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緩く波打つ黒髪をなびかせ、背筋を伸ばして歩いている彼は、何かを思案するように目を細めて、周りが話すのを聞いているようだった。後ろに人を従えることを当然として歩む様は。
(――王様、だ)
王者の歩みで、あの人はこのさきもずっと歩いていくのだろう。そう思わせる威厳があった。
急に、恥ずかしくなった。
姿見で自分の姿を見て喜んだのは、それがまだ普段着ではなく何かの扮装のように感じたから。自分で着替えもできず、乱れを直すこともできない。
女官たちは遠くにいる彼に向けて、膝を折り、頭を下げている。
アマーリエがただ一人立ち尽くしていたからだろうか。
あの漆黒の目がこちらを捉えた。
距離にして十数メートルだが、ここに立っているのがアマーリエとわかっているらしい。じっと視線を注がれて、アマーリエは居心地悪い思いをしながら、ゆっくりと頭を下げた。朝の挨拶の意味も込めて。
(……頷いた?)
視力が悪いわけではないが、さすがに距離があると近くで見るようにはいかない。けれど頷いたらしき動きと、その後まるで何事もなかったかのように歩み去る彼を見送りながら、アマーリエはぼうっとしていた。
(いまので、よかったのかな……)
「お声がけいただけませんでしたわね。残念ですわ」
アマーリエが視線をやると、みんなが説明してくれた。
「天様は毎日ご政務で忙しくしていらっしゃるのです。このリリスにはいくつもの氏族がいて、仲の良い氏族もあれば、先祖代々犬猿の仲という者たちもいて、煩雑なのですわ」
「わたくしたちのように街で暮らす者の他に、遊牧を生業としている者もおります。ほとんどは王宮にて采配しておられますが、ときには氏族を訪問することもございます」
「朝議から始まって夜は日付が変わるまで。天様だからこそなし得る仕事ぶりです。ですから真様には是非とも、お疲れになっている天様を癒していただきたいですわ」
「は、はい……?」
疲れを癒す。お茶を入れるとか、甘いものを準備するとか、マッサージとか、だろうか。
「その仕事ぶりが臣下に必要以上の負担をかけていると、いい加減ご自覚いただきたいものですがね」
男の声が割り込んで驚き振り返ると、同時に女官たちは波を引くようにして廊下の隅に寄り、頭を下げた。アイだけがアマーリエの半歩後ろに控え、囁く。
「イン家のカリヤ長老です」
「お初にお目もじ仕ります。カリヤ・インと申します」
髪が不揃いに長く、どこか都市の苦学生を思わせるきつい目つきを眼鏡で隠した男性だった。もしスーツを着ていれば都市の職員だと言われても納得できそうな容貌の持ち主で、この人も大変整った怜悧な顔立ちをしている。
「は、初めまして。アマーリエ・エリカと申します」
わたわたと挨拶するが、ここでの挨拶の仕方がわからず九十度の礼で代用する。そうするとまとめ髪と飾りが滑る感触がして、慌てて仰け反るように起き上がる。
あまりに不恰好な挨拶に、カリヤは眼鏡の奥の目を鋭く細めた。
「これはこれは。私などにご丁寧にご挨拶くださりありがとうございます。天様と違って、真様は非常に親しみやすい性格のようですね。それともヒト族というのはそのように腰が低いものなんでしょうか」
当て擦られているのかなんなのか。嫌なものを感じてアマーリエは顎を引く。
だがカリヤはにこにこしている。
「天様が無愛想なのはいつものことです。あの方は声を荒げることはありませんが、表情をほとんど出さないので周りには怒っているのではないかと思われているのですよ。にこりともしませんしね。まあ私のような不支持派に愛想を振りまいても無駄だと思っているだけかもしれませんが」
(不支持派? でも確かにどちらかというと無表情だったけど……それを私に聞かせてどうするつもりなんだろう?)
