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 アマーリエが昼食を断ると、アイも心得たもので代わりに果物やお菓子を持ってきてくれた。だから太るのだろうと思いつつも、アマーリエは果物に手を伸ばす。
 桃のような汁気を含んだ甘い果実は、しかし青い色をしている。桃と何かの交配種だろう。今度は舌にじんじんと甘みが広がっていく。
「…………」
 一口食べるごとに落ち込んできてしまった。
 ハナの授業は厳しかった。解熱薬の調合は数々の注意や指摘にも関わらず、すべて失敗に終わっていた。自分には向いていないのではないか、と思わずにはいられないくらいだった。
 机にかじりつくだけじゃわからないことがなんて多いのだろう。
 アマーリエの落ち込みを察したのか、女官たちは隣室で待機していた。そうしてくれるなら一人になりたいと言ってみてもよかったのかもしれない、と思いながら、懐を探る。入口からは見えない窓辺に座り、携帯端末の電源を入れた。
 またメールを受信し始める。確認してみると、以前送ったメールの返信だ。
『また落ち着いたら連絡してね。月曜三限にレポート課題が出たよ』
(月曜三限……東洋古語学か)
 リリスの書物には東洋古語が使われているものがあることを、ハナから借りた書物で知ったアマーリエだった。幸いにも大学での成績はよかったので、何が役立つかわからないものだと思う。
『ありがとう。返事は遅くなるけどよかったらまた連絡してね。レポート頑張れ』
 返信を終えると、電源の残りを確認してどきりとする。
 携帯端末が普及し始めた頃と比べて電源の保ちがよくなったとはいえ、充電ができないこの土地では使用には限りがある。すぐに電源を切り、出来るだけ携帯端末は使わないでおこうと決め――そのさきのことは考えられないでいた。
「電話、したいな……」
 大学に行きたい。みんなで昼食を囲んで。駅前のファストフード店で放課後におしゃべりをして。そういうときに父から電話がかかってきて、母からは土曜は空いているから顔を出しにいらっしゃいとメールが入る。従姉のイリアが突然会えないかと言ってきたりもする。
 ありふれた毎日。みんなが繋がっている、その中に自分がいる、あの都市。
「……戦争ってどうなったんだろう」
 ふと疑問が口をついた。
 自分のことで手一杯だったが、自分の結婚はモルグ族の侵攻に対する同盟を証すためのものだ。三種族間の状況がどのように動いたのか、テレビがないここでは確かめられない。携帯端末のテレビ機能がちらりと過ぎったが、電源のことを考えると接続することはあまりいい考えとは思えなかった。ならば誰かに聞くしかないけれど。
「しーんサマっ」
 小馬鹿にするような声がしたのはそのときだった。
 顔を上げると、あのときの青年が窓の向こうから身を乗り出して笑っていた。
「君は……」
「キミ。キミってすかした呼び方すんだね、あんた」
 むっとする。彼よりは礼儀を失していないつもりなので、余計に腹が立った。
「じゃあなんて呼べっていうの? 私、あなたの名前も知らないんだけど」
 すると彼はぺろりと舌を出した。
「忘れてた。自己紹介ね。俺はマサキ。マサキ・リィ。マサキでいいよ、真サマ」
「私にもアマーリエ・エリカ・コレットって名前があるんだけど」
「うっわ、大層な名前だなー。あま、む、アマーリエ、で、いいわけ?」
 舌をもつれさせながら名前を呼ぶ。そういえばここに来てアマーリエは他人からほとんど名前を呼ばれないが、どうやらリリス族にとってヒト族の名前は呼びづらいもののようだった。
 だが引っ掛かりを覚える。
(あの人は、普通に呼んでた)
「ん、アマーリエ?」
 顔を覗き込まれ、近い、と思って身を引く。同時に考えかけたこともどこかに失せた。
 にこっと笑ったマサキは、どきりとするような甘い笑顔だった。アマーリエ、と呼んだ声が奇妙に胸の中に響いて、切ないような寂しいような気持ちになる。彼は女官たちのように距離を置くことなく、アマーリエを歳の近い友人として認識したようだったからだ。
「じゃあアマーリエ。ずっと引きこもっててヒマだろ。ちょっと遊びに来ねえ?」
「遊びに?」
「そう。機械あるぜ。見たくね?」
 気安い笑顔とやんちゃな口調のせいだろうか。簡単に頷かせてしまう力がマサキにはある。ほとんど初対面であるアマーリエも、緊張せずに答えていた。
「見たい、かも」
「じゃあ行こうぜ。ほら」
 窓から手を引かれて慌てた。
「ちょ、ちょっと待って。アイたちに言ってくるから」
