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「――! キ……」
 名前を呼ぼうとした喉が、無理やり言葉を止めたせいで引きつった。
(違う)
 おののきながら思い描いた人とは異なる人物を見る。
 灰色がかった黒髪は一房だけを長い三つ編みにし、残りは短くしてある。瞳は影の中でもはっきりわかる、秋の明るい茶色。アマーリエよりも長身だが悪戯っ子を思わせる大きな目や表情をしていて、アマーリエから奪った携帯端末をその場にいる男性たちに翳してにやにや笑っていた。
「これ、俺のだよ」
「マサキ様……!」
 彼らは悲鳴のような呻き声を上げて一歩二歩と下がる。明らかにアマーリエに対する態度とは違っていた。
 マサキと呼ばれた青年は、空いている手でアマーリエを引き寄せ、肩を抱く。親しげな態度に面食らっていると、彼は明るい声で言った。
「都市の機械、真サマが懐かしがっててさあ。せっかくだから見せて差し上げてたってワケ。そしたらソレを持ったままいなくなっちまったから、探してたトコだったんだよね」
 アマーリエは腕の中で目を白黒させていたが、彼が庇ってくれているのだとようやく気付いた。とても上手に嘘を作り上げていくのでつい呆然としていたが、顔を寄せられて息を飲んだ。
「そうだよな、真サマ?」
「ご、ごめんなさい……!」
 綺麗な顔が近付くので悲鳴めいた声で言った。肩を抱かれるのも整った顔が近いのも心臓に悪い。
 思わぬ人物の登場と説明に勢いを削がれたらしい三人組は、ばつの悪そうな顔をしたものの、そのまま立ち去る素直さを持ち合わせていないようだった。
「しかし……マサキ様、機械はあれほど禁忌だと申し上げていたというのに、王宮に持ち込まれるなど」
「しっかたねえじゃん、俺好きなんだもん。ほらお前ら、さっさと天様にゴアイサツ申し上げてこいよ。俺は後から行くから」
 彼はあっさりと軽い口調で彼らを追い払うと、もう終わったとばかりにアマーリエの肩を抱いて歩き出した。三人は追いかけてこなかった。
(とりあえず危機は脱した……の?)
 身長が高く力が強い青年に引き寄せられていると、うまく歩くことができない。どこに連れて行かれるのか、そしてこの手はいつまで自分を抱くのか。すると彼は誰もいない部屋の扉を開けたので、怖くなって突き飛ばしてしまった。
「おぉっ!?」
 火事場のなんとやらだったのか、強く突き飛ばしてしまって双方よろめく。
「びっくりしたぁ。痛ってえな。何すんだよー」
 唇を尖らせてむっとされる。
 そういえばさっきは助けてもらったのだと、慌てて手を振った。
「あ、あっ、そ、それはすみません! でも、肩を抱かれるのはちょっと……」
「なんだよ、リリスは汚らわしいってか。ヒト族が考えそうなことだな」
 肩くらいいいじゃん、と彼は都市の深夜のコンビニでたむろする若者のような座り方をし、嫌な顔つきでアマーリエを見上げた。
「だいたいさぁ、結婚したんだろ? もう天様と寝たんだし、肩抱いて恥ずかしがるなんてイマサラーってかん」
 ――ぱん!
 その一音で、周囲から音が消えた。
 乾いた音が消えてから、アマーリエは手のひらの痺れを感じ、震えた。
 頭にきた。それで衝動的に彼の頬を張ったのだと理解して、血の気が失せていくのがわかったが、怒りは収まらない。震える声で言った。
「……謝らないから」
 プライベートなことに土足で踏み入って、貞操観念を馬鹿にされたことに、当然怒りを覚えた。けれど大部分は、何も知らないのに勝手に想像してあれこれ言われることに対しての憤激だった。
 自分と夫の現在の関係を説明しても信じてもらえないことわかっているし、奇妙に映るのはわかっている。だが下世話な憶測で、彼の優しさを汚されたくない。
 青ざめたアマーリエを眺めていた彼は、めずらしいものを見るかのような目になっていた。不思議さと好奇心が混じった、けれど嫌味でない視線は、ふうんという興味関心の滲んだ頷きのせいか。
「……悪かった、俺が立ち入っていいところじゃなかったよな」
 アマーリエが目を瞬かせると、途端に彼は意地の悪い顔になった。
「でも助けてやったのに礼はなくて平手って、ヒト族っていうのは不義理なんだな」
 そう言われると折れるしかなかった。
「……助けてくれて、どうもありがとう。でもヒト族を誤解しないで。偏見を持っているのは、あなたもだと思う」
「かもね」
 にかっと歯を見せる笑顔を向けられ、拍子抜けした。けれどそれで彼がわだかまりを持っていないことがわかった。
「あの完全無欠の天様の真夫人になるなんて、どんなヒト族かと思ってたら、結構丈夫そうで安心した。あんた、見た目か弱いけど実は結構太いね」
「……それって体型のこと!? 気にしてるのに!」
 老若男女問わず美形で、高身長で無駄のない身体つき、かつ女性は豊満というリリス族。アマーリエはヒト族の平均くらいだが、ここに来てから、着替えの度に二の腕や足の太さにこっそりいたたまれない思いをしているのだった。顔の作りではとても及ばないというのに、食生活が改善された結果太るという悲しい現実に近頃打ちのめされている。
 顔を真っ赤にした叫びを聞いた彼は、きょとんとした後、盛大に噴き出してくれた。余計に腹が立って声を荒げる。
「笑わないで!」
「い、いや! あはは、は、はは……!」
 ひとしきり笑って涙を拭う。
「はあー、これでよくわかったよ。あんたなかなか面白い人だね」
 アマーリエが小さく唸っていると、彼はまだしつこく肩を揺らしながら、さきほどさらっていった携帯端末をアマーリエに返してくれた。
「じゃあ俺行くわ」
 そう言って部屋の窓を乗り越えていってしまう。三つ編みを尻尾のように揺らして。
「確かに肩はやぁらかかったなあ」
 ひらりと踊る手とともにそんな台詞が聞こえて、アマーリエはぽかんとした。
「かっ、肩に肉がついてるとでも!?」
 遅れて理解して窓に飛びつくと、もうその姿はなかった。地団駄を踏みそうになるのを拳を握ることで耐える。
(確かにリリス基準の華奢ではないけどっ!)
