―― 第 3 章
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 一人きりで馬車に揺られていると、気持ちが少しずつ落ち着いていくのがわかった。
 もしアマーリエが心の整理をつけられるようにと、付き添いをつけていないのなら、よほど気のつく人がいるのだろう。誰かに慰められたり、励まされたり、気持ちを楽にしようと気を使ってもらっても、それがリリス族の人間であるというだけできっとアマーリエの心は荒れていた。
 複数人で使うのだろう馬車の中は、ぎっしりとクッションが詰めてある。横になることもできそうだ。膝掛けまで準備されており、もしかして行程が長いのだろうかと想像する。
 リリス族の国のことは機密に値するらしく、詳しいことはほとんど教えてもらえなかった。これから向かう王宮の場所も知らない。
(どのくらいかかるのかな……王宮……王様がいるんだっけ……)
 結婚相手はその王様だ。
 いままであまり考えないようにしてきたが、どんな人物なのだろう。わかっているのは、顔は誰も知らないこと、だが若くして統治者になるほど有能ということだけだ。
 アマーリエの想像する『王様』は、童話に出てくるような小太りの小さなおじさんだ。髭を蓄えて王冠を被るという旧暦西洋のイメージだった。だが新暦に生きる異種族リリスの王様なんて、全然想像できない。
 何気なく目をやった馬車の扉には、小さな窓がついている。内側には覆いがかけられているが、捲れば外を見ることができるだろう。
(リリス族の国を見てみたい)
 好奇心のままに、そっと覆いを捲ってみた。
 そこに広がっているのは冬枯れの丘陵、起伏のある地平線だった。
 本当に、何もない。道も建物も、何も。
 天球という言葉がふさわしいくらいに果てがない。もっと緑の野原を想像していたけれど、大地の色彩は茶色と薄黄色の斑だった。自然そのものの、誰も手を入れていない風景だ。
(……不思議だな、なんだか、見ていてほっとする……)
 最初に踏んだ地面の感触が柔らかだったのでそう思うのかもしれない。だがこの靴はいただけなかった。すっかり土で汚れている。
 並走する騎馬を見ると、乗り手は革らしきブーツを履いていた。衣装は襟の高いインナーに着物のようなものをまとって腰に帯を巻いている。さらにそこに金属製の胸当てと鰭がついたような鎧を身にまとっていた。スカートのようなそれは確か草摺と言っただろうか。そこに刀剣を帯びている。
 まるで時代劇のような格好だが、決してコスチュームではないし、儀礼用でもないだろう。それらを身にまとっているリリス族は自然体に感じられる。
 そうしていると、行列の足並みが不意に緩んだ。前方で列をなしていた騎馬がこちらに下がってくる。
「どうした、何があった」
「それが――」
 扉越しの会話に、アマーリエは聞き耳を立てた。


       *


「――前方から旗を掲げた小隊が来る、と? 何処の印か」
「はい。色は紺桔梗の貴色。御印は天の翼でございます」
 ユメは覆面の下で渋い顔になった。
 紺桔梗に天の翼の旗を掲げてくるとは、本物か。それとも偽りか。だが本物だとすればどういうつもりなのだと、この花嫁行列を指揮する者として訝しんだのだ。
 先遣としてその一行を確認して戻ってきた武官は、ユメの指示を待っている。周囲も困惑した様子だった。
 何にせよ、出迎えはせねばならない。部下たちに告げる。
「警戒を怠らず、お迎えせよ。襲撃でないとは限らぬ」
 リリスには稀に盗賊などの不届き者が出現する。さらにヒト族の花嫁を連れているいまはモルグ族を警戒してしかるべきだった。
 全員に待機を告げて、その御旗を掲げた小隊を待つ。
 ヒト族から花嫁を迎えることは前例にない出来事だった。しかもそれは閉じることで平穏を保ってきたリリス族が、国を開き、他種族と関わるという大きな歴史の一幕に相当する婚姻でもある。ゆえにそれを守る親衛隊の選抜は厳しいものであり、素行の良い者や能力の高い者があてがわれたが、恐らく誰もが意外だっただろう――国と一族を変えるその花嫁の、小さなこと。
(子どもかと見紛う身長や、白い衣装をまとった華奢な身体。不安そうな表情に、リリスにはない薄い色の髪と目の色……ヒト族とはあのように小さな方々なのか)
 親衛隊のほとんどは男性だ。そして花嫁の姿を見た者たちは、薄絹に隠された可憐な御顔を拝見したいと密かに夢抱いたようだった。若干浮ついた気配漂う親衛隊には、他者の来訪はいい薬になるやもしれない。
 やがて前方から騎馬小隊がやってきた。彼らもまたしきたりどおり覆面をつけており、確かに掲げられた旗には、紺桔梗の地に天の翼というリリスの紋があった。ユメは見覚えのある青毛と黒鹿毛の二駒を確認して、呆れ返り、次に義務を思い出して先頭へと馬を走らせた。
 二駒を迎えると、馬を降りてその場に膝をつき、頭を垂れる。それに習って、行列を担う者たちも一斉に膝を折った。長く続くそれを見遣って、青毛の騎乗者が短く言う。
「不服か」
 わかっているのにどうしてと、ユメはため息を禁じ得ない。
「はい。ご承知おきの通り、不服にございます。……オウギ、何故お止めしなかったのか」
 ユメは覆面の下からでもわかるほど鋭くした目を、黒鹿毛を操る男に向けた。答えない。影として付き従う者の習いなのか、オウギはほとんど口を開かない。どうせ今回も黙って従ったのだろう。
 だからユメは青毛の上の人を詰った。
「これは花嫁の行列にございます」
「知っている」
「いいえ、ご存知ありませぬ。お連れするのはただの花嫁ではございませぬ。これは我が真夫人となる御方の行列。乱すことあれば御咎めを受けましょうぞ」
「その咎めを与えるのは誰と心得る」
 事実を告げるだけの感情のない物言いに、ユメが無意識に怯んだ一瞬だった。
「――あっ……!」
 小さな声に驚いて振り返ると、馬車から白い薄絹が飛んでいくのが見えた。
 花嫁は窓から青ざめた顔を出し、風にさらわれてしまったそれを目で追っている。ユメが薄絹を取り戻すべく手綱を握ったとき、それよりも早く青毛が駆けた。
 土で汚れる前に薄い織りのそれを中空で掴むと、一転して花嫁の元へ向かう。次の展開を想像して、ユメは小さくため息をついた。


