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 雪解けの大地は緑の芽吹きを迎え、三種族の交渉が行われる境界のその場所には、関係者以外を退ける印として、リリス族の旗が掲げられていた。風に揺れる旗の上、淡い空を、ゆっくりと形を変える雲が流れている。モルグ族は例によって矢文を使って、キヨツグに代表を託して姿を隠していたが、異能力で様子を見ながら、不利になれば介入も辞さないつもりでいるようだ。そこかしこに気配があって、なんともわずらわしい。
『うるさくしてすまないね。うちの者は血気盛んで、戦がないせいで飽き飽きしてるんだ』
 キヨツグの耳元だけに声が届く。低く剛毅な女性の声だ。
 モルグ族の長が女性だとは思わなかったが、彼女はどうもキヨツグを気に入ったらしく、突然声を飛ばしてきたり、夢の中で会話を試みたりと何かと構ってくる。だが大事な話し合いを二人だけで完結してしまうゆえに、いつどのように話し合ったのかをカリヤたちに問われて、返答を考える必要があったのは少々いただけない。
「先に仕掛けられては困る」
 小さく囁きかけると、鼻で笑われる。
『それは向こうの出方次第だね。こちらは散々な目に遭わされたんだから。あんただって腑が煮え繰り返っているだろう? 戦をすることも辞さないで、妻と子を取り戻そうって考えるくらいなんだからさ』
 妻と子の奪還。
 そのために動いていたキヨツグに声をかけてきたのは、モルグ族の方だった。突然夢の中に白い獣が現れて『面白いじゃないか、混ぜておくれよ』と言われたときには不愉快に思ったが、ヒト族に一矢報いたい気持ちは理解できたので、一時的に同盟を結ぶことになった。できるならば長く良好な関係を保ち、戦をなくしたいところだ。その際の交渉役はリオンがいいだろう。先方にどうやら知己がいるようだから、円滑に進むはずだ。
 だが、モルグ族長の言うことは的外れというわけでもない。
 離れた場所に同胞を待機させたキヨツグは、交渉役のカリヤ、護衛のヨウ将軍とユメ、助言者としてアンナとイリアを側に、護衛官たちは陣の外に置き、ヒト族側の到着を待っていた。キヨツグとヒト族の女性二人以外は、全員仕来りに則って顔を隠している。指示を待っている氏族たちも例外ではない。
 境界に近付くことのない氏族は、遠くからでも見ることのできる都市の建造物の大きさに意表を突かれたようだったが、キヨツグが落ち着き払っているのを見て、恐れることはないと奮起したらしい。号令をお待ちしていますなどと言い出したので、今度は勝手に動き出さないよう命じなければならなかった。
 それはすなわち、キヨツグの命令一つで戦争の火蓋が切って落とされるということだ。
 そこまでするつもりはないが、そうさせるに至る理由があった場合、その限りではない。奥の手も、また。
「面白がっているようだな」
『あたしたちの人生は短い。あんたたちとは違ってね。激情を伴った色事は大好物だよ』
「不快だ」
『おやまあ怖い怖い。――本当のところ、あんたの花嫁には恩がある。それだけさ』
 揶揄うように言ったかと思えば、声を潜めて静かに言う。どういう意味だと問うが、答えは返らなかった。去ってしまったらしい。
 定刻が近付くにつれて、ヒト族側も少しずつ集まりだした。市長たちを迎えるべく、市職員たちが慌ただしく動き回っていたが、やがてその数を増していく。かすかな声を拾うと、報道記者と押し問答をしているようだ。なんとしてもこの瞬間を報じたいとする者や、接近禁止と伝えられたにも関わらず近付こうとする一般市民の野次馬が、忍び込んでは摘み出されている。空を飛ぶ乗り物は、都市側ですべて飛行できない手はずが整えられたらしく、静かだ。幸いである。
 やがて排気音を響かせて車両が乗り付けた。揃って無個性な黒いお仕着せに身を包んだ彼らが次々に降車し、代表者を導くのを見て、キヨツグは立ち上がった。佩いていた剣を外し、ユメに預ける。ヨウ将軍たち護衛の者が配置につくのを横目で確認して、市長たちを迎えた。
 先頭に立つのは今回代表となる第二都市のジョージ・フィル・コレット市長。大柄で余裕のある微笑みを浮かべているのは、第一都市のボードウィンだ。顔色が悪いのは第三都市のエブラで、平素はおっとりしている丸顔を緊張でわずかに強張らせているのが第四都市のロータスだった。
 そこに、求めた者の姿はない。
 刹那高まる緊張を背に受け、キヨツグは慎重に市長たちを観察した。鋭い視線にたじろいだのはエブラとロータスだが、ジョージとボードウィンは落ち着いている。こちらを挑発しているのか、それとも要求に応じないという都市側の姿勢を表したものか、表情だけではわからない。
 だが、そのとき、ジョージが手を挙げた。
 車両の群れの中程、沈黙していた一台の扉が市職員によって開かれる。