「真様ぁ、どちらですかぁ」
「真様ー!」
 窓から呼び声が聞こえてはっとした。すぐ戻るはずだったのに、ずいぶん経ってしまっている。
 アマーリエは急いで携帯端末を懐に押し込むと、声のする方へと足を急がせた。



       *


 執務室の前室に待機していた護衛官を見つけたマサキは「ひっさしぶりぃ!」と手を挙げた。それを受けた彼女は少々呆れた顔をしながらも、背筋を伸ばし、律儀に頭を下げた。
「お久しゅうございます、マサキ様」
「相変わらず凛々しいなあ、ユメ御前は! そんなに真面目に挨拶しなくてもいーよ」
「何の御用でしょう?」
 マサキの言葉を黙殺したユメはそう尋ねた。族長就任時のごたつき以来警戒されているのは、マサキが族長候補とされる公子の立場にあるからだ。
 あの人がいる限りどうこうしようとは思ってねえんだけどなー、と思いつつ、にかっと笑った。
「遅くなったけど、天様にゴアイサツにきたんだよ。取り次いで」
「窺ってまいります」
 執務室に入るユメを見送り、マサキは窓に近い壁にもたれて、固い蕾のついた冬木を見つめた。そうして思うのはさきほど別れた少女のことだった。
 ユメなどはリリスの女性の代表的な部類だろう。男性と変わらぬ長身の持ち主で、鍛錬を欠かさず、馬も剣も巧みに扱う。街に住むリリスには多くはないが、草原に暮らす氏族には彼女のように馬を駆って戦う女性が多い。
 逆に、とマサキは手のひらの残っている感触を思い出す。
 あの肩は華奢だったが柔らかく、花を想像させるものだった。丈夫なリリス族とは違って、壊れたら取り返しがつかなそうな脆い身体だと思う。リリスの子どものように小さいけれど、それよりもずっと幼い印象があった。
「マサキ様。天様がお会いになられます。どうぞ」
 戻ってきたユメが告げる。
 同じくらいの身長なのでほとんど正面にある目を見つめると、彼女は訝しげな顔をした。
「如何なさいましたか」
「ユメ御前って、身体鍛えてるよなあ」
「鍛錬は怠っておりませんゆえ」
 それはわかってるよと肩をたたくと、しっかりした骨格についた筋肉が感じられる。ふうんと声を漏らしたのを聞いてユメは眉をひそめたが、マサキが部屋に入るのを何も言わずに見送った。
 この建物は部屋をいくつも繋いだ形をしている。座敷もあれば、椅子を使う板敷きの間もある。その代表ともいえる執務室は、警備の詰める部屋を越えなければ入ることができず、緊急時以外は部屋を繋ぐ扉は、決められた通りにしか開かないようになっている。
 頭を下げる警備が開いた扉をくぐると、正面の執務机にいた人物が顔をあげた。マサキはその場に膝をつく。
「お久しぶりです、天様」
「ああ、久しぶりだな、マサキ」
 この人を見ると、マサキは研がれて光る刃や、流水と花、氷と宝石を想像する。
 キヨツグ・シェン。リリス族の長であり、親愛なる従兄。
 美声で告げた族長は手元にあった書類をオウギに手渡した。彼はそれを受け取るとマサキにちらりと目をやってから出て行く。まるで風が通り過ぎるような気配の薄さだ。
「オウギは相変わらず喋りませんね」
「あれはそういうものだ」
 キヨツグはそう言うが、マサキはオウギのことを少し薄気味悪く思っている。あれほど私を殺して族長に仕えるなんて、何を考えているのだろうと不気味に感じるのだ。なのにあの目。銀色に光る目は常にすべての物事を見透かすようで、落ち着かない。
 だがキヨツグがそばに置いておくと決めているなら、マサキが何かを言うつもりはない。オウギの存在は意味があるものなのだろう。どういうものなのかはまったく想像できないが。
 椅子を勧められたので、ありがたく革張りの長椅子に腰を下ろす。
 やがてユメがお茶を持ってきた。てきぱきと注いで無駄口を叩くことなく下がっていく。キヨツグも執務机からマサキの前の椅子に移動し、茶が満たされた薄い磁器を取り上げた。
 お茶を飲む仕草ひとつをとっても、キヨツグには艶がある。マサキは幼く見えるがもう二十代、そろそろ外見の老化が止まる頃だが、十歳ほどしか違わない彼のような色気を身につけることはできないでいる。まあいまはこの童顔がある意味ウリであるとも思っている。
