―― 第 2 章
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 脱いだジャケットをハンガーにかけてから、ベッドに倒れ込む。
 スプリングが軋む音が消えると、明かりをつけていない自室は暗い静寂に包まれる。このまま眠っても仕方がないほど、先週に引き続き忙しい一週間だった。
 エリーナと別れてから市庁舎に行って父の元へ出頭したのが月曜日。それからは綿密な健康診断とカウンセリング、衣装合わせに追われる日々だった。詳しい事情はわからないが、スケジュールが詰め込まれているのはマスコミに知られないうちに送り出そうとしているからなのかもしれない。本人が直接関わらない準備はほとんど終わっているというのだから、そう遠くないうちにアマーリエは結婚することになるのだろう。
 この静かな家とももうすぐお別れだが、実感がない。
 駅に近い住宅区のマンションは、十二階のワンフロアすべてがアマーリエの持ち物とされている物件だった。管理人と監視カメラが設置されているのは普通のマンションと変わらないが、いまは階下に警備員が配置されているし、この部屋の向こうのリビングでは何かあったときのために、という名目で女性秘書官が待機している。そこを通らなければこのフロアから出ることはできないから、実質監視役だった。
 そのとき派手な電子音が鳴り響き、アマーリエは頭を動かしてハンガーに吊っていた上着を見た。ポケットの辺りで発行するのは着信ランプだ。あのメロディなら四人のうち誰かからのメールだろう。
 月曜日の講義を飛び出したその後オリガからトラブルを心配するメールを受け取っていた。それ以外にも姿を見ないからと、日が経つにつれて心配するメールが送られてきていた。
 さすがに一週間経ったのだし返信しておこうと、ベッドから起き上がって携帯端末を取り出す。そして、しばらくは学校に行けないこと、忙しいからしばらく連絡できないと当たり障りのない返信をすべてのメールに返し、再びベッドに倒れた。
「……『しばらく』って……いったいいつまでなんだろう……」
 呟くと馬鹿みたいに感じられて発作的に笑ってしまったが、すぐに萎んで消える。
 政略結婚。道具。生贄。馬鹿馬鹿しいような言葉の羅列に涙が浮かびそうになって、部屋を出た。一人は考えてしまうからだめだ。
 リビングでは秘書官が携帯端末の画面を睨んでいた。難しい連絡事項でもあったのかもしれない。アマーリエはキッチンに行き、コーヒーを入れると彼女の前にそっと置いた。
「ありがとうございます」
 事務的な口調で礼を言う彼女は、ビアンカ・トートという名前だった。見た目はアマーリエより五つか六つ年上で、すでにナチュラルメイクが板についた彼女は市長の秘書官というエリートなのだった。
「お砂糖はなしで、フレッシュミルクが二つ、でしたね」
 彼女は一瞬目を見張り、今度はどこか目を和ませた柔らかな声で言った。
「よく見ていらっしゃる。ありがとうございます」
 アマーリエは彼女の斜め向かいに腰掛け、紅茶をすすった。
 見知らぬ他人と一緒にいる生活も四日続けば慣れる。コーヒーの好みを覚えてしまうくらいの時間だ。
「……あの」
 めずらしく彼女から話しかけられてアマーリエは目を瞬かせた。
「はい、なんでしょう?」
「何か知りたいことがあるなら、できる限りお答えします」
 どういうことだろうと見つめ返すと、彼女は言った。
「私は秘書官なる前に、一年ほど異種族交流課で外交官の秘書をしておりました。リリス族のことも少しならわかります。これからお嬢さんにはリリス族について学ぶ機会を設ける予定になっておりますが、いまのうちに少しでも知っておけば、不安も軽くなるのではないかと思います」
「…………」
 確かに、アマーリエは結婚相手となるリリス族についてよく知っているとは言い難い。
 リリス族。人間でありながらヒト族とは比べ物ならない身体能力を持つという、騎馬と遊牧の民族。東の広大な草原地帯に暮らし、農業と畜産と繊維業に強い。様々な一族から長を選び、代表とする、ということくらいは、義務教育機関で学ぶ。
 記憶を引っ張り出しながらそれを話すと、ビアンカは頷いた。
「概要はそれで間違いありません。都市と草原の国境となるのは境界と呼ばれる巨大な壁で、これはリリス族が建てたものと言われています。第二都市の北東にあるコウリュウ河から、第四都市の南のホウ山まで続く、ロストレコード時代の遺物ですね」
「実際に見たことはないんですけど、越えると罪になるんでしたね。たまにニュースで捕まっている人を見ます」
