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その日のサコの授業ではお客様のもてなしに関する礼儀作法について学んだ。キヨツグの叔母、マサキの母親である、シズカ・リィという人と会ったときのための備えだということは明らかだった。
夜になり、アイたちが火を入れに部屋を回っていく。その合間の薄闇の中で、アマーリエは部屋の片隅に座り込んで、携帯端末を開いていた。
次第に暗くなっていく世界で、ぼうっと人工的な青白い光を放つディスプレイが、アマーリエの顔を照らす。眩しい画面を食い入るように見つめ、両手を使って本文を入力していく。送信先にはいくつものアドレスが連なっていることを確認し、送信ボタンに手を伸ばす。
本当にいいの、と声がする。
これでいいの、と声が答える。
ぎゅうっと押し込むように送信ボタンを押した。送信中のアニメーションが映し出された後は、アマーリエは涙をこらえながら膝に顔を埋めた。
満足する自分と、どうなっても知るものかという投げやりな自分を感じる。
送信完了の表示を見た後は、すべてに蓋をするように携帯端末を閉じ、電源を切った。
*
夜になってキヨツグの使いがやってきて、応接の間に来るようにと指示があった。いよいよキヨツグの叔母シズカとの対面だ。
支度を整えて応接の間に入り、キヨツグのいる上座の、下手寄りに小さく控える。応接するのは初めてだったが、いつになくアマーリエは冷静だった。多分いまの自分は冷たい表情をしていることだろう。百戦錬磨の女優のように感情を覆う仮面は、緊張を解く代わりにアマーリエに人形じみた微笑みを浮かべさせていた。
正面にはマサキと、彼を控えさせるような位置に座っている美貌の人がいた。
光り輝くように美しく華麗な女性だ。着ているものも施されている化粧も、アマーリエを圧倒するくらい豪華だった。
「変わりないかえ、キヨツグ」
「ええ。ご機嫌麗しゅう、シズカ叔母上」
吊り目の縁を黒く囲み、朱色を指している。睫毛は長く、眉はくっきりとしていて意思の強さが表れているようだ。口紅のせいだけではない妖艶な表情もあって、かなりの美女だがなんとなく尻込みしてしまう雰囲気がある。
この人がシズカ・リィ。キヨツグの叔母は、見た目は二十歳半ばほどの艶やかな人だった。
彼女はほうっと物憂げな息を吐いて部屋を見回している。
「ああ、この宮は変わらぬの。懐かしい香りがする。変わったといえば、妾が嫁いだこと、兄上様が亡くなったこと、そなたが族長となり、ついには妻を迎えたということか」
アマーリエは改めて背筋を伸ばし、両手をついて深く頭を下げた。
「叔母上。これは我が真夫人。アマーリエ・エリカという」
「アマーリエ・エリカでございます。リィ家の巫女様にお目にかかることができ、光栄です」
目を伏せていても、シズカが笑ったのが感じられた。
「ヒト族と聞いておる。リリスの暮らしは、さぞ勝手が違って大変であろうの」
「皆様によくしていただいているおかげで、慣れてまいりました。リィ家の当主殿にも目をかけていただいております」
「それはなにより」
扇で口元を隠しながら、シズカは言った。
「今度妾のところで茶でもどうかえ?」
「ありがとうございます。是非お伺いさせていただきたく存じます」
一通りの会話が終わると、シズカはキヨツグと話し始めた。彼の父親の妹だというシズカは、生まれ育った王宮の華やかさとリィ家の領地やその環境と比べながら思い出話に興じ、キヨツグの言葉少ななやり取りでも十分に満足しているようだった。
やり取りに含まれる目の動きや声の調子、唇の端に乗った微笑などから感じられた通り、シズカはアマーリエに大きく関心を持っているわけではないようだ。どちらかというと、どうしてこんな娘が族長の妻なのかと思っているらしかった。
だがそう思ったとしても仕方がないくらい、シズカは洗練された貴人だった。視線のやり方、息の吐き方、手の動かし方。すべてをとっても完璧な『姫君』の形をしているのだった。
しばらく話して満足したらしく、シズカはマサキを伴って退出していった。ほとんど黙っていたマサキは、つとこちらを見て何か言いたげにしたが、アマーリエは目礼だけを返し、彼女たちの退出を見送った。
