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『つまり逃げ帰ってきたってことなんじゃないの? それがリリス族を怒らせたってことでしょ。』
『そもそも結婚そのものがおかしかった。市長の娘だからって異種族と恋愛できるものか? 政略結婚だと考えるのが普通だろう。』
『結論:コレット市長は娘を生け贄に権力を恣にしている。』
『ただの夫婦喧嘩ならさっさと仲直りして帰ってほしい。戦争とかバカじゃねえの。俺らを巻き込むなっての。そんなんで死ぬとかアホか。』
『市長の娘を返すときに新しい嫁を添える。これで円満解決。』
『そしてハーレムが出来るのか。マジうらやま。イケメンに生まれたかった人生だった。』
『これもし市政関係者が見てるならちゃんと考えてほしい。戦争だよ? 私たちが守ってきた平和が脅かされてるんだよ。一人の人間の勝手な行動で人が死ぬかもしれない。これからの都市のために、私たち市民の声をちゃんと拾って、結論を出してください。』
 リリス族とモルグ族が攻めてくる――そのことを市民が知った後、少しずつ情報が集まるにつれて多くの人が対面で、あるいはネットワーク上で意見を交わした。嘘や、勝手な憶測が大半を締めたが、中にはどこから漏れたかわからない本当の話もあった。アマーリエもそれらの書き込みを目にした。
『リリス族が市長の娘を渡せって言ってるんなら渡せばいいだけの話。それ以外の条件があるなら話は別だけど。』
『ヒント・市長の娘』
『市長の娘を渡せばいいって意見見たけど、自分もそう思う。戦争回避が優先でしょう。』
 そこで、限界が来た。アマーリエは終了した端末を額に当てて俯き、深く息を吐く。
(わかってるよ)
 大多数の意見は、アマーリエをリリス族に渡せばいいというものだった。戦争を回避し、市民を守るためには、そうしなければならない。選べるのはいつも一つだけ。選ばれるのは世界で、アマーリエではない。
「……わかって、いるんだよ…………」
 けれど心が叫ぶのだ。
 都市のために結婚して花嫁になったように、今度は戦争を避けるための供物になる。
 ――私は自分の居場所を決めることすら許されないのか。
 しかし強固に反対する父と、リリス族の言い成りになりたくないと考える市長たちによって、リリス族に引き渡されるのはアマーリエかコウセツのどちらかになった。市長たちはジョージほどこだわりがなかった。どちらが残ろうとも利用価値はある、とボードウィンが言った。
「どちらかというと、私は突然変異したアマーリエ嬢の体質についてもっと詳しく知りたいのだがね?」
 産み月間近で昏倒したアマーリエは、そのまま帝王切開でコウセツを出産した。コウセツは一時保育器に入れられたもののすぐに元気になったが、不調を起こしていたアマーリエはその後多数の検査を受けさせられたのだ。そのとき、ほとんどの項目におかしな数値が出たという。たとえば、極度の貧血が翌日の検査では正常値に戻っていたり、白血球の数値が飛び抜けて高いがその他の異常は認められなかったり、未知数の酵素らしきものが見つかったり、と研究者が大喜びするような内容だ。
 リリス族とヒト族の混血であるコウセツは、リリス族のような長寿を獲得する研究を発展させられると期待されている。本音としてはどちらも手元に置きたいが、いま戦争を始めようものなら市民からの反発は必至だ。自分たちの足場を崩されないようにするならば片方で妥協しよう、ということらしい。
「リリス族の人々の感情を考えると、アマーリエ嬢よりも後継ぎの方が欲しいと考えるのではないかな」
「ならそれを結論に持っていく方向で調整しましょうか」
「もしリリス族が譲らなかったらどうするんですか?」
 話がまとまりかけたところで、エブラが声を上げた。
「彼女と子どもを返せと押しかけてきたんですよ。そう簡単に退くとは思えません」
「だからと言って、戦争をしてまで取り戻そうとはすまい。リリス族長はそこまで愚かではないと聞いている」
 ボードウィンが薄く笑って、同意を求めるようにジョージを見た。言葉少なに市長としての役割に没頭する父は、まるでアマーリエの反応から目を背けるようだった。
 だが市長たちの予測は正しい。キヨツグはとても賢い人だ。何が大事か、ちゃんとわかっている。アマーリエが何を選ぶかも知っている。危険を冒してコレット家まで来てくれたとき、理解して、身を退いてくれた。だから今度も、きっと。
 そう、思って、いたのに。

 交渉決裂、進撃を開始する、などという耳を疑う言葉が発せられて、これは夢なのではないかと思った。それもとびきりの悪夢だ。それよりも前から続いていた、アマーリエを交えたジョージとキヨツグのやり取りは、予想を超えて私的なもので、市長たちも状況を収拾できずにいた。そうして、これだ。無意味なやり取りは飽きたとばかりに、キヨツグは背を向ける。
