<<  |    |  >>

 乗馬の授業も気がそぞろになって、主人の様子に気付いたらしい落花が勝手に足を止める始末だった。声をかけても落花は鼻を鳴らして、苛立ったように蹄で地面を掻いている。
 その様子に気付いたユメがやってきたので、アマーリエは困惑顔で言った。
「あの、突然止まってしまって……」
「真様の気鬱を感じ取ったからでしょう。心配事がございますか」
 大丈夫だと言う前に「馬をお下りください」と促され、従うしかなかった。
 また人に心配と迷惑をかけてしまった。どうしてこうなんだろうと思う。悪いのは自分だけだから、自分でなんとかしなくてはいけないのに。
 落花が顔を近付けてきたので、それを撫でてやると、満足したように頷いて彼女は馬場の広い方へと歩いていった。心地よい風が吹いて鬣や尾が揺れている。せっかく練習に付き合ってくれているのに、悪いことをしてしまった。
「悔しいな。私が乗るよりも気持ちよさそう」
「あと少しです。あとひとつ呼吸が揃えば、落花も真様も自由に駆けられましょう」
 確かに最初は落馬が多かったけれど、いまは軽く駆けるくらいには上達している。いつか全力疾走できるくらいの腕前になりたいものだ。
 目を閉じて感じる風は、どこから吹いてくるのだろう。いつか都市の風になって吹くのだろうか。都市にいた頃には考えられないことがたくさんあったけれど、それらがアマーリエの新しい日常を形作っていた。
 ユメが待っていてくれると知りながら、アマーリエはまったく違うことを口にした。
「ユメ御前は、どうして護衛官になったの?」
 彼女は少し意外そうな顔をしながらも、答えてくれる。
「オウギ・タカサをご記憶ですか?」
 キヨツグの補佐兼護衛官の、あの無表情で無口の男性だ。影が空気かという印象の人で、不思議なことに美しいという覚えはあるのに顔がうまく思い出せない。けれどキヨツグのそばにいるオウギといえば彼のことだからと、頷いた。
「タカサ家は我がイン家と繋がりが深い氏族で、私は幼い頃父と祖父のほかに、オウギからも剣術の指導を受けておりました。歳の離れた幼馴染み、というところですね。オウギはあの通り無愛想な人ですが、武芸の稽古となると多少人間味が出るので、私は妙に彼に懐いてしまって」
 そのときのことを思い出すのか、くすぐったそうに笑っている。
「私はオウギが大好きで、彼と同じことがしたくて、後を追いかけるように強くなろうとしました。オウギが当時公子様でいらした天様の護衛官になると聞いたとき、同じ道を行くと決めたくらいに」
「そうなんだ。それが、護衛官になった理由なんだね」
 だが昔語りは終わらなかった。ユメは微笑み、言葉を続ける。
「――ですが、それで虚しくはないのかとある人物に言われました。それがなまじ私と正反対の人間でございましたゆえ、私は怒髪天を衝く勢いでその者と仲違いをしたのです。私にはこれしかないのに、彼を目指してここまで来たのに、どうしてそれを否定するようなことを言うのかと」
 冷静で穏やかなユメが激怒して喧嘩をする、なんて想像もできず、アマーリエは目を瞬かせる。
「他に何が出来るのかわからず、旅に出ようとしました。けれどその者はさらに言ったのです。『逃げるんだな』と。思わず殴ってしまいました」
 ユメは拳を握ったので、アマーリエはますます驚いた。
「ならどうすればいいのだと言って掴みかかると、『お前は何をしたい』と問われ、私は、ずっとオウギのようになりたかったのだと告白しました。すると彼は言いました」
『なら、それを目指し続けろ』
 否定が転じて激励に変わったのだ。ユメの驚愕はどんなものだったのだろう。けれど彼女は、その思い出を語りながら笑っている。
「……目指し続けたんだから、何を言われても目指し続けろ、ってこと……?」
 頷くユメは嬉しそうで、その思い出を大事にしてきたのだとわかる表情だった。
「その言葉を抱いて旅に出ました。実はそこで死に掛けまして」
 照れ臭そうに頭を掻いているが、そこは照れるところではないだろう。昔の思い出だとしても死に掛けたのは、さすがに笑えない。
「もう帰れぬのだと思ったとき、心残りとして浮かんだのは、彼に恨み言を言うことでした。そのとき帰らなければならないと強く思ったのです」