       *

 突然馬車が停まったと思ったら「止まれ」の掛け声が通り過ぎていった。アマーリエは何事かと前方を見ようとして、並走していた護衛に気付かれた。
「来訪者が来たとの由。問題ありませんのでご安心ください」
 アマーリエが窓を開けるとそう告げて、安心させるように微笑んでくれる。目で前を見るような仕草をしたのに釣られて身を乗り出したときだった。突如吹き込んだ風がベールを持っていってしまう。
「――あっ……!」
 飛ばされたベールの行方を追いかけていたから、素顔を周囲に晒したことに気付かなかった。
 突風が掴んだベールはすぐに飽きられて地面へと放り出されてしまう。
 それを中空で拾ったのは、青く光る美しい毛並みの馬に乗った人物だった。
 巧みな手綱さばきと身体能力で、身体の位置よりも低いところにあるベールを掴み上げたかと思うと、速度を落とさないまま反転し、こちらに近付いてくるので目を見張る。
 馬車の前で止まると馬は竿立ちになった。鼻息荒いそれを落ち着かせた人は、馬を降りるとこちらに歩み寄ってくる。
「っ!」
 次の瞬間、跪いた護衛たちが馬車の扉を開いたので、アマーリエは体勢を崩して転がり出ることになってしまった。
 咄嗟にドレスの裾を摘み、心もとないけれど確かな大地に降り立つ。
 風に舞い上がる裾と、わずかにほつれた髪を意識した。正面に立つその人の視線に背筋を改め、両手を合わせて真っ直ぐに立つ。
 見上げた相手は、かなりの長身の持ち主だった。先ほどの女性よりも更に高い。その全身は鍛え上げられており、男性らしい厚みがある。表に出ている目元は涼やかで、いまどき珍しい純黒の瞳だった。
 けれど形が違う。虹彩は縦に、月のように細くなっている。
 その切れるような眼差しに射竦められるのに耐えて、アマーリエは片方の指先をきつく握りしめ、唇を結び、何を言われてもいいよう心に壁を作る。
「……痛くはないのか」
「…………え?」
 きょとんとしてしまった。
 侮蔑や呆れの言葉をぶつけられるかと思いきや、いたわれるとは思わなかったのだ。
 その戸惑いに気付かないはずがないだろうに、彼は指先でそっとアマーリエの顎を持ち上げた。視線がゆるりと絡まった、と思った瞬間、豊かに響く声が言う。
「……そんなに噛み締めると、傷付く」
 顎を捕らえる指先が動き。
 唇を、なぞられた。
「――っ!!?」
「テン様――!!」
 親指の感触にアマーリエが硬直した瞬間、女性の怒声が轟いた。
 彼は悠々とした動きで手を離すと、宙に広げたベールをアマーリエに被せた。そしてアマーリエの手を取ってベールを押さえさせると、背を向けてさっさと馬に跨ってしまう。
 いったい何が起こったのか、理解が追いつかずアマーリエは呆然とする。
(顎を持ち上げられて、指が……)
「おっ、お戯れが過ぎましょう! 本来ならば、まだ目通りの叶わぬ方でございます! ましてや触れるなど……!」
 彼女はアマーリエに対するときとは異なり、本気で怒り心頭していた。言葉を詰まらせ、顔を紅潮させて震えているが、それを受ける彼の方はまったく気にも留めていない様子で、手綱をさばき、彼女を見下ろす。
「傷付けば痛かろう。そのような思いをさせるのは忍びない」
「当然にございます! わたくしとてそう思っております! ですが!」
「……どうぞ、馬車にお戻りください」
「お足元にお気をつけて」
 一方的な言い争いが始まろうかというところで、馬車の周りにいた護衛に促される。笑いを噛み殺すような、苦いような複雑な顔をしているのを見ながら、再び馬車の箱の中に収まる。
 扉が閉められれた後もしばらく声が聞こえていたが、やがて号令が聞こえ、行列が再開したようだった。揺られるまま、ぼんやりするあまり抵抗できずにクッションに倒れこむ。
「…………」
 ベール越しに唇をなぞっていた。
「…………っ!」
 指の柔らかさと爪の感触を思い出した途端、かーっと顔に熱が上った。アマーリエは俯く、ベールを深く被って真っ赤になった顔を隠す。
 声が出ない。いまさらになって暴れまわる心臓を身体の上から押さえつける。いまにも喉や胸から何かが弾けて飛び出しそうだ。
(ああ、あ、あんな! 恥ずかしいこと……!)
 礼儀正しいのがリリス族ではないのか。本当はあんなにスキンシップが激しい種族なのだろうか。夫でない人間が花嫁にあんな接触をするのは許されるのか。許されないだろう、だって女の人が怒っていたもの。
 けれど指の感触が忘れられない。
 少し触れた爪や、覆面から覗く漆黒の目。痛い思いをさせるのは忍びないと言ったそれが彼の行動理由だったのかもしれない。でも普通唇に触れたりするだろうか。
 頭を抱える。まだ心臓がうるさい。このまま逃げ出したくなるくらい、激しい。
 きつく目を閉じる。忘れることなんてできないけれど、そうしなければ彼の目と声がいつまでも蘇ってしまう気がした。


