―― 第 7 章
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 春を間近にして、厳しい冷え込みがリリスを襲った。暖かい日があったと思えば急に真冬並みになって、仕舞われ始めていた火鉢が再び活躍し、虫干しを行う予定だった衣について下働きの者たちが頭を悩ませている。山脈は新しい雪で白く塗られ、アマーリエの衣装は春物から冬物を行ったり来たりするようになった。
 季節が移り変わるときだというのに、王宮は静寂に満ちていた。アマーリエの逃亡騒ぎが大きく影を落とし、晴れやかだった宮中の雰囲気は一変したが、ここにキヨツグの長い沈黙もまた多大なる影響を及ぼしていた。
 アマーリエの行動はもちろんのこと、キヨツグが動かなかったことも人々の失望を買うことになった。夫婦生活が破綻しているという噂が、確実なものとして、リリス中に広まったようだ。当代の真夫人は役目を果たさなかった上に、別の男と逃げようとした大罪人だ、という冷たい視線は、いつどこで何をしていてもアマーリエに突き刺さった。
 氷に閉じ込められたような空気の中、アマーリエは埋もれるようにして静かに息を殺していた。何事もなかったかのように微笑みを貼り付け、以前と変わらない日常を送ろうと努力を試みた。
 しかし、移動するときには侮蔑の視線が、すれ違いざまに挨拶をするとおざなりな返事が、姿が見えないと思ったら悪意が込められた噂話を囁かれるという状況で、いまや周囲のほとんどが敵と言ってもよかった。毎日が重く感じられ、助けてくれる人は失くしてしまったという後悔に、何度も打ちのめされた。かろうじてアイたちは慰めてくれていたが、心が離れた女官も多かった。
 しかしそれが、アマーリエの選択の結果なのだった。
 部屋に閉じこもったり、何もせず一日を過ごしたり、ということは恐ろしくて出来ず、毎日の稽古事を、自分のすべきことなのだと支えにして必死に取り込んだ。叱られてもどれだけ失敗しても、もう怖くなかった。もっと怖いことを知っていたからだ。
 ぱきん、と枝が切られる音に我に返る。
「そら、これでいいかね」
「ありがとうございます」
 早咲きの花枝を受け取る。誰かと話す時間が少なくなってしまったため、庭でぼんやりするようになってから知り合ったのが、この庭師の老爺だった。
 長い白髪を束ねた彼は、長年この仕事に携わってきたがゆえのがっしりとした体格の持ち主で、しかし口調はいつも大雑把だった。アマーリエを真夫人と認識しているかも怪しいくらいだが、彼に言わせると、身分が花の肥やしになるかねということらしい。
「生きる上じゃあわずらわしいことばかりだが、まあ、花を愛でる心があるなら良し、だろうよ」
 ざっくりとした口調が、いまのアマーリエには心地いい。
 常に携帯しているという煙管に燐寸で火をつけて、彼は硬い蕾の花を見遣る。
「俺ぁここの花を世話するだけだが、リリスにしか咲かねえ花もあるっていうのを想像すんのが楽しんだよ。ここには花がある。それでいいじゃねえか、なあ?」
 ぽんと灰を落として、アマーリエににやりと笑う。
「花が咲いたらまた来いや」
「多分、もう咲いてます」
 アマーリエは微笑んだ。
「後は、見てもらうだけなんです」
「そうか。それが一番難しんだよな」
 花の番人はしみじみと言って、枝を手にしたアマーリエを見送った。
 部屋に帰って一つ二つ花が開いたその枝を生けてみると、幾分か室内が華やいだ気がした。花は綺麗だ。罪がない。
「綺麗ですわね」
 じっと見ていた後ろからアイに声をかけられた。彼女はいつも通り、とは少し違う落ち着いた笑みで、薄紅の花が連なる枝を見つめている。
「うん、綺麗だね」
「髪に挿しましょうか。きっとお綺麗ですわ」
 少し考えて、頷き、滑り寄ってきた女官たちによって髪を結いなおしてもらう。
 せっかくなので外を散策しようと言われ、何人か連れて部屋を出た。この『何人か』も贔屓と言われてしまうようになったので、同行者の人選は、任せてほしいと言ってくれたアイにそのまま頼んでいた。彼女もよくわかっているのか、親しい女官もいればアマーリエを快く思っていない女官を織り交ぜて動向を命じているようだ。さすがに気を使って、人数は減っている。
「あちらの庭に参りましょう」
 先導に従って進んだときだった。
「あ……」
 向こうの廊下にキヨツグの姿が見えた。人に囲まれている上に距離が遠かったのでこちらに気付いていない様子だ。
 つきん、とした痛みが胸に走り、目を閉じる。
 その理由は、もう理解し始めている。

