―― 第 5 章
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 規則正しくならざるを得ない生活のおかげで、アマーリエの起床時刻が早くなり、朝食前には落花の世話をする習慣ができた。
 朝食をとった後は身支度を整えて、医学もしくは礼儀作法の授業を受ける。時間があればライカのところへご機嫌伺いに行き、廟に詣でる。午後からは乗馬と護身術の訓練を受けて、一日が終わる。
 マサキは声援という名のからかいに磨きをかけ、ユメは竹刀で彼を成敗することを覚えた。キヨツグが言った通り二人はなかなかの使い手らしく、空手と竹刀の組合や飛んだり跳ねたりといった攻防を繰り広げているのを、馬上から眺めて拍手することもしばしばあった。
 頻繁に打ち身や擦り傷を作るせいで医局へ行くことも増え、いつも在室しているシキとは頻繁に言葉を交わす仲になった。時々そこにリュウ医師やハナも混じり、健康面のアドバイスを色々ともらうようにもなった。仕事柄、アマーリエの体調を心配してくれているようだった。
 夜一人になる時間には、女官に頼んで調達してもらった本を読んで過ごした。わからない文字や単語はシキやマサキ、アイに尋ね、意味がわからないところは解説してもらう。本のジャンルは、絵本、娯楽ものや教養本など様々で、いくら読んでも足りないくらいだ。
「…………」
 ふとしたとき、アマーリエは振り返って、そこに彼の姿を探してしまう。
 彼は自身の誓い通りに、庇護者と被庇護者という関係で、アマーリエとの距離を保っている。アマーリエはそれに守られて、ここで生きるための術を学ぶための時間を十分に与えられていた。
 これでいいのかと思うときはある。けれど何もしないまま無為に過ごすことはしたくないから、いまやらなければならないことに取り組み続けるしかない。
 そんな風にして、リリスの厳しい冬は、少しずつ過ぎ去ろうとしていた。


 医局でお茶を飲みながら、アマーリエは尋ねた。
「じゃあ、天界から降りたのが、リリスという種族なんだね」
 そうだとシキは頷いた。
(そら)を行く者たちの種族の一つがリリスだ。翼を持ち、空を駆け、地を見下ろすもののことだった」
 本の内容を尋ねたことがきっかけで、アマーリエは彼からリリスに伝わる物語を時々聞いていた。本をよく読むからだろうと言うシキは、リリスの伝承についても詳しかったのだ。
 その彼が最も詳しいというのはライカだったそうだが、姑はいつ訪れても眠っていて言葉を交わすことができなかった。そういうものなのだと、応対に出る老巫女は言っていた。
 だからかもしれない。アマーリエがリリスの伝承に興味を持ったのは、リリスの国には、ヒト族の都市が埋めて隠した神秘的なものがまだ確かに息づいていて、アマーリエの知らない魔法めいた何かが、そこここの陰に潜んでいるからなのだろう。
「空、太陽、月、星、雲、雨、雪。天空のものはリリスの眷属だったものだという。族長が『天』と呼ばれるのは、地上に降りた天界の覇者という意味が含まれているらしい」
 大学院生が家庭教師をやっているような口調で、シキはアマーリエに語りきかせてくれる。よく話すようになると敬語が煩わしくなって、敬語はなしにしようと提案したのはアマーリエだった。シキはもちろんとんでもないと断ったけれど、あなたは兄弟子で私は妹弟子だから、などと理由を重ねていくと最後には折れてくれた。いまでは、他人がいるとき以外は先輩後輩のように話すようになっている。
「族長が天なら、『真』はなに? 真夫人が正式名称なんだよね?」
「古神話に由来しているんだ。真夫人というのは、天界の女神に仕える女性の呼称でね。元々は地上に生まれたその女性は、天様の立場に当たるリリス族に見初められて、天に昇った。そして女神にお仕えするようになった」
「女神様に名前はあるの?」
「正式な名前は残っていないけれど、だいたいどの書物でもリリスの女神と書かれてあるね。はっきりと『女神リリス』と書いているものもある。だから強いて言うなら、リリス、がお名前かな」
 ふんふんと頷いて、聞いたことをまとめる。
「天界には女神リリスとリリス族がいたんだね。その頃にも天様と呼ばれる立場の人がいて、その人に見初められて地上から天界に昇ってきたのが真夫人と。時が流れて、リリス族は地上で暮らすようになって、族長は『天』と呼ばれ、その伴侶は昔ながらに『真夫人』と呼んだ」
 それを聞いていたシキはにっこり笑ったものの、すぐに苦笑した。
「僕なんかに聞くよりも、サコ殿にお尋ねすればよかったのに」
「うっ、いや、聞ける雰囲気じゃない、というか……」
 サコは怒ってばかりではない。ちゃんと褒めてくれる。けれど同じくらい叱られるのだった。慣れてきたので体力もついたし精神も鍛えられたけれど、時々は落ち込んでしまうし泣きそうになってしまう。世間話をするにはもう少し親しくならなければいけない気がするのだった。
