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 衣装に選んだのは愛らしい薄紅。気持ちを引き締めるために白や金が入った帯を選び、お守りとして、キヨツグの色である紺桔梗の飾り紐で髪をまとめる。
「本当に、本当に、行かれるんですか?」
 もう何度目かになってしまった問いかけに、アマーリエは苦笑する。
 姿見越しに映る女官の顔はどれも心配そうで、唇を尖らせている者も、明らかに憤慨している者もいる。アマーリエの着付けが下手だから怒っているのではない。それを着てどこに出掛けるのかが、彼女たちの怒りの矛先なのだった。
「真様を呼びつけるなんて」
「シズカ様のお茶会に行っても嫌な思いをされるだけですわ」
 アマーリエが出奔したきっかけになった、シズカたちの陰口のことは、いつの間にかアイたちの知るところになっていた。それは彼女たちが口々にシズカを非難しながら招待状を破り捨てたことで知った。きっとみんな最初から、あの人の笑顔に隠された本音を薄々察知していたのだろう。
「でもね、呼ばれたもの」
「真様……」
 それでも、と彼女たちはやっぱり不満そうだが、苦悩の末にアイが言った。
「……恐らく、その席にはユイコ・ミン様がお出ででしょう。何かあったら、あの方を頼ってください」
 川遊びのときに少し話した綺麗なあの人だ。
「実は、わたくしたちは、シズカ様のお茶会の後でのやり取りを、ユイコ・ミン様から伺ったのです。天様のご謁見なさった後のユイコ様を廊下で捕まえて、何があったのかとお尋ねしました」
 ユイコは、天様にもご報告いたしましたが、と前置きして、密かにアイたちにも耳打ちしてくれたらしい。シズカのお茶会がどんなものだったのか、アマーリエが去った後の様子。さらにはアマーリエが逃亡した後に行われた茶話会で、シズカが何を言っているのかということまで。
 やっぱり嫌われているのか、と苦しい気持ちになった。いまシズカが何を言っているのかまでアイたちは語らなかったけれど、アマーリエの評判が落ちたことをさぞかし喜んだことだろうと想像できてしまったからだ。
「……やっぱり、行くの止めたいな……」
「あら! ではお断りのご連絡をいたしましょう! せっかくですから天様をお誘い申し上げてお茶でも……」
「ご、ごめん、嘘!」
 呟いただけなのに嬉々としてみんなが動き出すので慌てて止めた。
「返事をしたんだからちゃんと行くよ。手伝ってくれる?」
 女官たちは渋々アマーリエの着付けに手を貸してくれた。何人かはまだぶちぶち文句を言っていたが、アマーリエの意思を曲げるようなことはしない。
 支度を整えた後は、ひとつ頷いて、彼女たちに笑いかけた。
「みんな、ありがとう。私は大丈夫。じゃあ、頑張ってきます」

 その日の茶会は庭に面した部屋でお茶と菓子をつまむ会だった。あちこちで笑いの花が咲き、絢爛な装いとともにまるで絵画のような雰囲気だ。
「美味なる茶はリリスの妙薬。真にも是非にと思ってな」
 そう言って渡された茶碗は、油滴が輝く漆黒の美しい品だった。それとなく周囲を見たところによると、アマーリエのそれだけ違う、とはっきりわかる高級なものだ。
「ありがとうございます、いただきます」
 手ずから入れてくださったお茶なので、礼を言ってまずは一口。
 そうしてアマーリエは密かに眉を上げた。口の中でわずかに含んだそれを転がす。ハナとの授業で鋭敏になった舌の感覚が、ただごとではないと伝えてくる。
 取り巻きたちは何も気付いていないようで和やかに会話しているが、こちらを見るシズカの笑みは麗しく、どこか蛇のようだった。
 どのように行動するべきかしばらく考えて、ため息をつく。
(……まあ、この程度なら、いいか)
 飲み物は少し遠慮するようにしよう、と思ったところで、だだだだと凄まじい音が響いた。音高く扉が開かれ、仰天し悲鳴をあげる女性たちの間を縫い、物を蹴り飛ばす勢いでずかずかと上がり込んできた彼に、シズカは険しい顔で叱責する。
「マサキ! 無礼者、何をしているのじゃ!」
「これはクソババアの母上、ご機嫌麗しゅう」
「くっ、く……!?」
 慇懃無礼にとてつもない暴言を吐くマサキに、シズカは絶句した。だがその怒りが爆発する前に、マサキの背後からキヨツグが現れた。
「こっ、これは何事……!?」
「頭が高い」
 キヨツグの一声に呆然としていた全員が打たれたように平伏する。