「真様!」
「はい」
 いつもより張り詰めた雰囲気の中で行われていたサコの授業の中で、ぼうっとしてしまうのはよく眠れていないからだ。意識が一瞬飛んでいたが、平然とアマーリエは答えた。
 こういうずるい技を、この数日間で身につけるようになっていた。微笑みを添えれば注意を飛ばしたサコは面食らったようで、眉間いっぱいに皺を寄せ、深いため息をついた。
 すると彼女は何故か女官たちを一斉に下がらせた。きつい叱責の言葉が飛ぶのだろうかとアマーリエはわずかながら身構えたが、思いがけないことが起こった。
 サコは、ぽん、とアマーリエの頭に手を置いたのだ。
「あなた様はよう頑張っていらっしゃる。それは私も存じておりますし、皆も知っています。それを無駄なことと断じる愚か者の言動に惑わされてはなりません」
 老女の手は、優しかった。いつも厳しい人がこんな風に優しいと、やはり自分はひどいことをしたのだと思い知らされて泣けてきてしまう。だが涙をこぼすわけにはいかないと、食いしばるようにして言った。
「……けれどこれは、私が受けなければならないことなんです」
「ならば何をせねばならないかもご存知ですね」
 頷いたけれど、取り戻せないものもある。
 失われた心、深い傷。心は新しいものに取り替えることなど出来ないのは、世界を取り替えることができないのと同じくらいの真理だと思う。けれど。
 もう一度、彼の前に立ちたい。
 祈るための神様を都市の人間は持たない。だから願いは、自分と相手に託す。
 一度だけ。そうすればきっとわかるから。光が差し、涙を得た花が息を吹き返す。そうすれば見てもらえる。この、咲いた花を。



 打ち合わせを行うべく会議の間へ移動する、その合間でも話を聞いてほしいと言われ、仕方なしに頷いたのが最後だった。後をついて回る男が喋るに任せていたキヨツグだが、同じ話が三度目にもなるとさすがに辟易した。
「ミン卿。その話はもう十分だ」
「お聞きください、我が娘は二十五の盛り。天様のお相手として十分務まるかと存じます」
 遠回しにもう十分と告げたつもりだったが、彼は目を光らせてキヨツグを見つめる。
「よもや、あのヒト族の方をこのまま真夫人の座につけたままになさるおつもりですか?」
 ミン家の当主はリィ家の分家に当たる。シズカとも繋がりが深いためか、ヒト族に対する差別意識が強い。
 この男の言うことに従うつもりはなかったが、しかしこのままではいられないことも心得ているつもりだ。
 アマーリエの裏切り。あれは取り返しのつかない振る舞いだった。
 蕾を潰せば花は咲かぬ。枯れるか、もう一度伸びるか。それを枯らさぬ水や養分を手にしているキヨツグの選択によって、その花の行く末は決まるだろう。これほど重い選択もない。
 聞く耳を持たない態度を取るのは彼を煽ることになると考え、黙って廊下を進んでいくと、足が柔らかいものを踏みつけた。
 足を止め、一歩退く。桃色の何かがひしゃげているのをつまみ上げる。
「…………」
 花だった。何者かが落としていったらしい小枝についていたもののようだ。
 見れば、続く道に点々と花弁が落ちていた。
「天様、我らリリスの声をお聞きください。この醜聞、如何なされるおつもりです? まさかこのままお咎めなしなど甘い処分で済まされるつもりではありませぬな?」
 ため息をついたのは、このわかりきった質問にうんざりしたからではない。
「言いたいことはよくわかった。だが返答はできぬ。これはお前の領分ではない」
 はっきり告げるとミン卿は一瞬険しい顔をした。
 だが脈はないこともない、と判断したのだろう。ミンは「過ぎたことを」と言って顔を伏せ、そのまま下がっていった。押しすぎても効果はないとわかっているから、引き際を見極めたのだった。
「……もうすぐ船遊びの日がございますが、よろしいのですか?」
 付き添いの秘書官の一人がおずおずと尋ねる。
 シズカが王宮に来ていることを歓迎して、近くの大河で船を浮かべる船遊びの予定が組まれていたのだった。そこには王宮女官を始め、良家の子女たちも招待されている。ミン家の娘も例外ではないだろう。ミン卿とその娘が秋波を送ってくる可能性は大いにあった。
 本来ならこの行事は、真夫人と有力な家の女性たちの繋がりを作るために設けたものであったのだが。
「構わぬ」
 キヨツグはそう答えていた。
 手の中の花を見る。この花の名を知っていた。果たしてそれはまだ胸に咲いているのかと、自問しながら。

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