 アマーリエは話題を変えた。
「リリスはどうして宙から降りてきたんだろう。故郷を離れるって、辛くなかったのかな」
「真様は、辛かった?」
 持ち上げた急須を、円を描くように揺らして、お茶を注ぎながらシキが言った。
 湯気の向こうにいる彼にアマーリエはかすかに笑い、小さく首を横に振った。けれどシキにはお見通しだっただろう。小皿に取り分けた砂糖菓子は甘やかすように数が多かった。
「僕は時々考えるんだ。人は、何かを得るためには代償を支払う必要があるんだということ。何かを失ったときは何かを得るときなんだってことを。――君は故郷を離れてここにやってきた、なら何を得るのかな」
 アマーリエは微笑する。表情を取り繕えるくらいには時間が経っていた。
「失くしてしまったものは、いっぱいある気がするけれど」
「得るものを考えるのが、未来じゃないかな」
 アマーリエは黙った。必死にいまを生きることをこなして、漠然とした未来に向かってなんか道をこしらえて、少しずつ手探りで進んできた。都市でもリリスでも同じだ。何を得られるか、得たいかなんて、全然わからない。
 一瞬過ぎった黒い瞳と低い声は、振り払う。
 シキはどこか仕方なさそうに微笑んで、「だいぶと暖かくなってきたね」と外を見遣った。アマーリエがそれに答えようとしたとき、賑やかな足音が響いてきた。
「あ! アマーリエ、やーっと見つけたっ!」
「マサキ」
 顔を覗かせた途端、大げさに上半身を倒すようにため息をついた彼は、遠慮なしに医局に入ってくると当然とばかりにアマーリエの隣へ腰を下ろした。
「お前最近ウロウロしすぎ。ジジイどもに絡まれても知らねーぞ」
「絡まれたらすぐ逃げるから大丈夫だよ。っていうか、勝手に入ってきて……」
 シキは苦笑して茶器を持ち上げた。
「お茶はいかがですか、マサキ様」
「おう、もらうわ。……って、乳鉢で茶葉擂ってんのかよ! さらに実験器具で湯を沸かしてるんじゃねーよ!」
 目盛りのついた硝子製の器具、いわゆるビーカーをランプにかけて湯を沸かしているのだった。シキは「無作法で申し訳ありません」と言いながらもさっさとお茶を入れてマサキに出している。
「怪しい薬とか混ざってねえよなあ……?」
 呟いたマサキはお茶の匂いを嗅いで、アマーリエたちが見つめる中、それに口をつけて、顔を歪めた。
「………………びっみょー。なんだこの味」
 アマーリエとシキは顔を見合わせた。
「微妙だって」
「そうかあ。僕はなかなかいけるんじゃないかと思ったんだけどなあ、この体質改善茶」
 せっかく医局にいるので、近頃アマーリエがシキと取り組んでいるのが、お茶や薬草を組み合わせて健康茶を考案することだった。味がよく身体にもいい飲み物というのはなかなか難しいのだが、植物や薬に関する知識を蓄えるいい機会になっている。
「俺は実験台かよ! アマーリエ、笑うな!」
 笑うアマーリエを指摘したマサキは、それほど気に食わない味だったのか、部屋の中から茶葉を見つけ出して、湯を沸かし、急須でお茶を入れ始めた。ランプの上で熱した器で茶葉を炒るところから始まり、茶器は一度温めてからお茶を注ぐという徹底ぶりだ。
「よーし。これで三分蒸らす」
 アマーリエは懐中時計を取り出し、時間を確認する。
 するとシキが近くに立って、鬼気迫る顔つきで急須を睨んでいるマサキを気にしつつ小声で言った。
「いい時計だね。すごく綺麗な細工だ」
「プレゼント……贈り物なの」
「誰に送られたって?」
 話を聞いていたらしい、懐中時計はあっという間にマサキの手にさらわれる。
「マサキ!」
「うっわ、これすごいな。凝ってるし、粋だわ。……ということは、天様からか」
「そうなの? 夫婦仲がよくてなによりだね」
 微笑むシキに、アマーリエは曖昧に笑った。関係が良好なのはいいことだろうけれど、夫婦仲と言われると違和感が先立つのだ。
 そのとき、ふんと鼻を鳴らしたマサキが懐中時計をアマーリエに押し付けるようにした。
「時間」
 怒ったようなぶっきらぼうな口調で言われ、慌てて時間を確認する。
「あ、うん。あと二十、十九……」
 時間が来ると、マサキは急須を取り上げ、三つの器に順番にお茶を注いでいく。
 すでに置かれたときから香りが違う。甘いような、けれど香ばしいいい匂いが漂う。
「いただきます」
 一口含んで、飛び上がった。
「美味しい!」
 シキも目を見張っている。マサキはにやりと笑った。
「ふふん、ざまあみろ」
「何か違わない? それ」
 しかしお茶が美味しいのは本当だ。女官たちが淹れてくれるお茶も十分美味しいが、マサキのお茶は濃くて甘い。全身に清々しさと温かさが染み渡っていく気がして、ほうっと息が漏れる。
「すごく美味しい。美味しいものを口にすると、幸せだなって思うね」
「じゃあずっと茶を淹れてやるから、俺と幸せになろうぜ」