 次に目を開けたとき、馬車の中には眩い夕日の光線が射し込んできていた。
 いつの間にか眠っていたらしい。身体を小さくしていたため、肩の辺りが軋むように痛む。
(こんな状況でも眠れるなんて、実は私って結構図太いのかな……)
 単に限界が来ただけかもしれないけれど、それにしてもと自嘲する。
 窓の覆いを捲ると、空は残照で赤く、天から暗闇が降りてきていた。だいぶと長い時間移動しているようだ。馬車の中にいるアマーリエは快適だが、馬上の人々は大変だろうなと思った。それともこういうことが日常茶飯事だったりするのか。
(……するんだろうな、やっぱり)
 自動車もバイクも、自転車もないだろう。徒歩と動物、きっとそれがこの国の交通手段だ。
 都市の学校教育で課されている校外学習のおかげで農業区の牧場での乗馬経験があるヒト族は多い。それに加えて富裕層に属する者は、趣味や習い事として乗馬を嗜むことがある。アマーリエも子どもの頃に数度の経験があった。
(……あんまり乗ったことないけど、教えてもらえるものなのかな)
 騎馬民族のリリス族の王の花嫁がそんなことも知らないのか、と嘲笑われることになりそうだったが、役割から逃げないでいよう、恥ずかしくない人間であろうという意識はあるつもりだ。だからきちんと聞いて、ちゃんと覚えようと思っている。リリス族がどんな人たちなのかはまだ全然わからないけれど。
(自分一人で生きていけるだけの、知識と経験を積もう。でなければ私はここで死んだように過ごすだけになる……)
 そう考えたときだった。
 馬が派手に嘶くのが耳に届く。
「……! ――…………!」
「うっ!?」
 急に外が騒がしくなったと思ったら、馬車ががくんと大きく揺れて停まった。
 また何かあったのかと不安を覚え、窓を開くことはせずに覆いの隙間を覗こうとした。
「敵襲! 敵襲ーっ!!」
 聞き慣れない言葉があちこちで叫ばれている。
 意味を理解して血の気が引いた。
「……敵?」
 自分の理解が浅かったことを思い知る。異国の地であろうと犯罪者がいないわけではない。親衛隊という言葉が蘇る。その意味は、身辺を警護する兵隊たち、だ。
 日が落ちていく。周囲が暗闇に包まれようとしていた。この時間を狙ったのかもしれない。アマーリエの存在を知ってのことだとすれば結婚を歓迎しない何者かがいるということになる。とぐろを巻く不安が鎌首をもたげていく。
 そのとき思いがけない衝撃を受けて、箱が横転した。

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