あまり友好的な雰囲気ではないと判断し、下手に相槌を打つと足を取られそうな気がして、曖昧に微笑む。するとカリヤの目が変わった。どうやらアマーリエが想像よりも慎重だったことに感心しているらしい。
「昨夜はゆっくりお休みになれましたか」
「ああ、はい。よく眠れました……、――?」
だがその返答で、周りの空気が微妙に固まった。
羞恥と、怒り。女官たちから発せられるそれはカリヤに向いている。アマーリエが横目でアイを窺うと、にこやかな彼女もまた鋭い針のような目で彼を睨んでいた。どうやらなんらかの失敗を誘導されたらしいと気付く。
カリヤは満足そうに笑っていた。
「何かお困りのことがあればご相談ください。悪いようにはしませんので。それでは失礼します」
すれ違うとき、アマーリエはふと違和感を覚えて彼の足元を見た。
足と背中、二つを見比べる。肩はあまり上下しないしアマーリエと比べれば滑らかに歩いているが、服の裾に隠れていても右足を不自由しているのがわかった。ゆっくりした歩き方はそのせいだ。
カリヤが去ると女官たちは顔を上げ、まったく! と憤慨し始める。
「相変わらず嫌味なこと。わざわざお耳に入れずともよいことを仰って」
「不支持派って言っていました。派閥があるんですね」
都市の議会映像を思い出す。ひといどきは野次で無茶苦茶になるあれだ。
アイが物憂げな表情で説明してくれる。
「……天様の就任において色々ございましたが、もう過去の話です。不支持派とカリヤ様は仰いますけれど、争いは起こっておりません。天様の采配に満足しておられるからですわ。けれど……さきほどの発言は聞き捨てなりませんわね」
ついっとアイが綺麗な唇を耳に寄せた。
「昨夜、ゆっくりお休みになられたんですか?」
「……どうして?」
質問の意図を図りかねて頷くことができなかった。しかしアイは複雑そうな微笑を浮かべ、アマーリエのさきほどの回答を答えとして飲み込むことにしたようだった。
アマーリエもまた疑問を口にしないことにした。もう過去の話と彼女は言ったけれど、カリヤがわざわざ自らの立場を宣言するからには、意図を持って動いている彼やその仲間がいるのだろう。
(行動を誤れば足元を掬われる)
積極的な行動はいま少し慎むべきのようだった。
宮殿に戻るとすでに昼食の膳が用意されていて、アマーリエはそこに座って食べ始めるだけでよかった。さっぱりした蒸し肉料理を味わった後、お茶を飲んでいるとアイが言った。
「当分はこの宮殿に慣れていただくため、ご案内ばかりになりますが、その後どのように毎日を過ごされるか、方針を決めておいた方がよいのではないかと思います。何か気になることがありましたら、遠慮なく仰ってください。わたくしたちが取りまとめて、天様にお伝えいたします」
「自由時間、ということですよね」
だったらと、アマーリエは言った。
「礼儀作法を習わせてもらいたいです。食事の作法や歩き方、そのほかにもふさわしい振る舞いを身に付ける必要があると思いますから」
一日目の今日、どんな失敗をしたのかアマーリエには判断する力がない。その知識がないままあれがヒト族の娘だと侮られ嘲笑われるのは嫌だった。
「それから私のわがままなんですけれど……リリス族の医学に関わる方に、ご教授いただけないかと思っていて……」
「都市でのお勉強の続き、というわけですわね」
「……だめ、かな……?」
アイは笑って首を振った。
「天様にお願い申し上げましょう。きっと了承してくださいますわ」
このさきの予定も決まり、なんとなく未来の見通しがよくなった気がした。少なくとも毎日一人で過ごしたり、することがなくて飽きてしまったりということは回避されたようだ。
リリス族での生活を思ったとき、何もない暗闇に放り込まれるような気持ちになっていた。でもアマーリエがいるこの部屋は、風が通って、日差しが差し込んで明るく、優しい味の食事が出て、アマーリエのことを考えようとしてくれる人たちがいる。
アマーリエが族長の妻という立場だから、仕事だからという理由だとしても、彼女たちが気持ちよく過ごせるような環境を作れるよう、努力したいと思えるようになっていた。
ここに来るまで絶望を抱いていたのに、嘘のように心が平穏だった。これがずっと続けばいいのにと、祈る気持ちで考えた。
しかし夜になると、あっという間に緊張がアマーリエを飲み込んだ。
時刻は深夜を回っている。寝殿の寝間で、アマーリエは布団の上で正座をして、時計を見て、扉を見て、彼がまだやってこないことに安堵したり不安になったりを繰り返していた。
