<<  |    |  >>

「――誰が一生ひとりでいるって?」
 にやにやした声とともに、テーブルに影が差した。
 あらと言って手を挙げたのはオリガとリュナで、キャロルはにこりとし、ミリアはぷうっとチークで染まった赤い頬を膨らませた。
 そこにいたのは上級生の男子学生たちだった。研究科目で一緒になってアマーリエたちと知り合った。顔が広いらしく知人が彼らを知っていることも多いため、たまにこうして声をかけてくるくらいには交流がある。
 だがにやにや声の彼、ノルドとミリアの相性は最悪で、このときもミリアは喧嘩腰だった。
「なぁによ。文句あるわけ?」
「いいや? 女同士一生一緒にいるっていうのもオイシイじゃんと思ってさ」
 ミリアが立ち上がり華奢な肩を怒らせた。
「あたしとアマーリエはプラトニックなんだから! あたしはともかく、アマーリエに下品な想像したら許さないからね!」
 だがノルドは彼女のそんな反応が面白いのだと、ミリア本人以外の全員が知っていた。だからからかうのもいい加減にしてあげたらいいのにとこっそりため息をつく。声に出さなかったのは、アマーリエはノルドのことが苦手だからだ。
「アマーリエ、元気?」
「ルーイ」
 やあと微笑むアイドルのような甘い容姿の青年は、社会学部に属している。声や言葉の調子が穏やかなので、アマーリエもあまり構えずに話ができる先輩だ。
「ここ、座っていい?」
「もちろん。どうぞ」
 ルーイは笑顔になって席に落ち着いた。ノルドとミリアはまだ言い合っているが、話題は何故かダメ男の話になっていた。
「ノルドも飽きないね。本当にミリアのことが気に入ってるみたい」
「小学生みたいだよね。あの二人を見ていると、平和だなあって思うよ」
 二人に聞こえないように小声で言葉を交わす。
 ルーイは平和だと表現したけれど、それはこの大学ひいては都市という小さな世界の中だけの話だ。
 四つの都市とその周囲の草原を少しばかり国として有しているヒト族は、北部でモルグ族と戦っている。防衛を敷いているのは国境防衛隊だ。現代において兵役は課せられてはいないが、俸給が良いため志願する者は男女年齢を問わず多いらしい。一方で大学に通える、それも医学部となると学生のほとんどはそれなりの身分に属している者たちだった。オリガは両親が経営者だし、ルーイは区会議員の息子、アマーリエも似たようなものだ。
 だから本当の意味での平和という言葉を、使う資格はないのだと思う。
「飲み会するんだって?」
 思考を振り払ってアマーリエは笑顔を貼り付けた。
「オリガの冗談だよ。食事会なら好きなんだけど。私、お酒飲めないから」
 都市において飲酒喫煙は十八歳からと法律で決まっている。しかし旧暦時代からの風習を引き継いだのか、成人は二十歳とされていた。
「飲み会は嫌い?」
「……得意じゃないの」
 そういう席は、いつもお酒が飲めないからと断っている。一度「苦手だから」と言ったとき、それを克服してあげようと引っ張り出されていい思いをしなかった。
「僕はその方が嬉しいな。アマーリエにはそういう席に行ってほしくない」
 アマーリエは目を瞬かせた。その言葉にはいったいどういう意味が含まれているのか、心なしかルーイは自信を浮かべているように見える。
「アマーリエ、よかったら今度、」
 ぶぶぶぶぶぶぶ、と忙しない音が割って入った。
 腿が震えてアマーリエが飛び上がったので、その場にいた全員の注目を集めてしまった。
 鳴ったのはポケットに入れたままの携帯端末だった。画面を確かめると、着信と『父』の表示がある。
「……パパ?」
 ルーイを窺うと苦笑まじりに「どうぞ」と言われる。
 こんな時間に電話なんてと思いながら席を立って静かなところに移動する。通話ボタンを押すと、父の声が反響らしき音を混じらせて聞こえてきた。
『もしもし、アマーリエ?』
「どうしたの、父さん。何かあったの?」
『私の天使が誰かに奪われてしまう前に、今日の夕食の約束を取り付けてしまおうと思ってね』