「いいのいいの。すぐに戻るんだから大丈夫だって」
 そういうわけにはいかない。先日マサキに助けられていたとき、大捜索されていたことは記憶に新しい。
「待って。やっぱり声をかけてから行く」
 きっぱり言って手を振りほどくと、がくんとマサキは肩を落とした。
「マジメだなあ。んなの別にいいじゃん。そういうのでガッチガチになってると、自分の時間をなくしちまうんだぜ」
 ぎくりとしたのは覚えがあったからだ。リリス族の常識を知らないアマーリエの縁は女官たちが教えてくれる決まりごとで、それさえきっちりしていれば見放されないと信じているからだ。
「……よくないでしょ。私はこれでも『真サマ』なんだから」
 押し殺した声で言うとマサキは微笑み、表に回ると言って一度引っ込んだ。そういえば彼がいるのは庭に面した窓で、ということは中には回ってこずわざわざ外から呼びかけていたことになる。
「……変な人」
 呟いて隣室のアイたちのところに行くと、すでにマサキがやってきていて、彼女たちにアマーリエを連れ出すことを宣言したところだった。
「親睦を深めるために部屋にお招きしたい、と」
「そーそー。真サマも『是非伺いたい』って言ってくれたからさー」
「かしこまりました。では付き添わせていただきます」
「あ、そういうののいいから。わずらわしいから来なくていーよ」
 アイは渋面を作る。
「マサキ様……」
「ここは天様の御座す王宮。その花嫁たる御方に、リィ家のマサキが害を加えると思うのか」
 びりっと雷が降るような静かな声に、女官たちも、離れたところで聞いていたアマーリエも打たれたように口をつぐむ。
 そんな張り詰めた空気を緩めるように、マサキはぱっと明るい笑顔になった。
「だーいじょーぶだって! な?」
「……では、近くまでお送りいたします」
 それがアイの譲歩のようだった。マサキもそれ以上は言わず、早く来いとアマーリエを手招きした。

 王宮には客人が滞在するための棟がいくつかある。彼の部屋はその一室だった。一番広い、庭に面したいい部屋だったことから、彼が権力を持つ人物だということがわかる。
(彼はいったい何者なんだろう)
 女官たちが逆らえず、彼女たちに命じることができる立場といえば、そう多くはないことがわかっている。近くまで付き添ってくれたアイも「交流を深めるのはいいことではありますが……」とため息をついていたから、仲良くしておいて損はない、と思われているということだ。
「散らかってるけどどーぞ」
 そう言って入った部屋はごく普通、だったのだが、彼はその隣の部屋の前に立つと、秘密めいた笑い声を漏らした。
「ふっふっふ……ではでは、とくと御覧じろ!」
 ぱっと開かれた扉の向こうに、山と積まれたもの。
 それはリリスでは禁じられているはずの、デスクトップパソコン、ディスクプレーヤー、電話機といった機械と呼ばれる数々だった。
「す、っごい……」
「触っていいぜ」
 言われて手に取ってみると、確かに本物だ。でも電気は通っていないのでどれも表示は消えているし沈黙している。だが懐中電灯などは、きちんと電池が入っていて、丸い光の輪を壁に映し出した。
「面白えよなー。こういうの、簡単に手に入るんだろ?」
 アマーリエは頷く。ただの懐中電灯の光に、じんわりと感動する自分がいた。
「すぐに湯が沸く機械があるんだよな? いつでも湯が作れる機械」
「ええと……ポットのこと? 電気があったら、あれが使えるよ」
 片隅に追いやられているそれは、まさしく電気ポットだった。へえと感嘆の声を漏らしながら、マサキはそれを胸の中に抱える。
「これ、なんか顔みたいに見えてすげー好きだったんだけど、そうかあ、これがポットかあ」
「集めて、どうしてるの? 使えない、よね?」
「うん、ただの収集。分解して中身を調べたりもするけど、それだけ。都市の機械って面白いしカッコイイよなー。すんげー重たくて黒い板に自分が映る鏡みたいな箱とか、ボタンがめちゃくちゃついてる尺みたいなやつとか、なんでも集めちゃ分解して、もう一回組み立ててる。一番好きなのは電球だな。あれすごい技術だよ、薄い硝子の中に小さな部品が入ってるのが見えるのってカッコよくね?」
「ちょっと……わからない……」
「なんでだよー。ヒト族ならわかるんじゃねーのー?」
 ぶうぶうとマサキが唇を尖らせる。
「……それはともかく、これ、どうやって手に入れてるの? こういうのって、許されていないでしょう」
 彼のコレクションは凄まじい。それだけに、王宮でこんなに禁じられたものを保管している彼の立場がわからなかった。口調が丁寧なわけでもない、どこにでもいる普通の青年という感じの彼は、すごく手を焼くタイプの男の子のようにしか見えない。