 ユメにつられて空を仰ぐ。翼を広げて行く鳥が、まっすぐに東を目指していく。
「最後の瞬間だと思ったとき、自分のことではなく誰かのことが浮かんだのならば、それはきっと、真実なのです。嫌っているはずの相手を思うことはありうるのです。私にとって、それは初めての恋の形でございました」
 アマーリエのその場しのぎの話題に応えながら、ユメはアマーリエの疑問が解けるように大事なことを話してくれたのだとわかった。
 真実の思い。相手を思う心。
 ユメの物語はこの蒼穹にふさわしい、おおらかで美しい恋だと思った。
「あなた様にもきっと、訪れまする」
 彼女は見守るように微笑んでいる。
 政略結婚した自分にも、彼女の言うような人に巡り合うことができるのだろうかと考える。けれど、恋を知らずに生きてきて、最後の瞬間にしかわからず、その花は誰にも知られることなく散っていく、そちらの方が確かな未来のようにも思えた。
 胸元に触れると硬いものに指先が当たる。その時計を意識して、息を吸う。
 生き物の匂いにはだいぶと慣れた。リリスという国と人々に少しずつ馴染んできているというのに、少しぎこちないのは、アマーリエがリリスではないからだ。
「……私、ここが好き」
 それでもそれは本当の思いだった。
「暮らしていくうちに、リリスという世界が私のいままでの世界に寄り添い合うように存在してるんだとわかって。心が、ちゃんと存在しているんだなって思って」
 懐中時計の輪郭に指を滑らせる。
「心があると、好きになってほしいって思うんだ。でも好きになってもらっても、どうすれば応えられるかわからないの。自分が同じだけの気持ちを持っているのかも」
 好きとか恋とか愛とか、わからなかった。寄せられる思いが本当のものなのかも判断できなかったし、抱いている好意がどんな形でどんな色をしているのかもよくわからない。この気持ちをなんと呼ぶのか。この思いを表す正しい言葉はなんなのか。笑えば嬉しかったし、泣いていると悲しくて慰めてあげたくなる。楽しいおしゃべりは好きだし、親しくなりたいと思うときもある。
 そしてここに来て、アマーリエはますますわからなくなっている。
 その人を思い浮かべるとき、泣きたい気持ちになるのは何故。恥ずかしいような、笑ってしまいたくなる気持ちはなんと呼ぶの。胸が痛むのはどうして。どくんと鳴り響く鼓動の意味は。
「都市では、いまほど難しくなかった気がするの。だって、嫌だと思えば関わらなければいいんだから」
 夜眠る前に解いた糸を、朝目覚めて繋いでいく。必要なければ切っていき、不用意に切れることもある、関係性という繋がり。世界はそういう風だからくだらなくて誰もが孤独だと、冷めた気持ちを抱いたこともあったのに、あのすぐに切れたり繋いだりできる糸が、懐かしい。いまは誰と繋がるのかも、誰と繋がりたいのかもわからないでいるのだ。
「真様は……」
 ユメは言いかけて、首を振り、微笑みを浮かべた。
「真様はご立派です。ヒト族の今代真夫人は、リリスに教えを乞うてリリスを知ろうとする幼い方、親しみ深く毎日挨拶の言葉をくださる御人だと、皆の評判になっております」
 目を丸くした。初耳だった。自分がどんな噂をされているか聞くほど、恐ろしいものはないけれど、ユメは嬉しそうにしている。
「え、だ、だって、それは当然だと思ったからで……リリスの一員になったんだから郷に入っては郷に従えって……言うでしょう?」
「そのお気持ちを抱き続けられますよう。周囲が真様に好意を寄せるのは、真様が周囲を好もしく思っているからでございます。真様が裏切らないかぎり、誰も裏切りませぬ」
 柔らかく見つめるユメに対して気恥ずかしくなり、目を逸らしたところで、彼女が低く言った。
「思いは、量れませぬ」
 どきりとする。
「……わかってる」
「おわかりではありませぬ。同じだけの思いを抱くことなど、誰にも出来ませぬ」
 ユメが指笛を用いると、落花が戻ってきた。アマーリエの顔を見るなり、落花が眉をひそめたような気がしたのは見間違いだろうか。仕方ないわねという仕草で、落花はアマーリエに鼻面を押し当てる。
 まるで縋るようにしてアマーリエは彼女を撫で、目を閉じた。