 わかっているのだろうか。そんなことをすれば、キヨツグは暴君や暗君の謗りを受ける。個人の感情で戦争をし、多数の命を奪った非道な人物として記録されてしまう。リリス族の正統な長であるという声の高まりは、あっという間に怨嗟で塗りつぶされていくだろう。
「止めて――!」
 そんなのは嫌だ。絶対に、嫌だ。
 絶叫し、走り寄ってキヨツグの腕を強く掴む。
「どうし、どうして」
 恐怖のあまりがちがちと歯の根が合わず、感情の高ぶりが言葉を縺れさせる。
「どうして、そんなことを言うんですか!? どうすればみんな納得してくれるのか、犠牲が少なく済むのか考えたのに。私一人でどうにかなるのなら、そうするのが一番なんです。そうでしょう、違いますか!?」
「……なら何故泣く」
 意味がわからずしがみついたまま頭を振る。
「泣いていません! ここで泣いたって……」
 泣いたって――どうなるのだろう、と疑問が湧いた。
 その不意を突くように、覚えているか、とキヨツグが言った。
「……私はお前に、笑っていろ、と言った。だが、ずっと笑ってくれとは言っていない」
 激情を迸らせた人とは思えないほど静かな声が、アマーリエの胸に染み渡っていく。あれほど巧みに強く凍らせていたはずの心が、すでに溶けてしまっているのを自覚した。多分、キヨツグを一目見たときから、心臓は熱を持ち始めていたのだ。
「……私たちは、政略による婚姻で夫婦となった。だが、いつからか私の心の半分はお前のものになっていた。お前がいなくなることは、心を失うことだった。お前もまた、そうではなかったか」
 鼓動が、目覚めを促す。雪解け水のような涙を零さないように唇を噛んで耐えた。
 この人に出会った。恋をした。偽れないほど思いは育った。
 だから、自分を引き換えに愛する人を守れるのなら、惜しくはあっても後悔はないと思った。幸せになりたいと叫んだことは忘れていないけれど、それよりも大事なものがある。この人がいつまでも穏やかに生きられること。それを守ることが私の願い。だから、寂しくない。寂しくなんて、ない。
「私、私は、市長の娘で……」
 涙を飲み込んで訴えた。
「リリスの敵です。私の父が、ヒト族が、あなたたちを」
「……それはお前の罪ではない」
 優しくしないで。必死に頭を振る。言わないで。どうか。言わないで。
 望んでしまわないように、どうか。
 泣いたって、何も変わらない。泣き叫んでも、世界は重く、アマーリエ一人では到底代えられない。涙を流したところで海に清水を一滴落とすのと同じだ。一雫の涙を選んだところで渇きを癒せるわけでもない。無価値に等しい。だから、泣かない。
 だが、アマーリエの頬を、涙を拭うように触れる手がある。
「……泣いてくれ」
 はっと顔を上げたそこに、宝珠のような黒い瞳がある。
「……かつて笑ってくれと言った。だがいまは、泣いてほしい。苦しければその苦しみを、怒りを感じたならその怒りを、私に与えてくれ。すべて、受け止める」
 睦言のような甘やかしの言葉は、人々の行く末を決める会談の場にふさわしいものとは、まったく思えなかった。厳しい視線を向けている市長、市職員。彼らが動かぬよう睨みを利かせているヨウ将軍やユメ、武官たち。何を考えているかもうわからない父親と、そこから視線を外さない母。脳裏には『市長の娘を渡せばいい』という市民の総意とも言える言葉が回る。込み上げる思いや言葉を封じ込めて、無心に彼を押し退けようとしたけれど、力が出なかった。片腕で赤ん坊を抱えているから尚更だ。
 駄々をこねるように身体を揺らすアマーリエをコウセツごと、キヨツグが抱く。
「……もう、大丈夫だ。一人で立たなくていい。一人にはせぬ。一人で一つのものだけを選ばせはしない。お前も、私も、私たちの子も、一人にはならない」
「――――」
 あんなに泣かないと決め、切に願ったというのに。
 その瞳と言葉だけで涙はあっという間に頬を滑り落ちていく。頬を包むキヨツグの指に触れて、また薄く溶けるように。顔を伏せることも覆うこともできなければ、その意思も消え失せた。思いは、とめどなく、涙となっていく。互いの温もりと呼吸を感じる。心が、近くにある。だからもう何も見えない。キヨツグの温もりと瞳だけがアマーリエの世界のすべてになる。
「一人は……嫌です……」
 真実が、溢れた。泣いているせいで、決して可愛くも美しくもないだろう歪んだ顔の、震える唇から。
「……うん」とキヨツグは答える。
「喧嘩して、仲直りできないのも……」
「……うん」
「一生別れ別れになるのは……っ」
「……ともにいる。いつまでも」
 その瞬間、アマーリエは声を上げて泣いた。
「……さびしかった。寂しかった寂しかった寂しかった……っ!」
 大声で。羞恥も捨てて。響き渡るほどに。
 両親の思いも、祖母の教育も、愛だとわかっていたけれど、それはアマーリエをいつも一人にした。その愛は、家族として、大人としての義務によく似ていたからだった。そのうち気付いた。変わらないものなんてない。絆はいつか途切れて、別れは必ずやってくる。
 ――そうなったら寂しいでしょう? 一人で生きる方が自分に優しいでしょう?