「気になる?」
 マサキはにんまり笑う。
「でも、ヒ、ミ、ツっ! まあ簡単に言えば、俺の都市びいきは有名で、こういうものを扱う商人はまず俺のところにやってくるワケ。で、俺が『こう』であることは、上から黙認されてるのさ。自分で集めて楽しむ分には、害がないからな」
 ポットの蓋を開け閉めしながら、くつくつと肩を揺らしている。
「まあ変わり者の自覚はあるよ。ヒト族の機械が好きって、おおっぴらに言うなって周りからいっつも注意される」
 アマーリエはため息をついた。
「……そっか。でも好きなものを嫌いって言うのは難しいよね。言ったらすごく辛い嘘だと思うし。だったら、変わり者、いいんじゃないかな」
 彼が周囲からはみ出さないように注意を促す人たちのこともわかるけれど、好きなものは好きだと言いたいし、言える世の中であってほしいと思う。
 マサキは、思いがけない、といった表情でアマーリエをじっと見つめている。
「……な……に? 私、何か変なこと言ったかな……?」
 すると表情を破るようにして笑顔が現れた。満面の笑みだった。
「いいや! 俺、そういう風に言ってもらったの、初めてだなって思ってからさ。誰も彼も話題にしないか、話題にしても怒るか嫌な顔するかってところだし」
 笑っているが、嫌な思いをしてきたのだろう。だがそれでも彼は機械を好きでいることは止めないでいる、その強さが眩しかった。
「だから……ありがと、アマーリエ」
 自分が何かあげられた気はしなかったけれど、なんとなく、嬉しかった。
 それから、マサキは自分でも名前の知らない機械を次々に積み上げて、アマーリエのその名称と使い方といった質問を矢継ぎ早に浴びせた。いくつか正しい名称が思い出せないものがあって、使い方をうまく説明できないものもあったけれど、マサキは想像力を膨らませて、アマーリエの拙い説明からそれらの機能を正しく把握していった。
(マサキって、もしかしてすごく頭がいい……?)
 大学で使用している情報教育の教科書の話題を持ち出すと、今度なんとかして手に入れてみると言われた。機械のないリリスの国だが、彼だったら簡単に理解してしまうかもしれない。
「あの、モルグ族との戦争って、どうなったか知ってる?」
 話が途切れた後、心を決めてその問いを口にした。
 彼はいったいなんの話だろうと首を傾げたが、すぐに思い当たったように手を打った。
「ああ、そうか。あんたそのための政略結婚で来たんだったっけ」
 そうひとりごちて、教えてくれる。
「いまは小康状態って感じかな。モルグ族からの攻撃が止んだらしいから。同盟の噂が流れたんじゃねーのかな。もしかしたら近々一回くらいやりあうかもしれないけど、同盟が成立したことを知れば、停戦の申し出があるかもな」
「……なら、意味はあったのかな。結婚」
 小さく呟くと、慰めるように言われた。
「あったと思うぜ。少なくとも戦の数は減ったみたいからな」
 けれどアマーリエはただ王宮にいて、なんてことのない日々を過ごしているだけだ。物語のように剣を手に戦場に行くわけではない。救国主になるわけでもない。そもそも、族長の妻としての役割すら果たせていない。
(私がここにいる意味は……?)
 てぃん、とマサキの指が玩具のピアノの鍵盤を叩く。幼稚園の頃から定期的に調律しているピアノに触れてきたアマーリエには、そのピッチが違っているのがすぐにわかった。
 マサキの顔に罪悪感に似たものがよぎる。
「……ったく、んな顔すんなよ」
「ちょ、なっ……!」
 ぼんやりと顔を上げると、彼は突然アマーリエの頭をぐしゃぐしゃにかき回した。
「同盟が成立したのはお互いに利益があるからだろ。同盟を結ぶ意味があると天様や長老方が考えたってことだ。あんたが心配することねーよ」
 マサキが覗き込むようにすると、彼の三つ編みが肩から落ちて、揺れた。
「元気でた?」
 アマーリエは小さく笑った。
「……さっきから触ってるそれ、多分電池が逆さまに入ってるよ」
「え、マジで?」
 道理で点かねえなあと思ったとマサキは大げさに笑い、アマーリエも微笑を浮かべた。
 そして磨き上げられた爪と家事をすることのない手を見て、便利ではないけれど不自由のない、まるで別世界のお姫様になったような生活を送っているのに、生きていることを自覚するのはとても疲れるものだと、考えていた。

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