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 王宮をいただくシャドとは異なる、威光眩し信仰の地。それが命山だ。
 世界が有り様を変える前時代から存在するという山には、そのときから神が住んでいる。リリス族の祖であり守護者。リリスがリリスであるために揺るぎない柱や楔となった番い。それが己の両親であるという感覚は、キヨツグにはほとんどなかった。ただ、アマーリエとの結婚の後から、それまで希薄だった繋がりが、急に確かさを帯びた気がしていた。それがここに帰結するのかと思うと、これはキヨツグの縁ではなく、アマーリエのものとなる巡り合わせなのだろう。
 麓の街を歩いていると、住人たちははっとして跪こうとし、おや、と動きを止めることが多かった。キヨツグ自身、この街を訪れたのは族長任命の際、祖霊に挨拶をしたとき以来だったから、この顔と似たものをよく目にしているのだろうとわかった。
 大門の前に立ち、告げる。
「リリス族長キヨツグ・シェン、命山の主に御目通りさせていただきたく参上した。開門を願う!」
 しばらくもしないうちに、門が開いた。キヨツグを受け入れたのだ。
 馬を進め、山道を登る。白い霧が棚引く道は、長い年月をかけて多くの人間が踏みしめてきたゆえに、整えられて歩きやすい。だが霧に包まれると、方向感覚が狂わされ、いまどの辺りにいるのか、どの程度登ってきたのかが曖昧になってきた。それに、酒が残っているわけでもないのに、ひどく酔ったように気分が悪くなってくる。大気に、地上にはない別のものが濃密に混じっていて、呼吸の度に身の内に溜まっていくような感覚だ。
 だがそれも、霧が晴れると急に爽快なものに変わった。呼吸がしやすくなり、澄んだ空気が肺を満たす一方、全身に清々しい力が巡るのを感じる。
 そうして目前に現れた王宮めいた神殿の風景は、初めて目にするものなのに、郷愁めいた懐かしさを覚えた。身体の感覚が、この場所を知っていると告げている。前族長セツエイとライカに引き取られなければ、ここで育ち、暮らしていたかもしれない。恐らくここは、キヨツグの居場所だったであろう地なのだ。
 その建物から吐き出されるように、するすると白い面を着けた男とも女ともつかない者たちが現れ、キヨツグの前に拱手を掲げ、音もなく膝をつく。彼らが作る道を突き進んでくるのは、キヨツグにとって懐かしい顔だった。
「祖父上。祖母上。大変ご無沙汰しております」
「まあ、まあ! 膝を折る必要はないのですよ。むしろわたくしたちがそうしなければ」
 サオがキヨツグを押しとどめた姿勢で顔を覗き込み、嬉しげに笑った。
「少し痩せたわね。族長として立派に振る舞っていると聞いて、わたくしもコウエイ様も誇らしく思っているけれど、自分を労わることを忘れてはいけませんよ」
「はい」と答える声を遮って「誇らしい?」とコウエイは鼻で笑う。
「自らの手で解決できぬからと、命山に助力を乞う軟弱者を、誇らしいと思うわけがあるか!」
「仰る通りです」
 眉をひそめたサオを目で制し、キヨツグは素直に頷いた。
「この手が短いこと、己の力が不十分であることを思い知らされました。天様などと呼ばれていても、決して万能ではなく、そうなることも出来ぬのだと。我が身もただ人でしかありませんでした」
 コウエイは眉を上げた。
「ふ、ん……ようやくわかったようだな」
 そしてくるりと背を向け、正殿に向かって歩き出す。
 この祖父は、キヨツグのことを嫌ってもいないし正当に評価もしてくれているが、『顔に出さないのが気に食わない』『情がない』とどうにも虫が好かないのだと言う。本人に面と向かって気に入らないところを言うのだから、不器用で正直な人だ。何を考えているかわからないと言われるキヨツグとは真逆だが、多くに愛された治世だった理由はそこにあるのだろう。
 サオに促され、キヨツグは後を追った。
 しん、と密やかな内部は、隅々まで清められている。人の気配が薄く、作り物めいて美しいので、まるで現実味がない。王宮に似ているので、さらに強くそう思う。広い建物をほぼ直進して突き抜けると、庭に出た。
 神域を構成する一部であるという矜持が見えるような庭木の数々に視線を送っていると、コウエイがすっと正面を指差した。
「ここを真っ直ぐ行け。お前が会いたいと望む方がそこで待っている」