 すると彼はアマーリエが傍らに置いた漆黒の茶碗に手を伸ばし、その中身を一気に飲み干した。
 そうして次に顔を覗かせたのは宮医長のリュウだった。キヨツグが干した茶碗を受け取り、器に残っていたものを指で舐めとっている。
「どうだ、リュウ」
「緑茶に紛れていますが、ショケイソウの汁の味がいたします」
(ショケイソウ……取扱注意の表記があった薬草だ。この味がそうだったのか)
 アマーリエが口に残ったえぐみと知識を結びつけていると、キヨツグはつと、シズカに目を向けた。
「叔母上」
 シズカはびくついた身を引かせた。ひどく顔色が悪い。
 だがキヨツグはそれで容赦などしなかった。
「ショケイソウは、リリスでは薬として扱われる一方で、他種族にとっては摂取すれば害となることを、あなたは知っていたな」
 意図的に異物を混入しただろう、と彼は言っているのだ。
 シズカは笑みを貼り付けるも、その声は震えていた。
「そ、そうじゃった! 失念しておったわ、真はヒト族であったの。リリスとして認識しておったのでうっかりしていた、それは悪いことをしたのぅ」
「このクソババア、しらばっくれる気か」
「これは事故じゃ、仕方なかろう。おお、真に大事がなくてよかったこと」
 引きつった呼吸をするシズカは、扇を広げて優雅に仰ぎながら虚勢を張っている。
「認めないのか? 真夫人に毒を持ったこと」
「口が過ぎようぞ、マサキ。認めるも何も、事故じゃ。責任があるとすれば、茶を用意した者にこそあろう」
 給仕をしていた女官が「ひっ」と悲鳴をあげた。
「そ、そんな、シズカ様! わたくしはご命令に従っただけで、」
「わたくしに罪をなすりつけるなど! なんと卑劣な、恥を知れ!」
 女官はわあっと泣き崩れた。狼藉者を処罰したとばかりに清々しい顔をしているシズカだったが、マサキは大きく肩を落としている。
「わかってたけど、あんた最低だな。こっちが何もせずに乗り込んできたと思いますか?」
 彼は懐から四角い物体を取り出した。
 それは機械だった。リリス族にはわからなくても、アマーリエにはわかる。小型のそれが何のために用いられるものなのかも。
 眉をひそめるシズカにマサキはにやりとして、本体のボタンを操作した。
『……これで弱体なヒト族はころり、じゃ。楽しみじゃのう』
 空気が凍りついた。
 彼女たちは知るまい。何故その小さな箱からシズカの声が流れ出してくるのか。録音という機能を初めて目の当たりにしたはずだ。
『優れた種であるリリスにヒト族が混じるなど、汚らわしい。我が族長家はリリスに規範たらねばならぬというのに、それを乱すヒト族の真夫人など、必要ない。逃げ帰るよう仕向けてやろう。命を奪うことまではせぬ我が温情に感謝するがいいわ』
 追従の笑い声が響く最中に、マサキは停止ボタンを押した。
「これでも言い訳できますか?」
 誰も何も言わない。
 血の気が失せた青い顔でシズカはぶるぶる震えていたが、やがて目を吊り上げて怒鳴りつけた。
「偽物じゃ! 母を陥れるつもりか、マサキ!」
「偽物か否かは聞く者が決める」
 再びシズカは石のような顔色になる。
 キヨツグはそんな叔母を冷たい目で見下ろした。
「だが長老方に聞かせるまでもない。族長である私がこれを聞いたゆえに。叔母上。あなたは我が真を、毒を使って害そうとした。いくらシェン家の姫であったあなたであっても、看過できるものではない」
「――――」
「これ以上真に手出しすれば容赦はせぬ。あなたはシェン家の生まれだが、いまはリィ家の者。真を害したところでかつての栄光は戻らぬ。早急に立ち去られるがよい。――エリカ」
 アマーリエは反射的に立ち上がった。用は終わったと背を向ける彼の後に続こうとしたとき、低く轟くような声を聞いた。
「……そ…………では、ない……」
 振り向いたとき、シズカは暗く激しい怒りを宿して叫んでいた。
「そなたは天などではない! シェン家の生まれどころかどこの誰の子とも知れぬ者のくせに、族長に収まった簒奪者ではないか! いくら命山の後ろ盾があったところで、」
「母上!!」
 マサキが絶叫する。
 不自然なほどその場が静まり返った。取り巻きたちは元々そうだが、マサキまでも白い顔をしている。リュウは顔には出していなかったが眉間に皺を寄せて瞑目していた。シズカの発言の影響であることは明らかだった。
 ただ一人、アマーリエだけが状況を把握できていないようだった。
(どこの誰の子とも知れない……簒奪者……って……?)
