<< |
■ |
>>
庭の木で負傷したアマーリエが治療を受けるのを見届けた後、執務室に引き上げたキヨツグは、マサキがずっと何か言いたげにしていることに気付いていた。
「どうした」
「…………いえ」
言葉とは裏腹に何か思いつめている気配だった。しかし無理やり口を割らせる気はなかったので、キヨツグはマサキから受け取った書物を手に取る。
題名は『情報処理』『情報社会』『コンピューター総合実習』。都市で用いられている教科書だ。ヒト族の文明を理解するために読み込もうと、マサキを通じてリリスに持ち込ませたものだった。
ヒト族のこれらの道具は、必ずリリスにとって脅威になる。そしてリリスが開かれるとすれば、必ず整備しなければならないものだ、とキヨツグは考えていた。
「……天様は……」
ようやくマサキが重い口を開いた。
「真様のこと、大切なんですね」
手を止めた。
何を言い出すのかと従弟の顔を見るが、マサキは顔を上げない。声の質だけがひどく低い。
「だって、そうでしょう。なんでもない相手にあれはできない」
何を指しているのかわかって、ああ、と言った。
「しかしあれはまずかった」
「まずい?」
マサキがようやくこちらを見る。
「唾液は消毒にも止血にもならぬ。水で洗い流すべきだった。真に悪いことをした」
血が流れるのが哀れだったせいだ。他人に舐められるのはさぞ気分が悪かっただろうと気付いたのは手当を受けている最中だった。だが謝罪する機会を逃し、いまに至る。
マサキは複雑そうな顔をしていた。
「……まあ、オイシイって言われるよりいいですけど」
「美味いはずなかろう」
するとマサキが苦いものを飲み込んだような顔になった。
「だとしても、あなたがそれだけのことをする理由が、彼女にはあるんですよね」
キヨツグが捉える前にマサキは立ち上がり、お茶を貰ってきますと言って逃げるように部屋を出て行った。
「天様、お渡りが始まりました」
数分と立たず護衛官に天気雨を告げられ、キヨツグも席を立った。準備が整い次第、儀式を行わなければならない。神酒と花を捧げる小さなものだが、天と呼ばれる族長としての義務だった。
(……義務か)
確かにキヨツグにはアマーリエを気遣う義務があった。都市の花嫁はリリスにとって重要な意味を持つ。マサキの言う通り、彼女にはキヨツグにそうさせるだけの理由がある。
だが本当にそれだけか、と内なる己が囁く。
キヨツグは一度目を閉じた。それだけだ、と答えを与え、何も望まないと告げたことを思い出し、己を戒めた。
そのわずか後に、想いを自覚させられることになるとも知らず。
*
見えない手に背中を押され、ドアの向こうまで押し出された。
アマーリエは倒れ込む暇もなく目に映らない無数の手に翻弄され、マンションの外へと突き飛ばされる。見えないものが恐ろしくて必死に助けを呼ぶが、そこにいるのは半透明の灰色の人型の影ばかりだ。
やがて都市のゲートまで追い詰められるが、ゲートが開くまでの間、アマーリエは見えない手に肌を突き破るのではないかと思うくらい、金属製の扉に身体を押し付けられていた。
「どうして私が出て行かなくちゃならないの!?」
――だってお前は他人だから。
声なき問いに答えが返り、アマーリエはひっと悲鳴を飲み込んだ。
他人、たにん、他人、と無数の声が繰り返す。
途端に、すべての世界が静止した。
耳が痛くなるほどの静寂に、青ざめたアマーリエの息だけが荒い。アマーリエが逃げ場を探した瞬間、世界が大波のように押し寄せた。
なら――その血はなんだ!!
次の瞬間アマーリエはリリスの民族衣装に身を包んでいた。違和感を覚えて押さえた左手から溢れ出した血が、しとどに手のひらを濡らし、滴っていく。その色を見て絶叫するアマーリエに、声が追求した。
――お前は『何』だ!?
その血は、ヒト族にはあり得ない色をしていて。
大きく喘いだ自分の声で目が覚めた。
見慣れた天井の模様を見つめ、大きく息を吐く。
全身がだるく、びっしょり汗を掻いていて、背中が冷たい。汗を拭いたいけれど身体を起こすのも億劫だった。
(夢……久しぶりに見た……)
毎日夢など見ないほど深く眠り込んでいたから、リリスにやってきて初めての夢と言ってもいいかもしれない。
「……嫌な夢……」
こういうときにはキッチンに行って何か温かいものを飲んだり、落ち着くまでテレビを見たりして、夢を忘れようとしていたものだが、ここではそうもいかない。
そのせいだろうか、いつもならすぐに曖昧になってしまう夢は、アマーリエに未だまとわりついていた。
ヒト族でなくなったものを都市が閉め出した、そういう夢だった。
(……なら、私は、閉め出されるべきものになったの……?)
横になったまま膝を抱えるように小さくなった。
何故か無性に帰りたくなる。でも帰れない。けれど帰りたい。追い出されそうになったからしがみつこうとしているのだろうか。捨てられそうになったから捨てないでと叫ぶような、子どもじみた執着で。
ようやく身体を起こして隣の部屋に行くが、そこも闇に沈んでいた。手探りで部屋に中央まで行く頃には目が慣れてきたが、視界はざらざらしていて昼中に見るようにはいかない。
そんなとき、あの都市の明るさを思い出す。世界と自分を結ぶ糸が、斜光となって夜の中で光っていた。明日もきっとその光を結べると信じて、不安にも思わなかった。
あの光はここには届かない。
夜の底のような場所で思う。故郷の灰色の街は、いまどんな姿をしているのだろう。
<< |
■ |
>>
|
HOME |