 コウエイとサオはここに残るつもりらしい。祖母の微笑みは血の繋がらない孫を信じつつも、案じるような悲哀を帯びていた。彼女が恐れているのは、キヨツグがここにいることであり、そのことで生じる様々な事象が、果たして誰かを傷付けるのではなかろうかということだ。
 だがキヨツグはその傷を乗り越えるつもりでここにいて、訪れを受けた方もまた、それに向き合うつもりのはずだ。傷は避けられずとも、受け止めると心することはできる。
「私は大丈夫です」
 自然と、そう言っていた。
「お二方とも、ありがとうございます。次はこちらでの暮らしぶりをお聞かせください」
 二人は驚きに目を見張り、サオは柔らかく温かな微笑みを浮かべ、コウエイは動揺した己を恥じるように顔を背ける。
「ええ、待っているわ。そのときはアマーリエも一緒にね」
 コウエイが何も言わないのはいつものことなので、一礼して背を向ける。
 一歩踏み出そうとしたとき、深い慈しみの呟きを聞いた。
「……妻を迎えて、多少はましな人間になったようだな」
 振り向くと、しかめ面のコウエイがキヨツグを真っ直ぐに見つめていた。
「必ずや己が宿願を遂げろ。それが、お前が背負うものに報いる方法でもある」
 その重みを知っているがゆえの激励を受けて、キヨツグは改めて、深々と頭を下げた。
 清い木漏れ日が降り注ぐ中、告げられた通りに直進すると、不意に庭が途切れた。そこから先は、白石が敷き詰められた広大な場所だ。空の青が鮮烈に感じられるそこを歩くと、じゃ、じゃっと数珠玉を擦り合わせるような音が立つ。なるほど、ここは神域である命山の中でも特別な場所なのだ。足音を聞いていると、浄罪、という言葉が思い浮かび、次第に無心になっていく。
 どこまで歩いただろうか。
 白と青の世界に佇む黒い人影が、キヨツグが足を止めたのを知って振り向く。
 その一筋ひとすじが刃のように冴えて美しい銀の髪をなびかせて、オウギは小さく嘆息した。非難と皮肉が混じる仕草だ。
「こんなところまで来ている場合ではなかろうに」
「来る必要があったから来たまでだ」
 そう答えたキヨツグは、己が倒れている間にこの男がしたことについてや、現状をどう思っているのか、戻ってくるつもりはないのかなど、入り交じる思いの中から、いま告げるべき宣言を口にした。
「リリスが祖、かつて白と呼ばれし族長に畏み申す」
「許す。言え」
「始祖であり神であり守護者であるあなたが有する権限すべてを一時譲っていただきたく存ずる」
『白』と呼ばれる称号は、かつて存在した族長が所以となったものだ。見事な白銀の髪から『白』とあだ名されたそれが、後の世に名誉を表す呼び名になった。そしてその族長は、命山に登った後、没年が記されないまま空白となっていることは多くの者が知っている。それがこのオウギだと看破したキヨツグだったが、オウギはまるで隠すつもりなどなかったかのようにさらりと聞き流した。
 それでも彼が目を険しくするのは、キヨツグの願いに疑念と呆れを覚えたからにほかならない。
 リリスの始祖としてオウギと呼ばれるこの男が持っているのは、命山の主として、族長を含めたリリス族全体に命令し、従わせられる権限だ。すなわち族長より高みが下す絶対的な上意。さらに、下界の人間であるキヨツグには未だ触れることを許されぬ、命山とそこに秘せられたあらゆるものを自由に見聞きし、動かすこと。オウギが宙の一族と呼ばれる始祖であるなら、この世で彼のみが持つことを許される神代の力もある。
 それらの力を、ひとときでも持つことができたなら、キヨツグの望みは叶えられる。
「愚問だが、敢えて聞く。何故私の力を欲する?」
「我が妻、比翼の片割れであるアマーリエ・エリカを取り戻すために」
 リリス族のすべてを動かすことができれば、キヨツグが望む通りに状況を動かせる。全氏族を動かして都市に宣戦布告することは容易だが、それを避けるための方法を求めて、ここに来たのだ。
「ならば、己がその力に能うか、示してみろ」
 オウギはすらりと剣を抜き、キヨツグも応じて鞘を払った。自身のためだけに誂えた剣が、陽の光を弾いて白く鋭く輝く。一振りして受けて立つオウギの佇まいは、剣の道を突き進んできた強者のそれだった。
「我が名はレイ・オウギ・セン。当今の冀求、叶うに値するか、見せてみろ」
「――参る!」
 一息に迫り、これで決めると一撃に込める。
 だが軽々といなされた。何も感じていないかのような無の表情で、続く二撃、三撃を弾かれる。防戦一方に見えるが、あまりも堅い。攻撃しているはずのキヨツグの方が疲弊させられている。