「ええ。厚さは一メートル、高さ三十メートルはある巨大な石の壁です。崩壊している場所にはヒト族が鋼鉄製の門を作り、警備兵を置いて不法出入国を防いでいます。といっても森林地帯に近い北部はこの境界がないので、北部の巡回兵とモルグ族の目をかいくぐることができればリリス族領土への侵入は不可能ではありません」
 だから北部戦線では時々逃亡者が出るのだとビアンカは言った。
「境界を管理、維持するのは境界沿いに位置する領地を有するリリス族の領主だそうです。こちらも定期的に巡回を行い、不法入国者は見つけ次第、強制送還。逆に不法に都市に行こうとするリリス族は重い処分を受けます。裁くのは領主、あるいは族長です」
「領主がいるんですね」
「はい。都市と馴染み深いのは西方領主タント家の長ですね。都市とリリス族が対話を行うとき、窓口になるのはそのタント氏です。境界に近いところにある屋敷で何度か会合を行った記録があります。草原は広いですから、首都からの支配は行き届きません。各地の領主家の長が家長と領主を兼任し、その父母を長老として首都へ招聘し、私たちの議会のような役目を持つ長老会を作ります」
「へえ……!」
 近しいところにいないと聞けない話だった。
 ヒト族の都市は、第一から第四までの四つ。代表は市長で、定期的に四都市の市長が集まる会議を行っている。だが都市間では電波塔が立っているおかげで情報のやり取りが可能となっており、時々音声通話で会議を行うこともあるという。
 それを思うと、リリス族は不便な印象がある。
「機械を禁止すると決めているのも、長老会ですか?」
「詳しいことはわかりませんが、恐らく……。ヒト族の文明のものは使用しないという決まりがあるらしいと、私も聞いたことがあります。携帯端末もパソコンもありません。電波は届くようだと外交官が言っていましたけれど」
 古い文化を残したまま暮らしている、リリス族。
 アマーリエの頭の中では、映画のような民族衣装を着て馬を駆る人々と草原の光景が浮かんでいた。
「民族衣装は旧暦前の漢服を含んだ東装が近いようですね。料理は種類が豊富で比較的美味しいと聞きました。都市部の料理と遊牧している一族の料理は違うとか、強くてくせのあるお酒があるとか」
 お互い会話に慣れてきて、笑顔が出るようになった。アマーリエはビアンカにコーヒーのおかわりを尋ね、席を立つ。
 ポットで湯を沸かす音を聞きながら、少し冷静になった。異国の話を聞くのは楽しいけれど、そこが自分の国になるのかと思うと気が重くなる。
 新しいコーヒーを持って戻ると、アマーリエはビアンカを見つめて尋ねた。
「私の、……結婚相手って、どんな方かご存知ですか」
「すみません、私は知らないんです。王……正しくは族長ですね。族長は高位外交官にしかお会いにならないようです。姿を見せるときは必ず顔を隠しておられるとか。でもとてもやり手だと聞いています。異例の若さで族長として就任なさったそうですよ。でも年齢は誰も知らないんです」
 その理由は、アマーリエもビアンカも察していた。
「人間ではありますがリリス族は様々な面でヒト族とは異なります。お嬢さんもご存知でしょうが」
「――総じて、長寿」
 アマーリエの不安を押し固めた呟きが落ちた。
 リリス族は、寿命が百五十歳という長寿種族だった。それこそが同じ人間としながらも彼らを異種族と呼び表す理由でもある。
 人間が百五十年生きる世界は、時間の流れが違うだろう。見えるものや感じ方が異なるところだ。そこには高いビル群も舗装された道路も走り行く車もなくて、両親も友人もいない。
 ぐっと胸が苦しくなった。眼前たる事実は強く心臓の壁を叩く。
「……申し訳ありません。知ることで安心する部分があるかと思ったんですが、逆に不安にさせてしまいましたね」
 悲しげにされてアマーリエは慌てた。
「あっ……あの、大丈夫です。知らないままでいるより知っていた方がいいですから。こうなると、トートさんが見たことがないっていう族長様の顔を見なくちゃって気持ちになったくらいです」
 友人に対するようにおどけてみせたおかげで、ビアンカは笑顔を見せ、アマーリエはほっと微笑んだ。いまは笑っていても、これからの不安が解消されたわけでないことは、ちゃんと自覚していた。

 土曜日にようやく自由時間が与えられ、アマーリエは母の診療所に行きたいとビアンカに頼んだ。彼女はしばらく上と連絡を取り合っていたが、やがて許可する旨を告げた。
 護衛と運転手付きの車を走らせ、住宅区の一般層が暮らす地区に進んだところにあるのが、母アンナの病院、アーリア診療所だった。
 清潔感のある一戸建てのような建物で、白い三角の屋根に同じ色の太めの窓枠が特徴的の可愛らしい外観だ。