 めずらしい。父は毎日帰宅が遅く、帰ってこない日も度々ある。夕食を一緒にするなんてことも久しぶりだ。唯一の例外を除いて……と考え、そうかそのせいかと思い至った。でも今年はずいぶん早い。
「予定はないから大丈夫だよ。どこで待ち合わせ? 母さんに連絡した?」
『大丈夫、いまからするよ。それじゃあ、学校が終わったら市庁舎まで来てくれるかい? バスかタクシーでおいで。もちろん誰かに送ってもらうのでも構わないけれど、そのときはパパに紹介しておくれ』
「今日は五限までだから、四時半以降に学校を出るね。それと、いつも言うけど私にそんな人はいません」
 電話の向こうで父は笑った。安心したのだろう。いつもアマーリエの答えが同じであることを期待している節があった。
 じゃあと言い合って通話を終了する。
 席に戻るとルーイが知りたそうにしていたので、父からの着信で夕食の誘いだったことを話した。
「じゃあ、僕が車で送るよ」
「えっ、そんな。いいよ、大丈夫。タクシーを使うから」
「いいんだ、送らせて。今日は車で来てるから。買い物に出かけようかと思っていたんだけど、君を送れるなら僕はとてもツイてる」
 そういう、思わせぶりな台詞がとても似合うルーイだった。
「授業が終わったら駐車場に来て。それじゃあ僕は授業に行くよ。また後で」
 そう言って去ってしまう。断りきれず、彼に送ってもらうことになってしまった。
(車で二人きりだけど、ルーイなら大丈夫かな……)
 ふと気付けば周囲の喧騒は和らいでいる。時計は講義開始の十五分前を指していて、すでにオリガとリュナの姿はなく、ミリアとノルドたちもいない。アマーリエは急いでサンドイッチを頬張った。
「みんなは?」
 次が空きコマのキャロルは自習のために教科書を広げている。
「あなたたちの邪魔をしたくないから先に行くって、行ってしまったわ」
「邪魔? 何の?」
 キャロルは微笑むだけで教えてくれない。
「私は次空きだから。アマーリエは早く行ったほうがいいんじゃない?」
 勘違いしてほしくないんだけど、と思いながらも頷いた。
 食器類を返却した後、荷物を手に食堂を出る。
 授業前の廊下は移動する学生でいっぱいだ。教室に行けばすでに席の半分が埋まっていた。目があった顔見知りに手招きされ、近くに座って教科書を開いていると教授がやってきて講義が始まる。
 昼食後で眠気と戦いながらも必死にノートを取り、残り一コマの授業も終わって、時刻は四時二十分となっていた。ルーイはもう駐車場で待っているかもしれない。
 ふとクラブハウス棟が目に入り、そこを横切れば駐車場の横手に出ることを思い出して足を向ける。花壇をいくつかまたぎ越しながら行儀が悪いなあと後ろめたく思っていると、そういうときに見つかってしまうのだ。
「こら! 見たぞ!」
 ぎくっと身を強張らせて声がした建物を仰ぐと、二階の窓から中性的で凛々しい顔立ちの女学生が笑って手を振っていた。
「なんだ……エリーナ先輩」
「なんだってなに、なんだ、って。私の存在はそんなにどうでもいいわけ?」
「そういう意味じゃないです。びっくりしたけどよく知っている人だったってわかったら、『たいしたことじゃなかった』って安心するでしょう?」
 開発研究会の会長であるエリーナは、男性ばかりのその会の紅一点であり異色の人物だ。何を考えているかわからないところがあって『人間ってどう思う?』などの質問を不意に投げかけてくるので、会のメンバーは閉口しているらしい。
 しかし入学したての頃、学校案内でクラブハウス棟を見学していたアマーリエを何故かとても気に入ってくれたらしく、以来よく声をかけてくれるようになって交流がある三回生だった。
「ねえちょっと寄ってかない? りんごがあるよ。矢が刺さってるけど」
「すみません、待ち合わせしてるんです。また今度お邪魔させてください。それと、食べ物は粗末にしちゃだめですよ」
「あらら。ふられちゃったか」
 くすくす笑う彼女の顔は、半分金色に染まっていた。
 柔らかな微笑のまま、エリーナは夕日の方へと顔を向ける。釣られてアマーリエも振り返った。