 キヨツグはシェン家の跡継ぎとして族長になったのではないのか?
「シズカ・リィ」
 叔母上ではなく彼女の名を呼んだキヨツグだけが、ただ、静謐だった。
「口を慎め。私だけでなく命山をも虚仮にしたとなれば、相応の報いを受けることになろう。身を滅ぼしたくなくば大人しくしていろ」
 シズカは力をなくしたようにがくりと崩れ落ちた。
 それを見届けてキヨツグは去った。アマーリエたちはその後を追い、しばらく進んで見晴らしのいい回廊に出ると、そこで立ち止まった。
「よくやってくれた。マサキ。リュウ」
 リュウは一礼し、マサキは肩の力を抜くように息を吐いた。
「こちらこそ、お手数をおかけしました。アマーリエも、悪かった。これであいつがお前に関わることはなくなるはずだ。安心していいからな」
 どうやら彼らはアマーリエのために来てくれたらしい。しかも録音器を持っていたところをみると、最初から割り込むつもりだったようだ。
「……真」
 キヨツグの低い声を聞いて、反射的に背筋が伸びる。
「……薬の調合を学んでいるお前が、あの茶に含まれていた異物に気付かないわけがない。口をつけたようだったが、あえて何も言わなかったのだな?」
「…………」
 それらしい理由を並べてもよかったが、確信を持たれているのならば通用しないだろう。観念して目を伏せた。
「……一口飲んで、さほど危険はないと判断したんです。摂取する量に気をつけて、会が終わったらすぐに先生に診ていただいたら大丈夫だろうと思って」
 マサキが目を剥いた。
「そんな危ねえことしたのかよ!?」
「その場で騒いでも仕方ないし、シズカ様の気持ちが収まらないと思ったの。あの方は、きっと自分の世界が変わっていくことが不安なんだよ」
 シズカは族長を輩出するシェン家の生まれで、きっと大勢の人々に甘やかされて育ったのだろう。だからその思い出をずっと抱き続けている。時が流れるにつれて変わり、失っていくものから、見ないふり気付かないふりをするあまり、それを指摘されると怒るのだ。
「不安だから、知らないものや新しいもの、私みたいな外の世界の人間に過敏に反応するんだよ。それに多分、マサキが都市贔屓なのもあるんじゃないかな」
「俺が?」
 世界は変わる。リリスは族長の妻としてヒト族の花嫁を迎え、マサキのような都市のものに興味を抱く若者も現れた。その変化を見ていると、まるで取り残されたような気持ちになるのだろう。その焦りや悲しみを上手く表現する方法を知らなくて、自らの立場を守ったり他人を貶めたりするような言動になるのだ。
「自分のものだと思っている息子が思い通りにならないから、意固地になっているところもあるんだと思う。でもなかなか理解できないし、教えてほしいとも言えないから、ああいう態度になってしまうんだろうね」
 都市にも、プライドが高くて、周囲に当たるしかない不器用な大人たちがいた。シズカはそれと同じだと思ったのだった。
 マサキは微妙な顔をしていた。きっと心当たりがあるのだろう。
「……最年少のアマーリエに考察されるなんて、情けない人だよなあ、ホント」
「ですが、いかなる理由があろうと、飲食に適さないものをわかっていて口にするのはよろしくありません。そのように御身を粗末に扱われることのないよう、お願いいたします」
 リュウにたしなめられて、アマーリエは小さくなった。
「すみません……以後気をつけます」
「叔母上が感情的になっているというのなら、抑える者が必要だな。マサキ、お前は叔母上とともに北領に戻れ。お前が目を光らせているうちは、さほど勝手をせぬだろう」
 マサキは命令を下したキヨツグを見た後、アマーリエをちらりと見やって顔を歪めた。
「……いいんですか? あの人をリィ家に戻したら、軍を率いて王宮に舞い戻ってくるかもしれませんよ。あなたを排除して、俺を族長に就けようとするかも」
「問題ない。あの方に命山を敵に回す度胸はない」
「母上がそうでも、ここには」
 そこまで言ってマサキは口をつぐんだ。
 そうしてキヨツグをきつく睨むと、悔しそうに肩を怒らせた。
「はいはいはい、わかりました! リィ家当主として身内の咎は俺が負います。しばらく大人しくするようきつく言い聞かせておきますんで!」
「天様」
 そこへするりと滑り寄ってきて膝を落としたのは、ユイコ・ミンだった。

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