寝間に入ったものの一人でベッドに入るわけにはいかないだろうと考えてしまった結果、どうしていいのかさっぱりわからなくなり、控えの間に戻ったり椅子に座ったりして最終的にベッドの上で正座することで落ち着いた。いつの間にか数時間経っていたけれど、さすがに疲れてきた。
(本を持って来ればよかった)
午後からは荷物の整理を行ったのだが、そこから都市で使っていたいくつかのものが出てきて、女官たちを騒然とさせたのだ。アマーリエも大学の教科書が出てきたときには驚いた。
確かに荷物を送る際、作業していたのは自宅だったし、その後それらが自分の部屋にあることを確認しなかったが、何者かが意図的にアマーリエのものを梱包したのは明白だった。
自宅に出入りして何がどこにあるのか大まかに知っている人物は誰か、というと、市職員のビアンカ・トートしか思い浮かばなかった。恐らく携帯端末も彼女の仕業だろう。
何故そんなことをしたのか。彼女なりに呵責を覚えたのだろうか。責任を負わされるかもしれないのに、何を思ったのだろう。
荷物はひとまず没収された。携帯端末のときと同じく、上の判断を仰ぐためだ。アマーリエもそれを止めなかった。
「…………」
目を閉じて息を落とす。
礼儀作法と医学の授業は、教師が見つかり次第行われることになった。週六日、午前中の授業だが、スケジュールに応じて適宜変更されるとのことだ。
「…………い」
(頑張ろう。どこにいても恥ずかしくないように)
堂々と歩きたい。――あの人みたいに。
「……真!」
声が響いたのに驚いて目を開けた。
正面に思い描いていた人の顔があって、硬直する。
「……………………っ!?」
かーっと熱が上ってきたのは反射だ。だって、あまりに綺麗な顔をしているのだ。今日一日色々な美しさを持つ人やものを見たけれど、彼の美貌は抜きん出ている。男らしくも艶かしい、けれど冷たくもある絶妙なバランスなのだ。
どうやら目を閉じている間に意識が薄れかけていたらしい。そこへ彼がやってきたようだった。
彼はその美貌で無表情のまま、小さなため息をつく。
「……私は仕事があって遅くなることが多いゆえ、先に眠れ。待つ必要はない」
そうして手にした毛布を広げる。横になれ、ということらしい。
ぎこちなく強張っている身体に命令してなんとかベッドに横たわる。そこにふわりと毛布をかけられ、さらに毛布を敷き詰められた。おかげでまったく寒くない。
「あの……迷惑でしたか……?」
「……何がだ」
尋ねたアマーリエもよくわからない。ここで待っていたことや、見かけたときの挨拶のこと、そもそもアマーリエがこの国にいて、彼の花嫁となっていること。
明確な返答ができなくて、誤魔化すように毛布を引き上げた。
「な、んでもない、です……」
その様子が不自然に感じられたのか、彼は少し首を傾げるとベッドに腰を下ろした。
「……眠るまで、ここにいた方が良いか」
きょとんとしてしまう。
(一人で寂しい、って思われた?)
思っていた反応と違ったのか、彼はこちらを見つめてくる。アマーリエはなんだかおかしくなって、笑ってしまった。
「一人で眠るのは、慣れています。夜は、ずっと一人でしたから」
両親が結婚していた頃も部屋は別だったし、離婚した後も、預けられた祖母の家では一人で寝ていた。成長して家事がこなせるようになる頃に祖母が亡くなると、あの家にほとんど一人で暮らしていたようなものだったから、夜とはそういうものだと思っている。暗闇の中で繋がりという糸をはずしていって、目覚めてそれらを再び結びつけるまで、一人きりになるのだ。
でも昨日は覚えている限り初めて、誰かと眠った夜だった。
「…………」
手が伸びる。その手はアマーリエの触れる直前の一瞬止まり、それからゆっくりとアマーリエの髪を梳いた。さらさらと零れ落ちる音と、その手が肌に触れてしまうのではないかという緊張で、心臓が身じろぎをしている。
直接触れられているわけではないのに、なんだか頭を撫でられて慰められている気がした。
「……おやすみなさい」
アマーリエが告げると、手が離れた。
「……おやすみ」
目を閉じると光の残像は目蓋の裏に、肌には彼の気配が感じられた。それはアマーリエが眠りに落ちるまで消えることはなかった。
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