 自分自身に言い聞かせられて残ったのは、頑なになった心。誰にも助けを求められず、大丈夫としか言えずに微笑む私。
 でも、本当はずっと言ってほしかった。
 一人にはしない。諦めなくていい。本当に欲しいものを「欲しい」と言っていいのだと。
 涙の視界に、かすかなキヨツグの微笑みを見た。彼にはわかっていたのだ。アマーリエの本当の望みとは、寂しい気持ちを受け止めてくれる誰かが側にいてくれることだった。
「……愛している」
 涙が止まらないせいで、喉が塞がって名前が呼べない。なのにキヨツグはアマーリエから離れていこうとする。追いすがろうとしたとき、すぐ傍らにあった影とも呼ぶべき無数の人の顔、声、視線が足を絡め取る。絶対逃さないとでも言うように、アマーリエの奥深くまで強く縛める。
 感情に流されて、都市を危険に晒すのか?
 お前一人の身勝手が、多くの人を殺すのだとわかっているのか?
 望んではいけない。世界よりも大切なものはお前ではない。
 数歩下がったところで、キヨツグは厳しく一喝した。
「――来い!」
 名前を、呼んで。
 抱きしめて。
 キスをして。
 一緒に眠って。
 望むのはただそれだけ。あなたはそれを叶えてくれるというの?
 やってきたこと、出来なかったこと、多くの後悔、残していかなければならないもの、様々な事柄が頭をよぎった。けれど、こうして両手を広げて待っているキヨツグを前にしたとき、真っ先に浮かんだものがあった。
 そしてアマーリエは選ぶ。
「――キヨツグ様!」
 この人が欲しい。
 刹那見えたそれが、感情も理屈も超えたところにある最も大切なもの。
 キヨツグは、飛び込んできたアマーリエと腕の中のコウセツをしっかりと抱きとめた。コウセツは涙の残る顔をきょとんとさせて、覗き込んだアマーリエとキヨツグを見た途端、嬉しそうに嬌声を上げた。一生懸命に手を伸ばし、足をばたつかせて、こちらを掴もうとする姿に、命の重みを感じてアマーリエはまた涙を流した。
「ごめんなさい……ごめんね……」
 せめてこの子だけは、と思ったのは間違いだった。出産して、少しずつ一緒に過ごす日が増えていくと、コウセツの存在はアマーリエの希望になった。だからリリス族の宣戦布告の後、市長たちの話し合いの場に連れてこられて都市の結論を聞かされたとき、それならばいい、と思ったのだ。
 けれど、無邪気に笑うこの子の、なんて可愛いことだろう。
 コウセツは、キヨツグに抱かれると、ますますご機嫌な笑い声を響かせた。
「……良い子だ」
「元気すぎて困ります。どっちに似たんでしょうね」
 この子を喜ばせたい。幸せにしたい。アマーリエがキヨツグにされたように、何度となく許し、愛し、想っていたい。そう願うと、こんなにも離れがたい。
「恋をするって、生まれた愛を渡したいという気持ちなんですね」
 ふと感じ入った呟きが漏れ、どこか驚いたようなキヨツグの視線に、つい赤面した。なんだかとても恥ずかしいことを言ってしまっている。嘘偽りのない言葉だったけれど、少し気取って聞こえたかもしれない。
 けれどキヨツグは、恥じ入るアマーリエを愛おしげに見つめて、なかなか視線を外そうとしなかった。
 いたたまれなくなったアマーリエは、ふと背後を振り返った。アマーリエの選択を苦々しく思っている者、苛立っている者、どう反応していいのかわからないでいる者たち、様々な受け止め方をする人々の中、ふと音もなく動き出す人物に目を留める。
 第三都市のエブラが、スーツの内側に入れた右手を取り出すところだった。口元を忙しなく動かして何かを呟きながら、するりと抜き出された黒い銃身にアマーリエは目を見張る。咄嗟に、身体が動いていた。
 アマーリエの動きに気付いていたキヨツグだったが、抱えているコウセツのことを考えたのだろう。動くのが遅れ、その一瞬の素早さはアマーリエが優った。二人を押し出し、背中に庇った瞬間。
 高く突き抜けるように銃声が上がり、世界は、沈黙した。

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