 レトロな大学校舎の屋根の向こうで輝く夕日が煙って見えるのは、この街に漂う排気ガスのせいだろう。草原のただなかにある都市の空はいつもどこかくすんでいる。
 薄ぼんやりした夕焼け空の下、大学と駅を結ぶ直通バスがエンジン音を響かせて走り去っていった。
 夜を思わせる冷たい風が吹き、空気の匂いを嗅いで、曖昧な空と輝く夕日を見つめていると、ここに立っている自分が心もとないような気がしてくる。この先にやってくる遠大なものを感じ取りながら、怖いような、けれど心待ちにするような高鳴りが心の奥底から予感として響いてくる。
 春はまだ遠い。空の色は曖昧だ。けれどもうすぐ――『それ』が来る。
(私……何考えてるんだろう)
 馬鹿馬鹿しい想像を自覚してわずかに赤面する。思わせぶりに『それ』なんて言葉を使って、感傷的すぎる。
 光が建物の向こうに消えていく。腕時計の針は午後四時四十五分から、四十六分へと移動した。ルーイを待たせたままだったことを思い出したアマーリエは、急いでエリーナに呼びかける。
「先輩すみません! 私、もう行きます」
「アマーリエ」
 走り出しかけたそこを呼び止められた。
 もう一度仰いだエリーナの顔は、今度は影になってよく見えなかった。
「あなたはさ、もし自分が『助けられる力』を持っているとしたら、助けるかな?」
「…………?」
 質問の意図がよくわからないが、それはエリーナにとっていつものことだ。彼女はゲーム的な問いかけであっても本気の答えを求める。だからわからないなりに考えて、言った。
「……助けられるんなら、助けると思います」
「その力が、自分の大切なものと引き換えにして発揮されるものだとしても?」
 アマーリエがたじろいだのがわかったのだろう、口調を緩めてこう続けた。
「あなたの力は大勢の人々に効果をもたらすの。あなたの大切なものを犠牲にするだけで一つの都市が助けられるとしたら、あなたはそれを犠牲にして、見たことも聞いたこともない、知り合いでもない人やものを助けるだろうか?」
 小説やテレビゲームに登場する選択肢のようだ。
 物語の中だったなら、主人公がそうやって自分を犠牲にすることを選ぶのだろうと思う。それがきっと美しい。
 でもアマーリエは主人公ではないから。
「……私だったら、多分、仕方なく、自分を捧げると思います。嫌だって言って、泣いて、逃げて、恨んで、苦しんで……でも仕方ないんだって心を殺して、これが正しいんだって自分に言い聞かせていくんだと思います」
 こうしなければ大勢が少ない、だから仕方がない。都市が危機にさらされているところに直面して、犠牲になればそれらが助かると言われれば、見殺しにできるはずがないと思うのだ。どうして自分が、という恨みと憎しみを抱くだろうけれど、きっとアマーリエはそうする。
「そうだね、仕方がないと思うよね」
 エリーナが苦笑まじりに答えた。
「……でもそれは、まだあなたが一生大切にしたいものに出会っていないからだね」
「先輩? 聞こえませんでした、なんですか?」
 アマーリエが声を張ると、エリーナはひらりと手を振って早く行くよう促した。
 いいのかなと迷いつつも、会釈して駐車場へと足を向けるが、やっぱり気になって足を止めた。
「何か困ってるなら言ってくださいね。力になりますから!」
 エリーナが一瞬息を飲み、その強張りを解くように笑った。
「……あなたの力を借りるとなるとよっぽどのことだよね。大丈夫だよ、アマーリエ。あなたの負担にはならないから」
「先輩」
「たいしたことじゃあないんだよ、アマーリエ。自分の未来を決めるのは、結構簡単なこと」
 学舎を震わせるようなチャイムが響き渡る。
 エリーナはひらひらと手を振って、まるで話を打ち切るように部室に引っ込んでしまった。
 待たせているルーイのこともあって、アマーリエは諦めてその場を離れた。エリーナの深刻そうな様子は気になるけれど、明日また大学で顔を合わせて話を聞けばいいとも考えたからだ。

<<  |    |  >>



|  HOME  |