幕間 Wreath
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 花が咲くのに必要なのは。


       *


 全身を締め付けるような硬い素材で作られた衣服は、寸法に合ったものを見つけるのに苦労したのだ、と苦笑された。だがその甲斐あって、キヨツグがそれをまとうと高身長であることはともかくとして、ある程度都市の風景に溶け込んだのを感じた。
 リリス族が都市に入るためには、正規の方法よりも別の手段を用いる方が容易だ。『手』や『彫金師』、『書記官』や『風』など隠し名で呼ばれる者たちを駆使し、身分証明書を作ってしまえばいい。元々都市社会で暮らす者たちはおしなべて器用なので、身分証の偽造そのものは難しいことではない。注意すべきは、異種族であることに気付かれて騒がれてはいけないということだ。
 リリス族は総じて大柄だ。ヒト族は一般的に小柄だが、高身長の持ち主がいないわけではない。その中からリリス族を見分けるには、瞳の形を確かめる必要がある。蛇のような獣のような、縦長の瞳孔。だがこれも、色付きの眼鏡をかければ簡単に隠せてしまう。
 ゆえに一度入り込んでしまえば、リリス族が都市を歩くことは造作もない。
 大量生産品だという革の靴は、光沢を持った床を叩き、音を響かせる。
 四角く巨大な建物が居並ぶ。聞けば四階まであるというこの広く頑健そうな建築物は、すべて学舎なのだという。災害時の避難場所となると聞いたときは納得したものだった。うまくすれば砦や城として活用できるだろう。
 すれ違う者たちは一様に、キヨツグに目を向けて驚いたように一瞬足を止める。中にはぼんやりとその場に立ったまま見送る者もいる。この反応に遭遇する度に何かおかしいのかと訝しんでしまうのだが、立ち止まろうものなら不意に声をかけられて足止めを食らうことは経験済みであったため、何も気付いていないふりをして歩き続ける。
 都市においても、学舎は小さな社会として機能しているようだった。実に様々なヒト族が構内を闊歩している。大声で騒ぐ者、だらしなく衣服を着崩した者、奇抜な髪色や髪型をした者。もちろんキヨツグが着ているようなスーツをまとい、静かに歩いている男女がおり、荷を運び入れている業者の姿もあった。
 歩き回ったキヨツグは、学舎に所属する者たちが多数利用していると思しき、硝子張りの建物に足を向けた。
 扉を開いた途端、食物と調理油の匂いが流れてくる。ざっと八百人ほどが席に着けるだろうか。すでに半数が埋まっているが誰も彼も口を開いて、ざわざわと騒がしい。これ以上の数の人間がまだ構内にいるのかと思うと驚嘆の息が漏れた。しかもここにいるのは多くが二十歳前後なのだというのが信じられない。リリスでは、この年齢の人間をこれだけ集めるなど、不可能に近いのではないだろうか。
 そのようにして周囲を見回したとき、目的の人物を見つけた。
 ちょうどその背後に当たる席が空いている。靴音を響かせないようにしながら近付き、相手にこちらが見えない位置で背中を向けて腰を下ろした。
 そんな相手の席に近付いてくる者がいる。
「アマーリエ! ごめん、待った!?」
 呼ばれた娘――キヨツグの目的の人物は、開いていた書物を閉じて顔を上げた。
「ううん。本を読んでたし」
「本当にごめんね! なんか急に彼氏に呼び出されて、これからご飯食べに行こうっていわれちゃって……」
「そうなんだ。いってらっしゃい」
 穏やかな口調に、相手の娘は毒気を抜かれたようだ。
「い、いいの……?」
「最近彼氏が構ってくれなくて寂しいって言ってた子に、私との約束を優先しろなんて言わないよ。よかったね、楽しんできて」
「あ、アマーリエぇえ……!」
 感激した様子で抱きつくと、娘は勢いよく手を振って建物を出て行った。ふとキヨツグが振り向くと、硝子の向こうにその娘が硝子越しに手を振った後、恋人と思われる男と腕を組み、何事か話しながら笑顔で仲睦まじく去っていくのが見えた。
 それは絵に描いたような『恋人たち』の姿で。
「……いいな……」
 それを見る少女がざわめきに掻き消える吐息のような呟きを漏らしたのを、キヨツグは聞き取った。
 彼女が手早く荷物をまとめる気配を感覚で捉えながら、どんな表情をしているのだろうと考えた。恋人たちを見て『いいな』と呟くのは、その関係性や感情に羨望を抱いているということか。二十歳になるかならないかの、恋をすることこそ喜びに感じられるような若い娘が。
(誰か恋う相手がいるのか……?)
 だがそのような調査書は上がってきていなかったはずだ。彼女の身辺にはこれまで異性の影すらなかったようだった。自らの立場を理解して謹んでいるにしても、潔癖すぎる印象だ。もし密かに恋う相手がいてもおかしくはない。
 荷物を手にした彼女が建物を出て行こうとするので、後を追った。
 追いはしたものの、途端に彼女は扉を出てすぐのところで立ち止まってしまう。
 灰色の曇り空から落ちてくる雨は小降りになっていたものの、雨よけとなるものがないのでどうしたものかと考えているらしい。
 それに並ぶようにして、少し離れたところでキヨツグは空と彼女の横顔を窺った。
 鈍色の髪に、明るい赤みを帯びた瞳。化粧気はほとんどない。活動的だが清潔感のある格好で、女性が身につけるというスカートではなく足をすらりと見せる脚衣姿だった。
 これが第二都市市長の娘アマーリエ・エリカ・コレット。キヨツグの花嫁候補の一人だ。
 調査書から読み取った印象だと何事も控えめな性格のようだったが、姿を見ていると一概にそうとは言えなさそうだ。知人に対する話し方から、穏やかな気性ではあるだろうが、医師を目指して勉学に励もうというのならば意思が強いのかもしれない。
 興味を覚える。この娘、いったいどのような人物なのだろう。
「あ」
 そう自覚した瞬間、アマーリエは声を漏らした。
 視線の先では、空が緩やかに明るさを増し、やがて虹の橋がかかった。見事な大きさだ。
 アマーリエは素早く周囲を見回し、ぱっと、キヨツグを見た。
 どこか寂しげだった顔に、温かな笑みが広がっていく。
「虹。綺麗ですね」
 ――どくり、と胸が騒ぐ音を聞いた。
 自身の台詞に恥ずかしそうに頬を染めた彼女は、そのまま荷物を抱えるようにして走り去った。霧雨を抜け、虹の橋を抜けるようにしてまっすぐに。
 キヨツグがそれをいつまでも見送っていたのは、刹那の邂逅が繰り返し思い出されたからだ。
 優しい口調。
 羨望を込めた呟き。
 寂しげな佇まい。
 すれ違っただけの者に美しいものがあることを知らせていった、温かな笑み。
 そうして想像する。あの娘は、本当に恋う者にどのような微笑みを向けるのだろう。どのように、その名を呼ぶのだろう。
 ――それを、欲しい、と思ってしまった。
 ひとすじに誰かを想うのならば、どうか、その花のように甘い色の瞳で、私を。
 どく、どく、と打つ胸を押さえて、決める。花嫁を選抜するにあたってすべき事項を頭の中に並べていき、それを淡々と処理する己を想像した。恐らく何の障害もなく事は運ぶだろう。運ばせてみせる、と思う。

 一度きりの邂逅を理由に、その未来を奪うことになっても。
 彼女を、望む。

 それが始まり。

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