その日の夜も、アマーリエは一人だ。
寝室の窓を開け放ち、見上げた空の、雲に隠れつつある星は、眠らない故郷の街を思い出させる。雨を呼ぶような湿気を含んだ風も、ビル風の冷たさに似ているような気がする。
「アマーリエ」
囁くように聞こえた声に、アマーリエは窓辺にもたせかけていた身体を起こした。
部屋の中にはもちろん誰もいないし、外には。
「アマーリエ、ここ」
外の闇の中に、浮かび上がった影があった。
「ま……マサキ!?」
大声をあげてしまい、慌てて口を押さえる。窓から身を乗り出して「どうしたの!?」と声を抑えて問いかける。
「こんなところ、誰かに見られたらただじゃすまないでしょう。キヨツグ様の従弟だからって、寝殿になんて」
「いま誰かいる?」
焦りと動揺で乱れる言葉を受け流して、マサキが言った。アマーリエは首を振った。
「そ。ならよかった」
身軽によじ登ってきた彼は、床に足をつけることはせずに、窓枠を跨ぐようにして腰掛けた。目が合えばにこーっと嬉しそうな笑顔なので、頭痛を覚える。
「悪いな。実は会いたくてたまんなかったんだ」
悪い、にはこれまで避け続けていたことに対する謝罪が含まれていた。伸ばしたマサキの指先が頬に触れ、一歩引くと、彼は苦笑した。
「なんかあったろ?」
傷付けたはずなのに、こちらを気遣う。その言葉に面食らう。
反応するつもりはなかったのに目を伏せていた。
「もしかして、もう母上が?」
「……シズカ様?」
アマーリエの反応がいまいちだったので、マサキはため息をついた。だが安堵の息だった。
「そう。あの人、リリス至上主義だから。早速なんかされたのかと思ったけど、違ったんならいい。でも気をつけろよ」
立場が上でもアマーリエの立ち回りが上手くない以上、難しく感じられたが、頷いた。気難しそう、少し意地悪そうだと思ったのも事実だったからだ。
あからさまに避けられはしないが心の武装をしておくべきだろう。リリス至上主義というものの具体的な言動がわからなかったが、ヒト族が他種族を見下すのと同じようなものだと考えれば、忍耐を必要としそうだ。
そして思う。リリスに来てから、これまでほとんどの人に好意的な笑顔で接してもらってきたこと。リリス至上主義とされる人々にいままで遭遇していていないことが、不可解で奇妙に思えた。
(誰かに操作できるものじゃない……よね?)
答えが出ないであろうその疑惑を振り切り、アマーリエはその忠告に来てくれたマサキと向き合った。
「……もしかして、それを言うために来てくれたの?」
「さあね。じゃあ母上のことはいいとして、じゃあなんかあったのは、天様関連?」
アマーリエは首を振る。
「大丈夫。なんとかなるから」
アマーリエが都市を思ったり帰りたいと感じたりする、それらを口にしなければその問題は現れることはないし、互いに不愉快にならないのだから、自分一人が秘めておけばいいだけなのだ。
アマーリエはリリスに嫁いだヒト族だ。ここで生きていく。生きていかねばならないのだから、リリスがアマーリエの居場所だろう。お前はここで暮らしていけばいいと言われただけなのだ。
(でも)
居場所は、都市にも残っているはずだった。懐を押さえる。まだ繋がっているのだから。
マサキは難しい顔で目を細めていた。
「なんかあったら、俺を頼れ。俺は、お前の味方でいる。ずっと」
「……うん。ありがとう」
「わかってねえな。ホントだぜ、これ」
本当の言葉と言われて、アマーリエは以前にもそれをもらったことを思い出した。それにちゃんと答えを出さなければならないのではないか。
「あの、マサキ」
だがその前にマサキは、気配を察したようなタイミングでふわりと外へ飛び降りた。
「おやすみ、アマーリエ」
地面を蹴る音も立てずに、マサキは闇の中へ消えていった。
残された気配は風に吹かれて霧散していく。見つからなければいいと祈った。また、夜の雨が降り始めようとしていた。
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