 肩を抱きに来た手を、ぺんっと払った。
 マサキの行動パターンがだいたい読めてきているアマーリエだった。いいところを見せて、茶化す。褒められることを苦手として、照れ隠しにふざけた言動をするという感じだ。口が上手いタイプに多い気がするから、マサキにずばり当てはまっているはずだった。
「気軽に言うんじゃありません。そういう言葉は大切にするものでしょう?」
 軽薄な態度を取っていると、大事なときのその言葉が弱くなってしまう。そう思うと、まるで親か兄弟のようにたしなめていた。
「ううん、大切にしなくちゃだめだよ。必要なときに、必要な言葉を使えるように」
 マサキはにっこりした。
「アマーリエにしか言わないって。いまは」
(……わかってるのかな)
 アマーリエは肩を落とし、お茶のおかわりを貰うべく、茶碗を差し出した。



       *


 夕食の時間を知らせにやってきた女官に連れられて、アマーリエは部屋に戻っていった。中心になっていた彼女がいなくなると、残されたマサキとシキは、それぞれに思い思いのことをしている。シキは仕事に、マサキは適当に、触っていてもよかろうと思われるものを、捲ったり裏返したりしていた。
「シキはさー」
「はい」
「アマーリエのこと、イイなー、って思ったりしないわけ?」
 アマーリエをきっかけに言葉を交わすようになった、将来有望な医官は、絶対零度の冷たさを帯びた微笑みでマサキに向き直った。
「ご質問の意味がわかりかねます」
「わかってるくせに」
 マサキは机に肘をつき、シキを見上げた。
「俺、あいつのことイイなって思うぜ。可愛いと思う。普通すぎてどこがいいってわかんねーけど、あいつが時計のこと言われて贈り物だって言ったときの顔見たとき、すげー傷付いたんだよ」
 多分、彼女は自分がどんな表情をしていたのか自覚はなかったと思う。
 けれどマサキは見た。頬を染めて贈り物を大事そうに両手で抱える、優しい顔をしていた。想いがあるのだとわかってしまった。
 その花は、彼女の足下で芽吹き始めている。
 そうして思ったのだ。――ああ、好きだな、と。その顔を自分に向けてほしいと。
「……ほとんど接点のない僕にその話をなさる理由はなんです?」
「牽制。と、どっかから話が漏れたらいいなっていう期待」
 外を見やる。控えていた気配はいまは消えていたから、アマーリエの後を追っていったのだろう。キヨツグか長老家の誰かまではわからないが、彼女には護衛を兼ねた監視がついていることをマサキは察知していた。
 アマーリエとのやりとりを知られているとは思っていないだろうシキは、呆れたようにマサキに言う。
「残念でしたね。僕はしゃべりませんよ。何か起きない限り」
「何かって?」
「天様、あるいは真様に害が及ぶようなこと、です。ご承知でしょうが、ここは僕たちの領域です。その気になれば毒を盛ることくらい簡単です」
「はは、きついなあ」
 マサキは笑って腰を上げた。外へと足を向けながら、口を開く。
「アマーリエが望んでいるものがここにあるとは限らない。あいつがここで得るものは、本当にあいつが欲しいと思っているものだと思うか?」
 シキは目を細めた。話を聞かれていたことに対する不快感、というよりかは、こちらが何を言うかを見定めようとしている。マサキは堂々と笑って言った。
「俺は望むなら全部与えてやりたい。茶ぁくらいいつでも淹れてやるし、機械が欲しいならいくらでも手に入れてやる。『そばにいてほしい』って言うなら仕事なんてくそくらえ。それで笑ってくれるなら安いもんだ」
 本気だとわかったのだろう、シキは一度目を閉じ、深く嘆息した。
「あなたが族長に就任しなくてよかったと思いますよ、マサキ様」
「大事な人間を悲しませるくらいなら、権力も立場も要らねえよ」
 吐き捨てる。
「あいつがここに居場所がないって言ったら、俺が連れていく」
 選びたいものを選べない生き方などしたくなかったし、嫌いだった。強要する周囲に反発もしたが、そのおかげでうまく生きられる術を身につけられたとも思っている。大事なものを守るための決断も、できるようになった。
「……この話はここまでにしましょう。僕は、聞かなかったことにします」
 話を打ち切った証として背を向けられ、マサキは医局を後にした。
 だが少しだけ足を止めると、机に拳を叩きつける音と「くそ」と押し殺した声が聞こえてきた。
(理性的な人間って時々可哀想に思えるな)
 シキでああなら、彼はどうなのだろう。感情を殺して常に平坦でいる我らが族長殿は、あんな風に感情を露わにするときがやってくるのだろうか。だとすればそれはどれほどの強さなのか。
 マサキは小さく首を振って思考を中断し、常識的な人間の隠しきれなかった思いを垣間見たことに満足して、その場を離れた。

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