っている。痛みに呻き、苦しさに喘ぎながら、時間が過ぎるのを、ただ。
 投げ出していた身体を元の位置に戻し、手を動かす。読み込むべき資料は勝手に頭に入ってくる習慣が、いまはありがたい。
 だがしばらくもしないうちに別の者が訪れた。こちらもまた、キヨツグの機嫌など意に介さぬ人間だ。
「おやまあ。ずいぶん顔色がお悪いことで」
「リオン」
 姫将軍とも呼ばれる血の繋がらない妹は、キヨツグを見下ろしてつまらなさそうな顔をした。
 フラウ病の騒ぎとモルグ族との停戦が重なり、しばらく北部と王宮を行き来していたが、現在は前線を部下に任せて、主に祭祀にまつわる仕事を担っている。実母であるライカの代わりに、または前族長に連なる血筋の者として、リオンは完璧に役目を果たしてくれている。だが報告にくることはあっても、ただ顔を見に来た、などということは無駄な行動だと断じるような妹だ。
「どうした」
 そう思って尋ねたが、不愉快だという顔をされた。
「用がなければ来ません。なに、酒盛りでもしようかと思いましてね。酔えば気持ちよく眠れます」
「必要ない」
「いい加減、苦情が来ているんですよ。死人のような顔で仕事をされて、平静でいられると思いますか。あなたに寝てもらわないとこちらが困るんです。薬を盛られるか、殴り倒されるか、大人しく酒を飲むか、睡眠前の行動としてどれがお好みか?」
 アイの次はリオンか、食べろと言ったかと思えば今度は寝ろと言う。そう考えたら、ひどく気力が奪われた。リオンと言い争いで勝てる気はしないし、殴り合いになるとどちらも引き際を見失って大怪我をするのが目に見えている。
「失礼いたします」とそこへ別の来訪者の声がした。
「シキ・リュウです。天様、リオン様、お酒をお持ちいたしました」
 現れたのは医官のシキだ。途端、リオンは目の色を変えて、シキの持っていた酒瓶を奪い、銘柄を見て「おおっ」と歓声を上げた。
「なかなかの美酒じゃあないか。よく出せたな」
「アイ殿が持って来てくれたんです。ですがリオン様、あまり飲み過ぎないようにお願いいたします」
 度数の高い酒を持たせたのがアイとわかり、またどっと疲れた。リオンが外の兵を通じて酒の肴を頼んでしまったので、なしくずし的に宴会が始まってしまう。絨毯の上に座り込んだリオンに肩を抱かれたシキも強制参加だ。キヨツグがのそりと座ったところで、肴が来た。
 煮物や焼き物の中に、天麩羅があるところに、厨房の者たちの作為を感じる。野菜に衣をまとわせた揚げ物は、食べ物の好悪がほとんどないキヨツグの好物と言って差し支えのない料理である。ここでも、ため息が出た。

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