 白い靴、白い足。純白の裾が静かに泳ぐ。柔らかな色の髪をなびかせた小さな人影が、淡い色の瞳でこちらを見る。その腕は小さなものを大切に抱えていた。
 恭しい一礼を受けて、こちらに先導されてきたアマーリエは、最後に見たときよりも一層痩せていた。そしてこちらを見つめる瞳は、澄んだ水のように清かで、いまにも波紋を描いて溢れてしまいそうなほど、哀切に満たされている。
「――全都市を代表して、私、ジョージ・フィル・コレットがご説明申し上げる」
 アマーリエを傍らに呼んで、ジョージが言った。
「ご承知おきかと思うが、こちらはアマーリエ・エリカ・コレット氏。この度の交渉に関わるために同席していただく。まずは、そちらの意志を確認させていただきたい。リリス族長キヨツグ。シェン殿、リリス族ならびにモルグ族は、我らヒト族に対して敵対の意思をお持ちか?」
 前に出ようとするカリヤ手を挙げて制し、キヨツグは答えた。
「――まずは、リリス、ならびにモルグ族の代表として、交渉に応じてくれたことに礼を言う」
 アマーリエがわずかに震えたのを目の端に捉えつつ、続ける。
「敵対の意思の有無だが、状況によっては戦わざるを得ない、と考えている」
 ざわりとしたのは、それを聞いた後方の市職員たちだ。市長たちはさすがと言うべきか、その答えを予期して、どちらかというと冷静な面持ちだった。
「そちらの言う『状況』とは何を指すのか、お教えいただきたい」
「ヒト族がこちらの要求を飲まぬ場合、そしてリリス族とモルグ族の民や領域に危害を加えるなどの侵略的かつ敵対行為を加えたときに、我らは速やかに戦闘を行い、要求が叶えられるまでそれを続ける」
「改めてお尋ねしたい。何を求めるのか」
「アマーリエ・エリカ・コレット・シェンとその子の身柄だ」
 青ざめて呼吸すらままならない彼女を見ながらも、キヨツグは容赦なく告げた。
「彼女とその子どもをこちらに渡せ。そうすれば我々はここから去る」
 だがジョージも言われてばかりではいなかった。
「コレット氏も彼女の子どもも都市の一市民。たとえ法が異なるリリス族であろうと、その人権を侵害する行為は断じて認められない。リリス族長、あなたはコレット氏と婚姻関係を結んだのをいいことに、彼女が己に隷属するよう仕向けた。孤立無援のコレット氏が精神の安定を欠いていたことは想像に難くない。その隙をついて、妻は夫に従うべきものだと思い込ませ、彼女を意のままに操った。これはこちらの法律ではハラスメントと呼ばれる心身の苦痛を伴う嫌がらせ行為だ。したがって、彼女の身を守るためには、そちらの要求を飲むことは不可能だ、と答えざるを得ない」
 それが都市側の、父親としての屁理屈かと、キヨツグは顔には出さずに呆れ、嘲笑った。そして、そこまでしてアマーリエを手元に置きたがる彼に哀れみを覚えた。その執着の根元にあるものを想像すると、こちらに対する怒りも理解できるものではあった。
「リリス族とヒト族の価値観の差異について議論する気はない。だが憶測で物を言うのは止めてもらおう。当事者でない者に私たち夫婦のことは理解できまい」
「虐げたことを認めるのだな?」
「それは本人にしかわからない」
 付け入る隙を見出だしたジョージよりも早く、続きを口にする。
「私は愛した。私なりの形で、彼女の幸いを作ろうと思った。それは、たとえば、学びたいという意欲に報いることであり、尊敬される人物として成長する機会であり、一人きりで震えずに済む、悪夢にうなされることのない眠りだった。あなたは知っているのか、コレット市長。エリカはよくうなされていた。父と母が現れる夢を見ながら、あなた方を呼び、涙を流すことさえあるのだと」
 意表を突かれたように黙りこんで、ジョージはアマーリエを見た。アマーリエは悲しげに目を伏せている。うなされていて揺り起こされたのを思い出しているのかもしれない。それが続いた時期があったことも。
「彼女の身を守るためには、とはこちらの台詞だ。あなたは、都市は、エリカの安寧には成り得ない。彼女の真の望みすら叶えられないあなたに、エリカを渡すことはできない」
 夫として、初めて妻の父親に挑んだ瞬間だった。
 ジョージは不愉快そうな表情を隠そうともしなかった。だが、本来往なして流さなければならないものを、こうして露わにさせたのだから、彼の急所を突いたことは明らかだ。
 キヨツグはいまこうして義父と向かい合ったことで、己の中に怒りが燻っているのをようやく自覚した。アマーリエにある心の傷や悲哀の原因でありながら、長らくそのことに鈍感であった彼を、出来ることなら一発殴ってやりたいと思っている。否、ここが会談の場でなければ理屈を捏ねた瞬間に殴っていた。

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