 中に入ると受付の看護師の女性がこちらに気付いた。
「あら、まあ、アマーリエちゃん。どうしたの? 学校お休み?」
「はい。こんにちは」
 土曜は午前診と夕方診なので、昼はみんな別の仕事をしたり休憩をとったりしている。アマーリエの来訪に気付いて何人かが顔を出してくれた。そんな風にして、親しみのある看護師たちが勤めているので、ここはこの辺りの子どもやお年寄りのかかりつけになっているらしい。
「アマーリエちゃん、大学楽しい? 彼氏できた?」
 にやにやと笑いながら尋ねられ、まさか! と大げさに肩を竦めてみせる。
 アマーリエの表情が剥がれ落ちそうになっていることには気付かず、看護師は唇を尖らせた。
「ええー彼氏作りなよー。そういうのって大学の醍醐味だよー。あーあ、私も恋したーい……」
「彼氏と同棲中なのに何言ってるんですか」
「あーそれねー……」
 もごもごと彼女は言葉を濁した。どうやら微妙な状態であるらしいと察し、話題を変える。
「母はいますか?」
「私はここよ」
 振り返ると白衣姿の母がやってきたところだった。
「私たちは個室にいるから、何かあったら呼んでちょうだい」
 はぁいという看護師たちの返事を聞くなり、密室になるカウンセリングルームに引っ込んでしまう。アマーリエは母が素っ気ない分、丁寧に失礼しますと彼女たちに頭を下げて、その部屋に入った。
 ミニキッチンがある部屋で、母はお茶を入れていた。テーブルにつくと小花模様のティーカップを置かれる。アマーリエが来たときによく使う食器だった。
「ありがとう」
 赤いお茶には砂糖を一つ。母はインスタントコーヒーを飲んでいる。その温度に合わせたせいか、紅茶は舌が痺れるほど熱い。
 ちびちびとお茶をすすっているのを、母が見ている。
 目が合うと、軽く首を傾げて微笑まれた。
「準備は?」
 ここに至っても効率を重視する母の問いかけに、アマーリエは小さく笑った。
「一応今日で終わり。来週、行くの」
「落ち着いているのね」
 静かな言葉に微笑むことができたのは、多分どうにもならないと理解しているからだ。
 それでも母の言葉はアマーリエのなけなしの覚悟で支えていた心を揺さぶるには十分な力を持っていた。
「……ママ……」
 六歳のときに離婚して家から出て行った母を、アマーリエはいまでも時々ママと呼んでしまう。同じように父をパパと呼ぶこともある。そんなときアマーリエの心は小さな子どものように頼るものを探して泣きそうになっているのだ。
 けれどいまは涙なんで零せない。唇を噛み締めて目を伏せる。
 じっとアマーリエを見つめる母は、決して救いの手を差し伸べてはくれないのだとわかっていたからだ。
 それでも思ってしまった。
「パパもママも、私を売ったの?」
「あなたがそう感じるのなら、そうなんでしょう。ジョージはあなたを利用し、私はあなたを助けられない」
 母は顔を歪めると、タバコに手を伸ばし、火をつけた。
 ふうっと煙を吐き出して呟く。
「あなたの父親は、自分の愛したものしか見ていないのよ。あの人が愛しているのは、自分と、都市と、マリア・マリサお義姉様」
 そこにアマーリエは入っていない。
 傷付きはしたもののショックではなかった。きっとそうなのだろうとわかっていたからなのだろう。
 父は、アマーリエを通して死んだマリアを見ている。
「……だから、離婚した?」
 愛していると言いながら、その愛情はアマーリエではなくもう死んでしまった人に注がれているのだ。だからアマーリエはいつの間にか諦めていた。
 父から家族の愛をもらうことはない。そして私も、あの人に愛を返すことはないだろう。そう思ったから、母は離婚したのだ。
 母は薄く笑って答えなかった。煙草の灰を灰皿に落とし、息を吐く。
「ジョージが何を考えているか私にはわからない。でもたとえ血のつながりがあったとしても、彼を信じ切ってはいけない。反対に血のつながりがなかったり種族が違ったりしてしても、信じるに値しないわけじゃない。これから会う人の言葉や態度に気をつけるのよ。誰が敵で誰が味方なのか、私には判断できないから。…………ごめんなさいね」
 囁くように告げられた謝罪は、何もできないことに対するものだった。
 抱きしめない。肩を抱くこともしない。徹底的に他人として距離を置くことは、離婚した後の母なりのけじめのつけ方だと知っていた。この人は自分の選択を後悔していないが、娘には申し訳なく思ってくれている。
 ただそれだけのことに少しだけ救われた気持ちになりながら、アマーリエは首を振り、ぬるくなった紅茶を飲み干した。

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