 ならどうして恋愛は成立するの、とは、聞けなかった。

 裏切らないかぎり、裏切られない。
 文字を追って疲れた目を閉じたそこに、その言葉が浮かぶ。
 なら、帰りたいと思うのは裏切りなのだろうか。
 マサキの顔がよぎった。真剣な顔。声。抱きしめられた。帰してやると言った熱。
 帰りたいと思う気持ちは心の中に深く根ざしている。いまでも都市のことを思って胸をざわめかせてしまう。
 ただあのときは、何か別の景色が割り込んでそれを解消したように、思う。記憶の景色に思いを馳せていた自分が、ふと地上に目をやって、立ち止まらなければと思った。
(あれは、虹の……)
 扉が開いた気配で振り返ると、キヨツグと目が合った。
「真。……まだ起きていたのか」
 表情は変わらないが声には驚きがある。
 マサキに告白されたことが急に思い出されて、俯いた。顔を赤くしてはならないと思いつつも逸らした目が泳ぐ。気付かれてはならないと思うあまり、早口でどもりつつ説明してた。
「あの、あの、予習と復習を、しようと思って。その、今日は私の都合で、授業を中止、というか、中断、してしまったので……」
 ふと違和感を覚えて目を上げ、わかった。キヨツグが寝間着でないのだ。
「……眠ってますか?」
 不意の質問に、キヨツグはゆっくりと目を瞬かせた。
「……何故そんなことを聞く」
「だって、あなたは全然この部屋で眠っている様子がないから」
「……確かに、ここでは眠っていない」
 やっぱり! と目を吊り上げたアマーリエだったが、もし彼が自分といるのを嫌がっているのだとしたらと思うと、急に感情が萎んでいった。
「……あの……すみません、部屋、別にした方がいいならそうしてください。私に対する気遣いとか、大丈夫ですから。リリスには一夫多妻の風習があったと聞きましたし、少し前の天様にも奥様が複数いたそうですね。もし別の奥様が必要なら、そうしてください」
「何故そうなる!」
 低く吠えるような声が響いて飛び上がった。
 また怒らせたと気付いて青くなる。そう、アマーリエは以前にも彼を怒らせていた。だからまた嫌われるかもしれない。
 するとキヨツグの顔に、後悔に似た影がよぎった。険しくなっていた目元が少しだけ和らいだが、完全に苛立ちを殺すことができずに目を逸らしている。一度息を吐いた後の押し殺した声が言った。
「……私は他に妻を迎えようとは思っておらぬ。いらぬ考えを働かせるな」
「す、すみません……!」
 ため息が重い。窺い見た横顔は疲労の色は濃いけれど、相変わらず綺麗だった。影の中で光って見えるほどに。
「……お前こそ、どうなのだ」
 アマーリエはきょとんとする。
「……どう、って……?」
「……思う相手はいなかったのか」
 とてつもない痛みが胸に走る。
 理由のはっきりしない鋭い衝撃に胸を押さえ、目を白黒させた。思い浮かんだ相手などいない。彼に問われただけだ。それに傷付いたのだろうか。そうだとしても、どうして?
「い、ません……。男性とお付き合いしたことって、その、ない、ので」
 交際やそれに至るまでの諸々を飛ばして、さらに交際後の恋人期間を持たないまま結婚したアマーリエだったので、彼の考えがよくわからないきちんと手順を踏んで結婚していたら、伴侶のことはおおよそ理解できるのだろうと思うと、ひどく悲しかった。
「…………何故…………のか……」
 キヨツグが呟いたが、聞こえなかったので顔を上げる。
 彼は目を細めて、どこか不機嫌に、拗ねているようにも見える様子で何か言ったようだった。だがすぐに背を向けられてしまう。
「……早々に休め。私はまだ仕事がある」
 扉が閉められると、また一人になる。
 何もかも中途半端に放り出されて、うまく考えることができない。
 のろのろと机に向かい直したものの、集中が続かず、結局すぐに布団に潜った。そういえば今日は毛布をかけてくれなかったから、一人で寄せ集めてくるまった。
(……『何故わからぬのか』って、言った?)
 何が『わからない』というのだろう。ここに来ても、いやここに来る前からも、アマーリエにはわからないことだらけなのだ。

<<  |    |  >>



|  HOME  |