「そういえば、結婚生活はいかがですか?」
「特に、変わりない」
 すぐさま返答があったものの、おかしな空気が滲んだのをマサキは逃さなかった。
「祝宴に参加できずすみませんでした。代わりに伯父上にお願いしたんですが、とても麗しい花婿と花嫁だったと聞きましたよ」
「シズカ様のお加減が悪かったのだろう。快くなられたか」
(話題を変えたな)
 母親の話題を持ち出されたことも気に食わない。答えなければならないからだ。
「ええ、おかげさまで快くなりました。全開すぎて迷惑してます。母上も気にしてましたよ。真様はどんな方だと」
 と言っても、母シズカの興味は、ヒト族に対する嫌悪から始まっている。
 キヨツグは答えない。多分マサキと同じように、シズカの異種族嫌悪のことを考えているからだ。
「……で。どんな方なんですか?」
 だがマサキはしつこく尋ねた。従兄が彼女にどんな印象を抱いたのか、是非とも聞きたかったのだ。
 しばらく間を置いて、キヨツグは言った。
「何が聞きたい」
「並み居る候補をなぎ倒して真夫人になったヒト族の女性。興味が持たない方がおかしいですよ」
「どこから聞いた」
「……はい?」
 鋭い目を向けられ、マサキは面食らった。
(え、だってリリス一の美女や深窓の美姫やら古い血族の末裔やら、大量の嫁候補がいたけど、それを差し置いて異種族の女を真夫人にしたんだろ? ――違うのか?)
 疑惑を抱かれたことに気付いたらしく、キヨツグは一瞬眉間に皺を刻んで、何でもないと手を振った。
 どうやらこの政略結婚には何か秘密があるらしい。
 真夫人に関わるもの、彼女が選ばれたのには理由があるのか。
(あの子は知ってんのかな)
 従兄は口を割らないだろうから本人に直接聞いてみてもいいかもしれない、そんなことを思っているマサキを、キヨツグもまたじっと観察していた。
「真に興味を抱いているのはお前だけではない」
 そうでしょうとも。マサキは笑って頷いた。
「あなたの妻になる女性には、恐らくリリス中が関心を寄せていますよ。もったいぶらずに教えてくださいよ。従兄弟のよしみで」
 血縁の情には決して流されないとわかっていながらその言葉を用いると、キヨツグは口元を覆って考えた後、一言。
「小さい」
 と、のたもうた。
 それは人柄を表したものではないと、呆れてしまう。
「はあ、『小さい』。……他には?」
「まだ知りたいのか」
 淡々と、だが不愉快そうにも聞こえる口振りで言われる。
「ええ、それはもちろん」
 相性というものがある。さきほど真夫人をいびろうとしていたあの三人組などは読みやすいが、この人を前にすると何を考えているかさっぱりわからなくなる。『小さい』だけの情報で何がわかるというのか。
(大変そうだなー)
 他人事というよりかは、友人を心配するようにマサキは彼女を案じた。政略結婚で。異種族で。あの少女はここで生きていかなければならない。強くぶつかれば壊れてしまいそうな身体で、人の考えを読んで渡っていかなければならない。彼女が他の候補者たちを押しのけて就いたのはそういう地位だ。無理矢理でも、役目は義務だった。
 でも取り澄まして命令している姿は似合いそうにない。自由にして屈託無く笑っているのが彼女をいちばん綺麗に見せるような気がした。
「……あまり怯えさせるようなことはするな」
 答えの代わりにそんなことを言われて、マサキは驚いた。彼女のことを考えていたのに気付かれたのかとひやりとするが、続けて夕食の話題を振られて面食らってしまう。
(やっぱり、読めねーなー)
 しかし、この族長にそこまで言わせる少女に、新たな興味が湧く。
 怒らせてしまったが怯えられてはいない。今度会ったときには名前を聞こう。
 そう決めて、マサキは夕食の要望をキヨツグに告げた。

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