 白々とした剣が高らかに鳴り、光をきらめかせて踊る。踊らされている。キヨツグの剣筋をも操ることのできる技量の持ち主なのだ。剣の道に五十年邁進した武の者を黒と呼ぶのなら、それ以上の技を持つ剣聖を、なるほど、白と呼ぶのも納得できる。我を捨て、剣技だけを磨いたその気配は、無垢にも感じられて圧倒的だった。
 思考する間にも、互いの間を冴えた剣が行き交っている。隙がないわけではないのに、そこを攻められない。本能で、それがキヨツグを獲るための罠だとわかっているからだ。たとえ本物の隙であったとしても、キヨツグの攻めならばかわすことができると考えているのだろう。
 苛立ちを覚えれば付け入る隙となるために、キヨツグは戦うことだけに意識を向けた。
 そうしていると、やがてオウギの剣に見惚れている己がいた。
 左、右、左、正面。右、左、右に強撃。ぎん、ぎぃんと刃が歌う。じゃりじゃり、ざざっと白石が鳴る。左、躱していなし、立ち位置を変えて受けて流す。軽く離れたところを追いかけてきて鋭い突きを受け、流したところで、左。まるで最初から楽譜があるかのように、オウギの動きは淀みない。キヨツグはそれを崩すことすらできない。
 その高みに至るために、どれほどの時間を費やしたのだろう。果たして己はその道を行くことができるのか。
 これほどまでに意識が研ぎ澄まされた戦いは初めてだった。ユメやヨウと手合わせをし、ときにはオウギを相手に稽古をしていても、これほど真剣に、命を脅かされているという感覚で剣を振るったことはなかった。乗り越えるべき障害がある喜びに、キヨツグの動きは少しずつ研ぎ澄まされていく。オウギの動きや技が、キヨツグの剣技を恐ろしいほどの速度で引き上げていく。
 そうして互いの力量が近付くにつれて、オウギの冷徹な面にかすかな笑みが浮かぶようになった。
 師が弟子の成長を嬉しく思うようでもあったが、わずかに違う。何故だろう。瞳の奥、表情のどこかに甘やかな印象があり、指導者と教え子という距離感では遠すぎる気がした。目の前に迫った白刃を受けて、ぎいんと銀色の音が散ったそのとき、最も的確な比喩が浮かんだ。
 これは、子の成長を喜ぶ親の顔だ。
「――――」
 この男でもそんな顔をするのか、ということと、己が成長を喜ばれているという事実に心をくすぐられ、わずかに調子を崩す。受け止め損なった刃はキヨツグの右袖を裂き、腕を傷付けたが、その瞬間、勝機が訪れた。
 打ち合いの流れを崩され、キヨツグを獲れるそのときは、オウギにとっても好機だった。必ず打ち取る、その欲が技の冴えとなり、隙になる。回転を加えた強撃が来た瞬間、キヨツグもまた、その大振りの攻撃に先んじて動いた。身を低くし、防がれることのないよう刃を地面に沿わせるように水平にする。春告鳥だ。速度、大気の流れを読む鋭さ、勘の良さを、春を告げる燕鳥に近付ける。素早く、どこまでも自由な剣を。
 花を見ると約束した春を、取り戻すために。
 ――時が止まる。
「そこまでか」とオウギが呟く。
「そこまで、強く思うのか。片腕を失ってもいいほどに」
 オウギの剣はキヨツグの左腕を浅く斬ったところで止められていた。刃を進めてキヨツグの腕を切り落とすことができたはずだが、その寸前で思いとどまったのだ。
「誓いと同じだ。制約となるものが多く大きいほど、加護が強まる。勝つためには賭けるものも大きくなければならなかった」
 キヨツグの剣で喉元を突かれる寸前のオウギは、くっと笑った。
(始祖)の前で加護などと言うのか」
 互いに剣を引く。勝敗は決した。冷たく徹しきれなかったオウギの敗北であり、斬ることに躊躇いがなかったキヨツグの勝利だった。
「五合だ」
 勝ったのに負けた気がしていると、不意にオウギが言った。
「後五回、打ち合っていたら、俺がいずれ負けていた。こう見えても結構な年寄りだからな」
 涼やかに刃を鞘に納めて言う姿は、リリス族の歴戦の剣士に見えても、年老いているようには思えなかった。不服を表情に出した覚えはなかったが、オウギは何もかも見通してキヨツグに幼子を見守るような眼差しをくれる。
 だがその目が不意に険しくなった。
「試合は終わった?」
 じゃらり、と白石を踏む音とともに、声がした。少し低く、澄んだ娘の声だ。真っ直ぐな気性と、誇り高さと、感情の豊かさが感じられる。
 畏怖によって乱された鼓動とともに、キヨツグは振り返った。
「それじゃあ、次は私の番だ」

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